第1話

文字数 1,998文字

 生涯にわたって愛することになる女性に出会ったのは、昭和38年の大学1年生の夏であった。
 山岳部に一も二もなく飛び込み、先輩たちに連行された夏の北アルプスで、わたしは恋をした。
 穂高という山に恋をした。

 ルートは上高地~涸沢~穂高という標準的なものだったが、入部したての新米にはつらい行程だった。テント泊装備一式は32キログラムにも達し、一歩ごとに足が地面に沈むかのようだった。死ぬ思いでたどり着いた盛夏の涸沢で、わたしは度肝を抜かれた。
 アーベントロート(夕焼け)に染まる穂高が、残雪を抱いた朱色に染まる穂高がわたしの瞳を貫通し、脳髄に突き刺さった。
「おいどうした、ボーっと突っ立って」
 先輩が顔の前で手を振った。払いのけた。魅入っていた。いや、魅入られていたのかもしれない。

 社会人になってからもわたしの穂高熱は高まるばかりだった。北アルプスに入り浸る日々が続いた。あまりにも足しげく通ったため、すっかり山小屋の主と顔見知りになってしまう始末だった。
「穂高好きを公言する山屋は多いけど、あんたみたく毎月来てるようなのは滅多にいないね」山小屋の主は酒をちびちび飲んでいる。「厳冬期はやるのかい」
「実はまだなんです」
「自殺幇助になるからあんまり言いたくないんだが」主が一升瓶から酒を注いでくれた。「冬の穂高に登って初めて、彼女をホントに愛したことになる。俺はそう思うね」
「なぜ冬だけ特別扱いするんです」
「冬は穂高が雪化粧(おめかし)するもっとも美しい季節だぜ。なによりいい女に苦労して会いにいく。最高にロマンチックじゃないか」

 新穂高温泉から蒲田富士を経由し、涸沢岳~奥穂高のルートで挑戦した。1日めは数メートルはある深雪の急登をラッセルし、2,400メートル付近で幕営。夜はあまりの寒さに眠ることすらできなかった。
 2日めは深夜4時に出発、テントを残して穂高へアタックをかける。蒲田富士より上は足の置き場もないナイフリッジで、雪庇を踏み抜けば奈落へ真っ逆さまである。命からがら稜線へ出ると、身体ごと吹き飛ばされそうな烈風が吹き荒れていた。風が強すぎて数メートル歩くのに10分以上かかるありさまだ。
 涸沢岳から白出のコルへ駆け下り、眼前に立ちはだかる穂高の威容を仰ぎ見る。絶壁に近いとっかかりをピッケルとキックステップでクリア、あとは再び風との戦いであった。気を失いかけながら、何度も膝を屈しながら、わたしはついに厳冬期の奥穂高登頂を成し遂げた。山頂から見た光景を、わたしは生涯忘れないだろう。
 真っ白に雪化粧した槍ヶ岳、常念岳、笠ヶ岳、その他北アルプスの名峰。なによりいま、わたしは最愛の恋人に――それも念入りにおめかしをした恋人に会えたのだ。
 28歳の冬であった。

 毎月のように北アルプスへ遠征するくらいなら、穂高に住めばよい。40代のなかばごろにそう悟ってからが早かった。
 会社に辞表を叩きつけ、その足で涸沢岳と奥穂高の鞍部に建つ穂高岳山荘へ弟子入りした。これで春夏秋は穂高と一緒にいられる。冬は営業していないが、食糧さえ担ぎ上げればある程度の期間、冬でも穂高に住める。わたしは2週間ぶんの食糧を詰め込み、しばしば正月を穂高とともに過ごしたものだ。

 そんな蜜月の時代もやがて終わりがくる。山小屋の主となり、穂高とべったりだったわたしはふいに、ある台詞を思い出した。若いころに涸沢小屋の主人が言っていた「いい女に苦労して会いにいく」のが男冥利なのだ、という台詞を。
 山小屋の経営権を売却し、下界へ舞い戻った。穂高に住むなんてどうかしていた。それは恋人の部屋へ居座るヒモのやることだ。あくまで訪ねるだけにとどめる。それが男の美学なのだ。

 ときの流れは残酷だった。70歳になったわたしは愕然とする。いつの間にかテントを担いで穂高へ登れなくなっていた。体力は日に日に衰えていく。73歳の時点で関節炎にかかり、満足に歩くことすらできなくなった。
 わたしは結局結婚もしなかった。どうして穂高がいるのに結婚などできただろう。もう一度だけでいい、穂高に会いたい。自力登攀を成し遂げたい。
 上高地から入った。明神、徳澤、横尾、涸沢。ここまで4日もかかった。あとはザイテングラートを登って穂高へ至るだけだ。途中、何度も膝をついた。まる1日かけて白出のコルへ詰め上げた。
 穂高はもう目と鼻の先だ。足の感覚はなくなり、目がかすんできた。どれだけ歩いても穂高に近づかない。彼女はわたしに飽きてしまったのだろうか。いや、そうではない。彼女は待っていてくれる。
 夕闇の迫るなか、気づくとわたしは山頂に立っていた。雲海が視界一面に広がっており、夕焼けを浴びて黄金色に輝いている。この景色は二度と見られないだろう。穂高に会えるのはこれが最後だろう。
 狭いスペースに身を横たえた。吹き荒ぶ風のなか、不思議と暖かい。
 穂高がわたしを抱いてくれている。
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