第1話

文字数 2,000文字

 その喫茶店の存在は知っていた。だが、入ったことは一度もない。だって、僕の町からは離れていて、少しだけいかがわしい街の裏路地の突き当りにある。ただでさえ童顔の僕は私服だったとしても補導される確率は高かっただろう。
 だけど、今日はそこに入る理由があり、僕は今、店の前に立っている。それにもう高校生ではない。
 歴史を物語る、ニスの剥げた重厚な木製のドア。左横には格子のある窓があり、下から延びる蔦が格子と壁を獲物のように捕らえているため、中は見えない。しかも今は秋。蔦は紅葉となり、遠くからは店をまるで炎が飲み込もうとしているかのようにも見えた。
 僕はその不気味さを追い払うように冷たい金属の取っ手を引く。
 カラン。
 ベルの音が響く。
 吐息のようなジャズが流れる店内。右側にカウンター、左側にテーブル席が並ぶ。テーブル席は観葉植物に囲まれ、視線の拒絶を静かに主張している。だが、圧倒的な印象を与えたのは壁一面を覆っている本棚である。壁は全て本のためにあるようだ。

「いらっしゃい」
カウンターから年老いたマスターが声を掛けてきた。
僕は軽く会釈すると、テーブル席についた。他に客はいない。
マスターが艶の消えた銀色のお盆に水の入ったコップを載せて来た。
「ブレンドを」
「はい。好きな本読んでいいから、ゆっくりしていっていいよ。本は好きかい?」
「ええ、まあ」
「本はいい。好きな時にその世界に入り込める。自由に、だ。望んでその世界から戻らない人もいる」
マスターは白い髭の中から白い歯を見せた。
「はあ」
僕は曖昧な返事をすると、本を探しに立った。
 緊張していた。
湯を沸かす音、豆を挽く音、そしてスモーキーな香りが漂う。
ここにあるのは全部小説だ。僕は、中央の目立つ場所にある一冊の本の題名に気付いた。
「楽園喫茶」
この店の名と同じような題名。自費出版本だろうか。
作者名サキオ。
鼓動が早くなった。
そっと、それを手に取った。

 僕がこの店に来た理由。それは高校時代に文芸部の先輩が行方不明になったからだ。
今から二年も前だが、突然いなくなった。警察の捜査でも行方も理由もわからないまま、僕は卒業した。だが、今月になって、今でも捜索に熱心な後輩がある情報を僕に伝えた。先輩はいなくなる直前にこの店に来たらしいというのだ。確かなら、僕はマスターに情報を聞く必要があると考え、ここに来た。そして確信に変わった。サキオとはその先輩のペンネームだからだ。僕は本を開いた。表紙の裏にマスターと一緒に写る笑顔の先輩の写真が貼られていた。

 ―私はその喫茶店に入り、ブレンドを頼んだ。本を読み始めた時にマスターがコーヒーを持って来た。長い白髪を後ろでまとめ、口は白い髭で覆われている。
マスターは言った。
「本は好きかい?」―

 そこまで読んだ時、マスターがコーヒーを持って来た。
「どうぞ。いつまででも読んでいていいよ。僕は本好きの楽園を作った」
マスターは嬉しそうに笑い、カウンターへ引っ込んだ。その背中に結んだ白い長髪が揺れた。
 コーヒーを一口飲み、そして続きを読む。

―私はコーヒーを飲んだ。本の続きを読もうとした。
そんな私にマスターが言う。
「望めばずっとこの世界にいられることもある。君次第だ」
 私は最近考えていた。自分は誰のために生きるのか。人と同じでなくてはいけない?安定を人は望む。それが大事だと人は教える。それが人生?いつの間にか人と同じように、遅れないように、安定させることに必死になる。それは少なくとも私の望みとは違う―

 確信。ここが原因だ。

 僕はカウンターへ行った。
マスターがこちらを見る。
本と写真を見せた。
「マスター、この人を知っていますね?この本を書いた人」
マスターは頷いてじっと僕の目を見た。
「君、緊張しているね」
僕の手は震えていたみたいだ。僕は黙っていた。
「なぜ、彼女がいなくなったか。知っているとしたら?」
溜息が出た。最悪の事態だ。だが、想定はしていた。
僕はポケットの中のナイフを握った。
「あなたがそそのかしたんですね。だから彼女は僕の愛を拒否した。別の道を歩むと言い出した。許せなかった。そしてあなたは彼女から僕のことを聞いていたんだ。誰も僕とのことは知らないはずだったのに。だから捜査も僕には及ばなかった。でも知っているならあなたをこのままにはできない」
僕の声は震えていた。
マスターは冷静だった。
「本は僕が書いた。サキオさんの行方を知る人をおびき寄せ、真相を自ら語らせるためにね。君は予想通りその本を選び、過剰な反応をした。僕は君が何をしたのかは知らないが」

 直後に数人の男がなだれ込むように入って来た。
「動かないで。尾崎サキさんについて事情を聞きたい」
 
 連行される時に、本が弾かれ、どこかに挟んであったらしい写真が落ちた。
 サキとマスター、そして執拗に情報収集し、この店の情報を僕に教えた後輩の三人の笑顔が僕を見ていた。

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