GRAVITY

文字数 2,000文字

 書きかけの原稿用紙が、宙を舞う。外には桜の花びら。――日本の春だ。この季節を迎えるのは、30回目。
 外の日差しは心を穏やかにする。春の気候は、道行く人々の気持ちを浮つかせる。私もそんなひとりで、ふわふわと風と共に踊っている。いい日だ。窓から見えていた公園では、子どもたちが遊んでいる。ボールを蹴ると、それは弧を描く。
 うらやましく思っていた光景。でも、今の私は違う。ピーターパンのように窓からふわり飛び出ると、公園へと向かう。まるで宇宙(そら)を飛ぶみたいに、地面を跳ねる。ふふっ、月のうさぎみたいね。重力なんて関係ない。ボール遊びしている子どもの耳元で、私はこそっと囁く。
「お友達、できたんだ」
 子どもは気づかないらしく、ボール遊びに夢中。それを見ているお母さん方も会話に花を咲かせている。きれいな花だ。このゆったりとした時間を切り抜いて、カメラに収めたいくらいに。ささやかで、幸せな風景だ。
 私はまたぴょんと跳ねる。この公園は私にとっての惑星。宇宙に跳ぶという感覚は、とてもいい。先ほど出てきた場所では、到底できなかったことだから。
 ――ほら月だってある。三日月だ。正しくは、三日月型の滑り台なんだけども。ジャンプして、滑り台に近づく。もう大人だし、この遊具で遊ぶと壊してしまうだろうか? いや、そんなことない。今の私は無重力。階段を使わずふわんと上に飛ぶと、あとは下るだけ。お尻を滑り台につけようとするが、あれ? 体が浮いてしまう。そうか。私は今、無重力だったんだ。地面を蹴って高くジャンプすることはできるし、遠くへも行ける。だけど、私はここの公園から出ない。今はこのユートピアで遊びたい。鈍感な想像力を、精一杯働かせて。
 ぴょんぴょん跳ねながら、サッカーをしている子たちより幼い子どもが乗っている、バネで前後に揺れる遊具の場所に移動する。油断していると体が宙に浮いて、風にさらわれてしまうので、必死に手元のコーヒーを唇に寄せる。無重力に集中すると、よおし。ふわりと地面を蹴る。バネの遊具を踏み台にして、まだ葉っぱも緑になっていない藤棚に上がる。
 ふうん、ここからの景色も悪くない。公園が一望できる。おっと、高くジャンプできるからって調子に乗りすぎたかも。この場所の視点だったら、あっちでも見られるはず。一気に地面に降りても、足に衝撃は来ない。ふわり、ふわり。軽快に、公園という名の小宇宙を行くと、小高い山がある。ここからの景色だって悪くないはず。
 風が、頬を撫でる。今の私は自然と同化している。重力はないけれど、宇宙服は必要ない。春のぬくもりが肌に触れると、何もなくたってわくわくしてくる。なんていい日だろう。少し強い風が吹いたとき、私の想像力もともにふわりと舞い上がり、先ほど出た窓に戻っていった。
「……ふう」
 公園で遊ぶ、子どもたちの声で現実に引き戻される。白昼夢かって? いいや、違う。すべては私の想像力。ものを書く仕事について、部屋に缶詰になることが多くなった。そこから出てくるアイデアなんて、たかが知れている。だから時折私は、ああやって外の公園を見ながら空想するのだ。
 風で舞ってしまった原稿用紙をデスクの上に集めると、ボールペンを走らせる。他の作家が如く万年筆でないのはご愛敬。今の空想は、原稿上の一行となる。――『私は隣の惑星を散歩し、月の花を愛でた。』たったこれだけのための、莫大な妄想。
 満月型のコースターに乗っているマグカップを持ち上げ、またコーヒーを一口。熱くはないが、おいしい。焙煎した豆の香りとともに、春のにおいも感じる。まったりとしているが、結局妄想ばかりがはかどって、原稿は一行しか進んでいない。はて、どうしたものだろう。
 そういえば、ここ数日外出していなかったっけ。外はいい天気。なのに原稿が終わらないという理由で、出不精になっていた。まったくもって滑稽だ。心だけは窓から見える公園でふわふわしていたというのに。
 気分転換になるかもな。私はマグカップに蓋をして立ち上がると、ロングカーディガンを羽織り、玄関に向かう。これは空想ではない。現実だ。
 宇宙服でも何でもない格好。靴も底の薄いスニーカーだ。先ほどみたいに地面を軽く蹴るだけで高く、無重力のように跳ぶことはできない。靴紐を結ぶと、鍵を持って外に出た。
「先生、こんにちは。おでかけですか?」
「ええ、ちょっと散歩に」
「行ってらっしゃい」
 近所の方に声をかけられる。地面にきちんと足をつけて歩いていると、目の前に現れたのは……。お天気雨でも降ったわけでもないのに。神様も粋な計らいだ。そうだ、次はあの虹まで走ってみよう。きっとふもとがないから、目指して走ればどこまでも行けるだろう。
 空想の力は借りず、今度は自分の足であの虹の先まで。真っ白だった原稿用紙に宿った一行の虹。それを目指すなんて、まるで私の小説のようだ。
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