第1話
文字数 5,788文字
太陽が東の空へと逃げ、麦の穂のように並んだ細長い雲からその威光をささやかに覗かせる頃。旅人はようやく森を抜けてその辺境の村へと辿り着いた。
背後では空に両手を広げたブナの木がその影を静かにざわつかせている。
「止まれ」
周りを柵で囲まれたその村の入り口の前に立った守衛が手を前に掲げて男の行手を阻んだ。
「何者だ?ここから先はルイセット候の領地である。汝の用を申せ」
森の一部を伐採して出来た村はその奥に領主の根城を構える。数百年ほど前に王族が狩りを楽しむために建てさせた夏用の別荘であった。
男は落ち着いて伯爵の守衛を見返した。鹿のような知的な瞳が門番を臆すことなく捉える。
「私はゴーデン村の向こうからやってきた、絵描きです。伯爵が結婚されると聞いて、ぜひその様子を描きたいと思ったのです」
守衛は背中に大きな荷物を背負った埃っぽい男の格好を上から下まで眺めた。
やがてふうん、と言って彼は肩を竦めた。
「残念だったな、それには数日遅かった。領主の婚礼日にしては静かだろう」
彼はそこで声を潜めて、後ろをちらりと見ると続けた。
「それは花嫁が消えたからだ」
「それは」
旅人は眉をあげて驚きの意を示すと、たずねた。
「なぜ?」
「それが分かれば苦労はないがな。そうだろう?」
守衛は苦々しく言って、姿勢を正した。
「花嫁が見つかるまで村人はここから出られねえ。そういうことだ、諦めな」
「花嫁の事は残念だが、今夜は森を抜けられません。それに入ることは禁止されたわけではないのでしょう」
夜の森には獣が出る。一人で夜道を行くのは困難であることは周知の事実であった。もうひと押しとばかりに旅人は懐の金袋を取り出す。
「通行料ならば、ほらここに」
土を踏み踏み旅人は村の中へ歩を進める。
旅人は、乳褐色の壁の黄色いハリエニシダに囲まれた家にまで行くと、その木の扉を叩き始めた。やがて中からこちらを伺う背の低い老婆が扉の隙間から顔を覗かせた。
「どなたさんで?」
「旅の者です。画家をしております。はるばる南方よりやってきましたが、泊まる宿がありませぬ」
旅人がそう答えると、老女の雰囲気が和らぐ。
「あらまあ、それはそれはお気の毒に。構うものなんてありませんがどうぞお入りになりなさい」
代わりの守衛が夜の明かりを持って土を踏む音を背後に、扉は軋む音を立てて後ろ手に閉まった。
---
鼻から吸い込む空気がつめたい。
永久牧草とも言われるフェスキュが足元で青々と四方に伸びている。
家の軒並みを村人が進むと、村の開けた一角に村人が数人集まっていた。その中心には布を地面に広げてパンや野菜を並べただけの出来合いの市場があった。
「どうもこんにちは」
旅人は老婆から託された三枚のショールを手に近づいて、先に声をかけた。村人は興味深そうに旅人を上から下まで見て、応答する。
「お宅、見ない顔だね」
「昨日からそこのお婆さんの家にお世話になっている、画家です。ゴーデン村の向こうからきました。お婆さんの出かけている間に何か食物と交換するように言いつかりました」
村人は眉をあげてため息をついた。
「いつもだったら買い手もつきそうだがね、今はみんな食料が欲しいんだよ。なんせ、領主の命で今は外にも出られない。畑は外にもあるし、隣の村と交易もしたいのに」
「何があったのです」
その村人は隣の住人と顔を見合わせる。
「本当に聞いていないのかい?」
意外そうな口調に旅人は首を傾げて見せた。
コソコソと二人は囁く。
「無理もない。いなくなったのはあの人の孫娘さ」
「話したくもない気持ちはわからんでもないよ」
やがてもう一人が訳知り顔で話し出した。
「もう七日も前になるが、伯爵さまの花嫁が婚姻の前の日に姿を消したのさ。花嫁と言っても村の娘だよ。あんたの泊まっている家のたった一人の孫娘で、伯爵が偶然祭りで目にしてお見そめになった。隣町から評判の仕立て屋を何人も呼んで、それはそれは美しい花嫁衣装も用意したってさ」
伯爵に見そめられて丘の上の城へ向かった村娘は、婚前の準備を進めている最中に忽然と化粧室から姿を消したと村人は語った。その後村を流れる川の橋の下に靴が引っかかっているのが見つかったという。しかし伯爵は娘の死を認めず、村の隅から隅まで兵士を派遣して娘の行方を追っている。
「門番は毎朝毎晩村を出ていく者がいないか見張っているよ」
「このままじゃあいつになるか分からない。いい子だったがね、娘の亡霊と一緒にいつまでもここに閉じ込められたらたまらない」
「もしあの子が川に身を投げたのなら、運河に流されてしまったに違いないよ」
口々に村人は言い合った。
その時、旅人の目線の先で表情をこわばらせた若者がいた。丈の高いその青年は身を翻すと広場から離れて言った。
「かわいそうに」
旅人と話をしていた村人がいつの間にか彼のと同じ先を見ていた。訳知り顔で彼はいう。
「みんな花嫁が死んだなんて信じたくないのさ。伯爵と同じでね」
そう言って次に村人の向けた目線の先に、一際背の高い古城があった。
---
石畳の敷き詰められた道の前、旅人は立ち止まった。扉の前には門兵が二人立っていた。
「見ない顔だな」
「ゴーデン村の向こうから来た画家です」
「画家か。今は伯爵様は取り込み中だ。お前に関わっている暇はない」
「そこをなんとか。美しい絵は気晴らしになりますよ」
気晴らし、という言葉に門兵は少し考えている様子だった。やがて旅人から彼の絵を数枚受け取ると、彼は門の中に入って行った。空の白い雲を追うことしばらくして、彼は戻ってきた。
「伯爵様の息子様が、旅をする画家というのに興味があるそうだ。入るといい」
「伯爵様の息子?」
彼は芸事に秀でた聡明な少年を思い浮かべる。しかし城内でまみえたのは年の頃五十も行っただろう立派な髭をヴァン・ダイク風に上向きに立つよう整えた紳士だった。
ということは、と旅人はその隣の老人を忍び見る。
「画家はすでに事足りておる」
しわがれた声でそう言ったのは、伯爵その人だった。気難しそうな眉間の皺はもはやいつからあるのか、消えることがない。髪は真っ白で、縮んだ骨のためか、立派な椅子に腰を深く降ろした姿を一層小さく見せていた。
「まあ、父上。絵はいくらあっても良いと言っていたのはどなたですか」
「当の花嫁がおらぬでは意味がないではないか!」
伯爵は突如声を荒げて勢いのまま椅子から立ち上がる。広間に声がわっと広がった後の静寂。肩がわなわなと震えている。
「花嫁が見つかるまでは、旅人だろうが村民だろうが誰一人として領地から出しはせん」
そう言った伯爵の視線の先、彼の左手には大きなキャンバスが立ててあった。よたよたと老人は歩いて行って、キャンバスに掛けられていた白布を掴みさっと引いた。
それは婚前画であった。
絵画の中の伯爵は少なくとも10は若く見える。それよりも隣に座る薄幸そうな娘の方が目を惹いた。
「確かに美しい娘です」
そう絵描きは言った。淡い栗色の髪に新緑色の目は透き通るようで、全体的にほっそりとしたシルエットの若い女性。
しかし彼には婚前画にしては真剣すぎるような、思い詰めたようなその瞳が引っかかった。
「本物の娘には叶わない」
伯爵は嘆くような、それでも誇るような口調で頭を振った。
「花嫁が消えた理由に本当に心当たりはないので?」
「もちろんだ」
伯爵は噛み付くように返した。
「一介の村娘が伯爵家に嫁ぐ、これ以上の幸福はなかったろうに」
そこで旅人はまだ椅子の隣に立った伯爵の息子の視線に気がついた。直線上で目が合う。その瞳に浮かぶ感情は、諦念、憐れみ、それともーーー。
その時扉を開けて召使いが一人やってきて伯爵に何か耳打ちした。
「なに」
かっと伯爵が目を開いた。
「今すぐ占を聞かせろ!」
画家の事などまるで忘れてしまったかのように彼は入口の部屋に呼ばわった。扉が開いて、中から色褪せたショールを肩にかけた見知った老女が現れる。旅人の泊まっている家の主、花嫁の祖母だった。
「見つかったか!」
「孫は……」
老女はその感情の読み取りづらい深い皺に覆われた口を動かして言った。
「花嫁は、暗い、暗い場所にいるようです」
「どういう意味だ」
「分かりませぬ……見たことのない場所でした。もはやこの世のものではないかのように」
「天国とは暗い場所にあらず!」
伯爵は再び激昂した。
「わしはこの目で見らぬと信じぬ。村を探せ、一つ一つ家探しをしろ。娘が見つかるまではこの村で結婚式を見ることはない」
---
「父上はそういう人であるからな」
そう言って男は繊細な模様のティーカップを口の前に上げた。彼にコレクションを見せるようにと別室に呼ばれたものの、画家は所在なさげに立ったまま相槌を打った。
「花嫁の消えた日に試着を手伝っていたのは私の妻の侍女達だが、怪しい人間は見なかったとの事だ」
彼は皿の上のパティスリーをつまんで持ち上げる。赤いジャムが白いクッキー生地に美しい。
「そのうちの一人は結婚を控えているらしい。これ以上我慢させると妻も村民も黙ってはいないだろう」
テーブルの上には手のひらほどの聖書が置いてある。
「さて、あなたも職人でしょう。こんなところで菓子を貪るだけでなく、行ってあなたのなすべきことをされたら良い。村の橋のあたりなどは野草が多く咲き誇り大変美しいですよ」
画家は結局一度も菓子に手はつけなかったのだけれど、彼は伯爵邸を後にした。やがて目的の場所に辿り着くと、なるほど美しい橋である。彼は手前に座って画架を背中から下ろすと、橋の情景を描き始めた。
---
二日後、伯爵邸に知らせが飛び込んできた。娘を見たという知らせである。
伯爵は急いで馬車を走らせて村へ向かった。
老婆の家の前に人だかりが出来ており、中から出てきた人は泣いている。
「信じぬぞ……わしは信じぬ」
言いながら、老人はこめかみに青い血管をぴくぴくと浮かせた。どの感情よりも先に怒りが先行するのがこの老人の性格であった。
彼は侍従に支えてもらいながら馬車から踏み出した。
人々が伯爵に気がついて道を開ける。
乳褐色の壁の家。足元には黄色い小さな野草が植っている。
開いている扉の先に足を踏み入れ、部屋の奥にあるものを見て老人はうめき声を上げた。
それは間違いなく花嫁であった。花嫁姿のまま伯爵邸から彷徨い出て、橋から身を落とした彼女の姿。
それは小川に浮かぶ彼女の絵姿であった。
「孫が私の夢に出てきて言うのです。真実を伝えてほしいと……」
部屋の隅の椅子に腰変えていた老婆が言った。
「このまま村の人々を苦しめるのは忍びない、浮かばれないのだと。私はその日あの子が何をしたかを、まるでその場にいたかのように夢に見ました。そしてそれをそのままこの画家の方に伝えたのです」
伯爵は絵に魂を吸い込まれたかのようにぼうっとしていた。その乾いた目は娘の顔に吸い込まれていた。あの世の境目に足を踏み入れた、その顔はこの世のものでないかのように美しかった。その顔に苦しみはなく、神々しいまでの安寧の表情だけがあった。肌は透き通るように白く水中から光り、儚くなる前の人特有の達観した高貴さが顔に浮かんでいた。うっすらと開いた唇は今にも何かを語り始めるようだった。
「なぜだ」
弱った獣のような声で伯爵は呻いた。
「なぜ娘は死んだ?」
「それは」
老婆は物悲しげな表情で語る。
「鏡に映る姿を見てあの娘は悟ったのです……これ以上に若く美しく有れる時はもはや訪れないと」
「おお……なんという」
公爵は頭を抱える。
「公爵の花嫁である名誉の時に、」
老婆は続ける。その顔にはかつての若さの面影はない。
「人生で最も美しい瞬間を永遠にするために」
伯爵はわっと絵に縋って泣き始めた。
「なんと健気なことか」
老人は絵の花嫁の頬を撫でながら言った。
「この絵をあなたにおささげしたい」
今まで控えていた画家がすかさずそう言った。
「私の最高傑作です。しかし、この絵はあなたの手元にあるのが相応しい」
老人は涙をふきふき立ち上がった。
「画家よ、この絵は私の花嫁そのもの。代わりに褒美を好きなだけ持っていくがいい。手に持てなければ荷馬車をつけてお前の村まで送ってやろう」
「御者を歩いて帰らせるには及びません」
画家は丁寧にそう言って、頼んだ。
「荷物を乗せるための荷馬車と馬を一頭用意してくだされば」
---
画家は明け方に村を出た。後ろから見送る村人の気配がしなくなってしばらく経った頃である。
「やあ、そろそろいいだろう」
荷物の山がごそごそと動き出して、二人の影が頭を出した。
「ああ、私達やっと自由になれたのね」
そう言ったのは死んだはずの花嫁であった。
「そうだよきみ、これからどこにでも行こうじゃないか」
もう一人の若者が言って、彼女を抱きしめた。それは旅人が広場で見た背の高い若者であった。
「あなたのおかげです、なんとお礼を言えばいいか。あなたがいなければ俺たちはきっと村から出られずに、いずれ彼女のいる家の地下室も見つかってしまっていたでしょう」
「いいや、私は宿泊代の代わりにただ絵を描いただけです。おばあさんも、あなた方も、みんなが力を合わせたからこそあなた方は自由になれたのです」
「ああ、でもあなたは私たちの恩人です。私は伯爵夫人の身分など欲しくはありませんでした。祖母もわかってくれました。しかし伯爵はああ言ったお方ですから、断ればどんな目に合うか。きっと私も祖母も、みな罰を受けたでしょう」
「私たち二人は何もないけれど、伯爵の褒美がお礼の代わりになれば。私たちはどこかで降りて、そしてどこへとでも行きましょう」
「それには及ばない」
馬の上の男は答えた。
「この先私が先に降りましょう。あなた方は荷物を売り払い、ずっと先にまで行くのです。噂も届かぬ場所まで行って、そして新しく生活をお始めになりなさい」
「何をおっしゃるんです。この褒美はあなたのものです」
二人はあわてて身振り手振り荷馬車から訴える。
「私は画家です。金のためならいつだって絵を描いて売ることができます。でもいつか、心から美しいと思うものを描きたいと思って生きてきました」
馬は湿った大地を踏み締め進む。森の向こうに光が見える。
「あなた方は私に見せてくれました。この世で最も美しいものを」
明け方の空は白味がかった群青をしている。東の空から金色に輝く太陽が登り、一行にエーオスの祝福を投げかけていた。
背後では空に両手を広げたブナの木がその影を静かにざわつかせている。
「止まれ」
周りを柵で囲まれたその村の入り口の前に立った守衛が手を前に掲げて男の行手を阻んだ。
「何者だ?ここから先はルイセット候の領地である。汝の用を申せ」
森の一部を伐採して出来た村はその奥に領主の根城を構える。数百年ほど前に王族が狩りを楽しむために建てさせた夏用の別荘であった。
男は落ち着いて伯爵の守衛を見返した。鹿のような知的な瞳が門番を臆すことなく捉える。
「私はゴーデン村の向こうからやってきた、絵描きです。伯爵が結婚されると聞いて、ぜひその様子を描きたいと思ったのです」
守衛は背中に大きな荷物を背負った埃っぽい男の格好を上から下まで眺めた。
やがてふうん、と言って彼は肩を竦めた。
「残念だったな、それには数日遅かった。領主の婚礼日にしては静かだろう」
彼はそこで声を潜めて、後ろをちらりと見ると続けた。
「それは花嫁が消えたからだ」
「それは」
旅人は眉をあげて驚きの意を示すと、たずねた。
「なぜ?」
「それが分かれば苦労はないがな。そうだろう?」
守衛は苦々しく言って、姿勢を正した。
「花嫁が見つかるまで村人はここから出られねえ。そういうことだ、諦めな」
「花嫁の事は残念だが、今夜は森を抜けられません。それに入ることは禁止されたわけではないのでしょう」
夜の森には獣が出る。一人で夜道を行くのは困難であることは周知の事実であった。もうひと押しとばかりに旅人は懐の金袋を取り出す。
「通行料ならば、ほらここに」
土を踏み踏み旅人は村の中へ歩を進める。
旅人は、乳褐色の壁の黄色いハリエニシダに囲まれた家にまで行くと、その木の扉を叩き始めた。やがて中からこちらを伺う背の低い老婆が扉の隙間から顔を覗かせた。
「どなたさんで?」
「旅の者です。画家をしております。はるばる南方よりやってきましたが、泊まる宿がありませぬ」
旅人がそう答えると、老女の雰囲気が和らぐ。
「あらまあ、それはそれはお気の毒に。構うものなんてありませんがどうぞお入りになりなさい」
代わりの守衛が夜の明かりを持って土を踏む音を背後に、扉は軋む音を立てて後ろ手に閉まった。
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鼻から吸い込む空気がつめたい。
永久牧草とも言われるフェスキュが足元で青々と四方に伸びている。
家の軒並みを村人が進むと、村の開けた一角に村人が数人集まっていた。その中心には布を地面に広げてパンや野菜を並べただけの出来合いの市場があった。
「どうもこんにちは」
旅人は老婆から託された三枚のショールを手に近づいて、先に声をかけた。村人は興味深そうに旅人を上から下まで見て、応答する。
「お宅、見ない顔だね」
「昨日からそこのお婆さんの家にお世話になっている、画家です。ゴーデン村の向こうからきました。お婆さんの出かけている間に何か食物と交換するように言いつかりました」
村人は眉をあげてため息をついた。
「いつもだったら買い手もつきそうだがね、今はみんな食料が欲しいんだよ。なんせ、領主の命で今は外にも出られない。畑は外にもあるし、隣の村と交易もしたいのに」
「何があったのです」
その村人は隣の住人と顔を見合わせる。
「本当に聞いていないのかい?」
意外そうな口調に旅人は首を傾げて見せた。
コソコソと二人は囁く。
「無理もない。いなくなったのはあの人の孫娘さ」
「話したくもない気持ちはわからんでもないよ」
やがてもう一人が訳知り顔で話し出した。
「もう七日も前になるが、伯爵さまの花嫁が婚姻の前の日に姿を消したのさ。花嫁と言っても村の娘だよ。あんたの泊まっている家のたった一人の孫娘で、伯爵が偶然祭りで目にしてお見そめになった。隣町から評判の仕立て屋を何人も呼んで、それはそれは美しい花嫁衣装も用意したってさ」
伯爵に見そめられて丘の上の城へ向かった村娘は、婚前の準備を進めている最中に忽然と化粧室から姿を消したと村人は語った。その後村を流れる川の橋の下に靴が引っかかっているのが見つかったという。しかし伯爵は娘の死を認めず、村の隅から隅まで兵士を派遣して娘の行方を追っている。
「門番は毎朝毎晩村を出ていく者がいないか見張っているよ」
「このままじゃあいつになるか分からない。いい子だったがね、娘の亡霊と一緒にいつまでもここに閉じ込められたらたまらない」
「もしあの子が川に身を投げたのなら、運河に流されてしまったに違いないよ」
口々に村人は言い合った。
その時、旅人の目線の先で表情をこわばらせた若者がいた。丈の高いその青年は身を翻すと広場から離れて言った。
「かわいそうに」
旅人と話をしていた村人がいつの間にか彼のと同じ先を見ていた。訳知り顔で彼はいう。
「みんな花嫁が死んだなんて信じたくないのさ。伯爵と同じでね」
そう言って次に村人の向けた目線の先に、一際背の高い古城があった。
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石畳の敷き詰められた道の前、旅人は立ち止まった。扉の前には門兵が二人立っていた。
「見ない顔だな」
「ゴーデン村の向こうから来た画家です」
「画家か。今は伯爵様は取り込み中だ。お前に関わっている暇はない」
「そこをなんとか。美しい絵は気晴らしになりますよ」
気晴らし、という言葉に門兵は少し考えている様子だった。やがて旅人から彼の絵を数枚受け取ると、彼は門の中に入って行った。空の白い雲を追うことしばらくして、彼は戻ってきた。
「伯爵様の息子様が、旅をする画家というのに興味があるそうだ。入るといい」
「伯爵様の息子?」
彼は芸事に秀でた聡明な少年を思い浮かべる。しかし城内でまみえたのは年の頃五十も行っただろう立派な髭をヴァン・ダイク風に上向きに立つよう整えた紳士だった。
ということは、と旅人はその隣の老人を忍び見る。
「画家はすでに事足りておる」
しわがれた声でそう言ったのは、伯爵その人だった。気難しそうな眉間の皺はもはやいつからあるのか、消えることがない。髪は真っ白で、縮んだ骨のためか、立派な椅子に腰を深く降ろした姿を一層小さく見せていた。
「まあ、父上。絵はいくらあっても良いと言っていたのはどなたですか」
「当の花嫁がおらぬでは意味がないではないか!」
伯爵は突如声を荒げて勢いのまま椅子から立ち上がる。広間に声がわっと広がった後の静寂。肩がわなわなと震えている。
「花嫁が見つかるまでは、旅人だろうが村民だろうが誰一人として領地から出しはせん」
そう言った伯爵の視線の先、彼の左手には大きなキャンバスが立ててあった。よたよたと老人は歩いて行って、キャンバスに掛けられていた白布を掴みさっと引いた。
それは婚前画であった。
絵画の中の伯爵は少なくとも10は若く見える。それよりも隣に座る薄幸そうな娘の方が目を惹いた。
「確かに美しい娘です」
そう絵描きは言った。淡い栗色の髪に新緑色の目は透き通るようで、全体的にほっそりとしたシルエットの若い女性。
しかし彼には婚前画にしては真剣すぎるような、思い詰めたようなその瞳が引っかかった。
「本物の娘には叶わない」
伯爵は嘆くような、それでも誇るような口調で頭を振った。
「花嫁が消えた理由に本当に心当たりはないので?」
「もちろんだ」
伯爵は噛み付くように返した。
「一介の村娘が伯爵家に嫁ぐ、これ以上の幸福はなかったろうに」
そこで旅人はまだ椅子の隣に立った伯爵の息子の視線に気がついた。直線上で目が合う。その瞳に浮かぶ感情は、諦念、憐れみ、それともーーー。
その時扉を開けて召使いが一人やってきて伯爵に何か耳打ちした。
「なに」
かっと伯爵が目を開いた。
「今すぐ占を聞かせろ!」
画家の事などまるで忘れてしまったかのように彼は入口の部屋に呼ばわった。扉が開いて、中から色褪せたショールを肩にかけた見知った老女が現れる。旅人の泊まっている家の主、花嫁の祖母だった。
「見つかったか!」
「孫は……」
老女はその感情の読み取りづらい深い皺に覆われた口を動かして言った。
「花嫁は、暗い、暗い場所にいるようです」
「どういう意味だ」
「分かりませぬ……見たことのない場所でした。もはやこの世のものではないかのように」
「天国とは暗い場所にあらず!」
伯爵は再び激昂した。
「わしはこの目で見らぬと信じぬ。村を探せ、一つ一つ家探しをしろ。娘が見つかるまではこの村で結婚式を見ることはない」
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「父上はそういう人であるからな」
そう言って男は繊細な模様のティーカップを口の前に上げた。彼にコレクションを見せるようにと別室に呼ばれたものの、画家は所在なさげに立ったまま相槌を打った。
「花嫁の消えた日に試着を手伝っていたのは私の妻の侍女達だが、怪しい人間は見なかったとの事だ」
彼は皿の上のパティスリーをつまんで持ち上げる。赤いジャムが白いクッキー生地に美しい。
「そのうちの一人は結婚を控えているらしい。これ以上我慢させると妻も村民も黙ってはいないだろう」
テーブルの上には手のひらほどの聖書が置いてある。
「さて、あなたも職人でしょう。こんなところで菓子を貪るだけでなく、行ってあなたのなすべきことをされたら良い。村の橋のあたりなどは野草が多く咲き誇り大変美しいですよ」
画家は結局一度も菓子に手はつけなかったのだけれど、彼は伯爵邸を後にした。やがて目的の場所に辿り着くと、なるほど美しい橋である。彼は手前に座って画架を背中から下ろすと、橋の情景を描き始めた。
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二日後、伯爵邸に知らせが飛び込んできた。娘を見たという知らせである。
伯爵は急いで馬車を走らせて村へ向かった。
老婆の家の前に人だかりが出来ており、中から出てきた人は泣いている。
「信じぬぞ……わしは信じぬ」
言いながら、老人はこめかみに青い血管をぴくぴくと浮かせた。どの感情よりも先に怒りが先行するのがこの老人の性格であった。
彼は侍従に支えてもらいながら馬車から踏み出した。
人々が伯爵に気がついて道を開ける。
乳褐色の壁の家。足元には黄色い小さな野草が植っている。
開いている扉の先に足を踏み入れ、部屋の奥にあるものを見て老人はうめき声を上げた。
それは間違いなく花嫁であった。花嫁姿のまま伯爵邸から彷徨い出て、橋から身を落とした彼女の姿。
それは小川に浮かぶ彼女の絵姿であった。
「孫が私の夢に出てきて言うのです。真実を伝えてほしいと……」
部屋の隅の椅子に腰変えていた老婆が言った。
「このまま村の人々を苦しめるのは忍びない、浮かばれないのだと。私はその日あの子が何をしたかを、まるでその場にいたかのように夢に見ました。そしてそれをそのままこの画家の方に伝えたのです」
伯爵は絵に魂を吸い込まれたかのようにぼうっとしていた。その乾いた目は娘の顔に吸い込まれていた。あの世の境目に足を踏み入れた、その顔はこの世のものでないかのように美しかった。その顔に苦しみはなく、神々しいまでの安寧の表情だけがあった。肌は透き通るように白く水中から光り、儚くなる前の人特有の達観した高貴さが顔に浮かんでいた。うっすらと開いた唇は今にも何かを語り始めるようだった。
「なぜだ」
弱った獣のような声で伯爵は呻いた。
「なぜ娘は死んだ?」
「それは」
老婆は物悲しげな表情で語る。
「鏡に映る姿を見てあの娘は悟ったのです……これ以上に若く美しく有れる時はもはや訪れないと」
「おお……なんという」
公爵は頭を抱える。
「公爵の花嫁である名誉の時に、」
老婆は続ける。その顔にはかつての若さの面影はない。
「人生で最も美しい瞬間を永遠にするために」
伯爵はわっと絵に縋って泣き始めた。
「なんと健気なことか」
老人は絵の花嫁の頬を撫でながら言った。
「この絵をあなたにおささげしたい」
今まで控えていた画家がすかさずそう言った。
「私の最高傑作です。しかし、この絵はあなたの手元にあるのが相応しい」
老人は涙をふきふき立ち上がった。
「画家よ、この絵は私の花嫁そのもの。代わりに褒美を好きなだけ持っていくがいい。手に持てなければ荷馬車をつけてお前の村まで送ってやろう」
「御者を歩いて帰らせるには及びません」
画家は丁寧にそう言って、頼んだ。
「荷物を乗せるための荷馬車と馬を一頭用意してくだされば」
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画家は明け方に村を出た。後ろから見送る村人の気配がしなくなってしばらく経った頃である。
「やあ、そろそろいいだろう」
荷物の山がごそごそと動き出して、二人の影が頭を出した。
「ああ、私達やっと自由になれたのね」
そう言ったのは死んだはずの花嫁であった。
「そうだよきみ、これからどこにでも行こうじゃないか」
もう一人の若者が言って、彼女を抱きしめた。それは旅人が広場で見た背の高い若者であった。
「あなたのおかげです、なんとお礼を言えばいいか。あなたがいなければ俺たちはきっと村から出られずに、いずれ彼女のいる家の地下室も見つかってしまっていたでしょう」
「いいや、私は宿泊代の代わりにただ絵を描いただけです。おばあさんも、あなた方も、みんなが力を合わせたからこそあなた方は自由になれたのです」
「ああ、でもあなたは私たちの恩人です。私は伯爵夫人の身分など欲しくはありませんでした。祖母もわかってくれました。しかし伯爵はああ言ったお方ですから、断ればどんな目に合うか。きっと私も祖母も、みな罰を受けたでしょう」
「私たち二人は何もないけれど、伯爵の褒美がお礼の代わりになれば。私たちはどこかで降りて、そしてどこへとでも行きましょう」
「それには及ばない」
馬の上の男は答えた。
「この先私が先に降りましょう。あなた方は荷物を売り払い、ずっと先にまで行くのです。噂も届かぬ場所まで行って、そして新しく生活をお始めになりなさい」
「何をおっしゃるんです。この褒美はあなたのものです」
二人はあわてて身振り手振り荷馬車から訴える。
「私は画家です。金のためならいつだって絵を描いて売ることができます。でもいつか、心から美しいと思うものを描きたいと思って生きてきました」
馬は湿った大地を踏み締め進む。森の向こうに光が見える。
「あなた方は私に見せてくれました。この世で最も美しいものを」
明け方の空は白味がかった群青をしている。東の空から金色に輝く太陽が登り、一行にエーオスの祝福を投げかけていた。