第1話

文字数 1,975文字

 うちの猫・マタネは、いつも朝早くから僕を起こしてくれるんだ。休みの日だっておかまいなしに。
 僕の顔のすぐ真横、ほぼゼロ距離で鼻息をフンフンさせながら鳴くんだ。

 一人暮らしを始めてしばらくした頃に、ふっと寂しさを感じるようになって。友達の家で生まれた子猫を一匹貰うことにした。すべてを共有できるわけじゃない。噛み合わないことだらけ。それでもマタネと暮らし始めて僕の日々は豊かになった。

 おかしいな。今朝も顔のすぐ横にいる。でも鳴かない。温もりも感じる。でも変だ。目を開けて、横を向く。マタネは眠っている。けど、いつものフンフンがない。
 11歳。老衰。この前、還暦のお祝いをしたばかりなのに。マタネを抱きしめながら僕は、急な体調不良だと会社に電話して、三日も休みをもらった。

 忙しく仕事をしている方が気が紛れる。残業もむしろありがたい。部屋に長くいるほど、マタネを思い出すから。
 黙々とパソコン業務をしていると、いつものように、社長からの労いのお菓子が配られる。僕は何も気にせず、口に入れた。甘くて苦い。チョコレートだ。久しぶりに食べたな。
「先輩、大丈夫ですか?」
向かいに座る後輩・日向ナツネが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫だよ」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
体調を気遣ってくれているのか。少し後ろめたいな。

 夜、一人残業していると
「おつかれさまです」
と声をかけられる。日向だった。
「大丈夫ですか?」
「ありがとう。もう少しだ」
「そうじゃなくて、猫ちゃんのことです」
「え? なんで!?」
驚いた。会社では公言していないのに。
「今日チョコを食べてましたから。
猫にとっては毒なのに」
「よく知ってるな」
そう。猫にとってチョコレートの成分は中毒性があり、場合によっては死に至る。
「私も猫暮らしですし、それに…」
日向は下を向き
「私も亡くしたことがありますから」
「そうだったのか」
普段どおりのつもりでいたけど
「猫は大切な家族です。
辛いに決まってます」
そうなんだ。僕は家族を失った。その事実を受け止めたくなくて、考える時間から逃げていた。なのに
「聞かせてください。猫ちゃんの思い出」
なんなんだ、ズケズケと。そんなに言うなら話してやるさ。
 すぐに仕事を切り上げて、一緒に向かったファミレス。怒りにも似た感情で僕は話し始めた。出会いから別れの日までを詳細に。気がつけば2時間を超えていた。そういえば、マタネのことを他人に話したのは初めてだ。涙が流れていた。

「…ふぅ、少し楽になったよ」
日向も涙を拭いた後、明るく言った。
「そうだ、先輩。明日のお休み、予定は
空いてますか?」
「え? ああ」
「私につきあってほしいんですけど」
無防備な僕は押しに負けて、何もわからないまま引き受けてしまった。

 次の日、指定の場所(鉄筋の三階建て)に行くと、日向が大きく手を振っている。
「おはようございます、こっちです」
「ここって…」
「私の実家です、どうぞ」
この雰囲気。猫好きならわかってしまう。ここは猫暮らしの家だ。しかも
「たくさんいるな」
「ええ、保護猫シェルターなんですよ」
「そういうことか」
「ふふ、まさに猫の手も借りたくて」
入るなり、頼まれたのは
「この子をお願いします」
まだ1歳にもなっていない子猫。
「まだうまくミルクを飲めなくて。
付いててもらえますか」
無理させず根気強く、まずはミルクの味を覚えさせる。少しずつ舐め、飲み始めた。
「さすがですね」
「あ、いやマタネもこうで」
「ふふ、そうなんだ。もう大丈夫ですね。私たちもお昼にしましょう」
 昼食後も慌ただしく、たくさんの猫の世話をしたのは初めてで、夢中だった。

 結局、晩御飯までごちそうになり、
「明日も休みなら、泊まっていってさ。
そして明日もよろしくな」
と、日向の父親の笑顔に押し切られて泊まることに。その日は久々の猫空気のおかげか、よく眠れた。
 次の朝は、猫たちの大合唱に起こされた。昨日の子猫の世話に始まり、その日も目まぐるしい一日になった。

「先輩、お茶にしましょう」
お茶菓子は手作りクッキーだった。
「これ、義理クッキーで貰ったな」
「覚えててくれたんですね」
「もしかしたらと思ってたけど」
「ふふ、お互い相手の猫暮らしには感づいてたんですね」
イタズラに笑う日向に正直に伝える。
「ありがとう。まだ寂しいけど、
これからも猫を好きでいられそうだ」
「ごめんなさい。先輩の気持ちも考えないで無理を」
「いや、一人じゃ動けなかったから」
「よかった…。いつも助けてもらって、
お礼がしたかったから」
「それなら、頼みがあるんだけど…」

 その日以来、保護猫活動を手伝わせてもらっている。あの子猫・フタバは今、僕の新しい家族になった。ときどき宙を見ながら、楽しそうに遊んでいるときがある。
「マタネがいるのかもな」
僕が呟くと
「そうですね」
とナツネが微笑んだ。
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