慈雨 ー藤になぞらえてー

文字数 10,715文字

慈 雨  ― 藤になぞらえて ―

 湿り気を帯びた風が初夏の京都を駆け抜け、庭の木立のざわめきが耳の奥を揺らす。
 「この風が止んだら雨が降るわね」
 布団から半身を上げた伊佐は、苔蒸した地面に終わりかけの躑躅が散り乱れる庭をぼんやりと眺めていた。

 京都・妙心寺の一角。
 小ぢんまりとしているが手入れの行き届いた堂が、伊佐の住まいである。
 五十の声を聞いて以降、まずは眼から、そして脚、歯、指といった身体の末端へと。年齢を重ねた身体はもうじき古希を迎えようとしていた。
 人生五十年の世においてここまで命があるのは、五十の生を全うできなかった夫・真田幸村や父・大谷刑部が己の命の残りを自分に繋いでくれたおかげかもしれない。与えられた余生の多くをありがたさと居たたまれなさから来る恨めしさとの葛藤に費やしてしまったが、最近ではそよぐ風にすら吹き消されてしまいそうな灯を惜しむ気持ち…心残りや後悔の念が芽生えて来てしまい、なおのこと夫や父に合わせる顔がないと己を恥じる事もままある。
 人生を『長い修行』だという言葉では片付けられなどしない、それもまた人の業であろうか。
 伊佐はいま、前年の暮れにひいた小さな風邪をきっかけに床から離れられなくなっていた。
季節が移ろう庭だけが自分の世界となった中、朝な夕なに本堂から聞こえてくる読経を聞きながら、これまでの人生で起こった出来事の一つ一つを振り返るのが日課となっている。

 「母さま、白石よりお文が届きましたよ」
 八つ時になり、ともに暮らす娘・おかねが茶菓子と一緒に二通の文を持って現れた。かつての自分と瓜二つに育った姿が、生命力あふれる元気な足取りで伊佐の隣に膝をつく。
 「片倉さまがご住職に寄進なさった品物を収めたつづらに入っていたそうです」
 「それは……ほんに有り難いこと」
 「ねえ、早速読みましょう。こちらは阿梅姉さまの字かしら」
 おかねは小さく畳まれた文を広げて母に手渡す。伊佐はこわばる指先をゆっくりと動かし、文面をなぞった。
 「阿梅の文字は、わが父・大谷刑部によく似ているわね。びっしりと几帳面に記すところなどそっくり」
 「姉さまは子供の頃から達筆でしたものね。子供ながらに羨ましいと思っておりました」
 「ふふっ。あなたの文字は幸村さま似ですものね」
 「それって…あまり上手くないという事ですか?」
 「さあ、どうでしょう」
 「もう」
 九度山にて、父が上田の兄に書状をしたためる際、いつも「文は苦手だ。どうやっても真っ直ぐ書けぬ」と頭を掻きむしっていた思い出を母娘は共有する。
 遠い昔の出来事なのに、まるで昨日の事のように鮮やかに思い出される九度山での日々。二人は顔を見合わせてその頃を懐かしみ、伊佐は文に視線を落とした。
 だが、すぐに諦める。
 「厭ね。眼が霞んで細かい文字が読めないの。おかね、読んでくれるかしら」
 「はい」
 尽きぬ話、とりとめのない文章の一語一句は後で読み上げるとして、おかねはまず母が最も知りたいこと…子らの近況が記された箇所を拾って報告した。
 「阿梅姉さまのだんなさま…片倉さまのご厚意で、父さまと大助兄さまの三十三回忌法要を行ったのですって」
 「まあ」
 「幕府の目もありますし、伊達の大殿様にご迷惑をおかけできないので盛大には出来なかったようですが…伊達家の縁戚にあたる田村家に嫁いだ菖蒲姉さまや、代官として仙台藩に仕えている大八が里帰りして来た時、白石城下の当信寺というお寺にこっそりと集まって」
 「代官……大八はちゃんと務めているのでしょうか」
 「大殿様から石高を与えられたそうですよ。大八が村の人達と力を合わせて治水工事に取り組んだおかげで収穫が上がったとお褒めいただいたのですって」
 「それは良かった……そう、立派になったのですね」
 さすが日ノ本一の兵の子ですね、とおかねは微笑んだ。伊佐は安堵と不安が入り混じった顔で、ただ何度も頷く。
 「九度山で亡くなられたじじ様…真田安房守も、上田の地の治水に取り組んでいらしたそうです。小高い土地でも米が作れるよう川から水を引いて水路を造り、ため池をあちこちに置いたおかげで、人々は日旱(ひでり)の心配をせずに農作業が出来るようになったのですって」
 「では、大八はじじ様の賢さを受け継いでいるのでしょうね。村の人達と仲良くなれたのは、きっと九度山の人達に可愛がってもらったから…とても人なつこい子でしたもの」
 「だと良いのですが」
 伊佐の目線が、座ったおかねの額のあたり…別れた頃の大八の背丈のあたりをさまよった。伊佐の胸の中では、大八はいつまで経っても三歳の童なのだ。
 「逢いたい」の一言を口ではけっして言わぬ母の心中を慮って、おかねは話題を変えた。
 「姉さまは母さまのお身体も案じておいでです。ご住職が片倉さま宛てにお礼状を出されるそうですから、一緒に届けていただけるよう後で私からお返事をしたためておきますね。母さまも私も元気に過ごしています、って」
 二人はしばし庭の躑躅を眺めた。
 「こちらも、良いお庭になりましたね」
 時の流れに感慨を感じたおかねが呟く。
 「来たばかりの頃はまだお庭が出来たばかりで、お花が咲くまでは寂しかったですものね」
 「おかねが随分とお庭を手入れしてくれたおかげです。いつの季節でも何かしらの花が咲いているようにと頑張っていましたもの」
 「だんなさまが、商売で各地を訪れるたびに『庭に植えるとよい』と苗を持ち帰ってくださったおかげです」
 「あなたのだんなさま……石川貞清どのには、本当にお世話になりましたね」
 「ええ。流石、美濃の犬山城を預かった大名にして太閤殿下からお捨さま(豊臣秀吉の長男・鶴松)の傳役を仰せつかった程のお方です。関ヶ原の戦いを機に武士を廃業なさった後、大坂城で築いた人脈や茶道の腕前を活かして江戸にも大坂にも顔がきく商人に転身なさったのですから」
 その石川については先年に十三回忌法要を行ったばかりだが、懇意にしていた住職に寄進して建立したこの寺をおかねに遺してくれた。おかげで二人は路頭に迷うことなく暮らしていられる。
 伊佐と同じように大坂の陣で夫や家族を失った幾人かの尼僧とともに家族の菩提を弔いながら過ごす女所帯の生活は、静かで居心地の良いものだった。
 「おかね」
 「?」
 「あなたは幸せでしたか?」
 「なぜ、そのような事をお訊ねになるのですか?」
 「石川さまは立派なお方でしたが、我が夫幸村の友であり、あなたにとっては父親ほどに齢の離れたお方です。阿梅、菖蒲、あぐり、大八……あの日、焼け落ちる大坂城から子ども達を逃がす最中に捕まったわたくしとあなたは死罪になるところでした。けれど、あなたが石川さまの求婚を受けた事で助命された……わたくしの寄る辺となるためにあなたの人生を奪ってしまったのではないかと思うと、今も胸が潰れる思いがします」
 若き日、よく真田左衛門左を訪ねて来ては酒を汲み交わしていた石川貞清の人となりは伊佐もよく知っていたが、それ故におかねとの縁組みに関してはただ単に友人の妻子を助けるための方便で、愛あるものではないと知っている。愛娘が自分の幸せを追い求める機会を奪ってしまったのは自分だと思うと、伊佐は言い様のない罪悪感に囚われるのだ。
 「……茶人として徳川秀忠公に気に入られていた石川さまの妻となれば、命だけは助けていただける。そういった計算があったのは本当です」
 「……」
 「でも、実は石川さまも同じ事を考えていらしたのです。私、名目上は石川家の継室(後妻)でしたが、だんなさまは私を妻ではなく娘として扱ってくださいました。本来ならば望むことも出来なかった高い教育も受けさせていただいて…亡くなられる時、だんなさまは私に『何処へ嫁いでも恥ずかしくない娘に育ったな。これで左衛門佐に顔向けできる』とまで仰ってくださったのですよ。
 それだけではありませぬ。太閤殿下の馬廻衆を務めていた頃の父さまのご活躍や、真田のじじ様や大谷刑部さまのお話もたくさん聞かせてくださって……返しきれない程の大きな恩を感じています」
 「そうだったのですか」
 「はい」
 おかねは、母を安心させるようにっこりと頷く。天真爛漫な娘は、その後茶目っ気たっぷりに笑った。
 「実は、父さまと母さまのなれそめも聞いてしまいました」
 「えっ?」
 おかねには、伊佐の顔が一瞬だけ少女に戻ったように見えた。
 「父さまと母さまの縁談は太閤殿下に申し渡されたものでしたし、父さまは上田にお子を残して大坂にいらした身でしたから、母さまはお話を受けるかどうか大層迷っておられたとか」
 「たしかに迷っていましたよ。幸村さまが上田で最初に迎えた奥方は既に亡くなっていましたけれど、それだけに…幸村さまのお心の中にある思い出に割り込んでしまって良いのかと」
 「けれど、ある日父さまが突然大谷家の屋敷に現れて……」
 そこまで言うと、途端に伊佐はぎくりとする。
 「これ、母を困らせてはなりませぬ」
 照れた母は、やはり少女だ。他愛のない話から一歩踏み込んだ話ができる関係になった時点で、母娘は最大の友となる。おかねはそれが嬉しかった。
 「うふふ、では続きは胸の内にしまっておきます……でもね」
 「何かしら?」
 「私は、母さまと一緒に暮らせる今がいちばん幸せです。私を産んでくださってありがとう、母さま」
 おかねの生気あふれる温かな手が、伊佐の節張った指先を強く握りしめる。伊佐もその手を握り返した。
 「私もあなたが居てくれて幸せですよ。おかね」
 その時、雨粒がぽつりぽつりと庭に落ちる音がした。雨脚はあっという間に強まり、庭の木々を潤していく。
 「どうやら本降りになりそうですね」
 おかねが縁側に出て空を見やる。
 「冷えるといけません。母さま、温石(石を温め、湯たんぽのように使う道具)を持って参りますゆえ、少しお待ちください……そうそう、阿梅の姉さまがお寺の皆さんへと葛粉を送ってくださったのですよ。庫裏に行って葛湯を作ってきますね」
 廊下を行くおかねの足音が遠ざかり、堂の裏口あたりで懇意の尼僧と挨拶を交わす声が聞こえる。が、それもすぐに途切れ、部屋はふたたび静かになった。

 伊佐は阿梅の文を枕元に置き、二通目の手紙をゆっくりと広げてみた。阿梅のすぐ下の娘、菖蒲だろうか。
 そちらは、おかね以上に若き日の左衛門佐そっくりな文字で綴られている。しかし菖蒲ではなかった。
文末に記された「大八」の文字に、伊佐の胸が高鳴る。
 「大八……」
 まだ読み書きも禄にできなかった幼子が、自分に宛てて書いてくれた文。伊佐は霞む眼に苦心しながらまず字面を眺め、それから中身を噛みしめるようゆっくりと読み始めた。
 伊佐の記憶にある幼い大八の声で読み上げられる文が、伊佐の心に響いていく。

 
母上さま
  桜の季節が過ぎたというのに、こちらはまだ所々雪が残っております。
  母上さまにおかれましては、ご健勝にお過ごしでしょうか。

  昨年、私は妻を娶りました。
  よく笑い、よく話す、愛らしい姫君です。
  家中の方からのお話とはいえ、一度もお会いしたことのない方でしたので、やすやすと縁談をお受けして良いものかと迷っておりましたら、片倉の義兄上さまが相手とお逢いする機会を作ってくださいました。
  藤を愛でながらの茶会でしたので、つい私が
  『常磐なる 松の名たてに綾なくも かかれる藤の咲きて散るやと』
  と、手習い処で習った歌を口ずさんだところ
  「そこは『田子の浦や 汀の藤の咲きしより 移ろう浪ぞ色に出でぬる』でございまする」
  そう返されてしまいました。学の深さや機転の利くところ、何より花を愛するところが母上さまに似ておられると、梅の姉上は感心しておられまして……何度かお逢いするうちにすっかり意気投合し、縁談も進んでいきました。
  妻となる者に嘘はつけませぬ。意を決した私が真田の子であることを打ち明けた時も全く驚かずに
  「これから先、もしあなた様がその出自によって何処かへ流される事があったとしても、わたくしは一生お伴いたしまする。どうぞ胸を張ってお生きくださいませ」
  迷わずにそう言ってくれた事で、私はかの姫と生涯添い遂げようと決心した次第です。

  時折、私の夢に出て来る景色があります。
  あれは慶長二十年の春だったのでしょうか。たいそう立派なお庭で、父上と母上と一緒に桜を見ましたね。
  花を近くで見たいとねだる私を肩車してくださった父上の力強い腕、間近に迫る桜。そしてその隣で優しく笑う母上さまのお顔。理由などなく、ただひたすらに幸せで楽しいひとときは、今もこの大八の胸に強く残っております。

  家族の在り方をあまりよく知らない私が新しい家族を作っていけるのか、正直に申しますと今も不安です。
  けれど、あの日見た桜の思い出に近づけるよう、私は妻やこれから生まれるであろう子を愛おしんでいきたく思います。
  新しい家族を守りたい思いが真田の血筋を繋ぐ責務よりも強くなりつつあることを、どうかお許しください。

  白石の桜を押し花にしました。母上さまに、この大八が見ているものと同じ桜を見ていただきとうございます。

  大八


 「……それで良いのですよ、大八。そう、それで良い……」
 伊佐は桜の押し花と文を胸に抱きしめ、何度も何度もそう繰り返した。
 大八が独り立ちの時を迎えている。
 戦で死んでしまった大助の分までしっかりと生き、幸せを手にしている。親として、これ以上に喜ばしいことがあろうものか。
 けれど。
 「大八。あなたの顔は幸村さまに似ているのでしょうか。背丈は幸村さまに並んだのでしょうか。幸村さまのような声で、笑っているのでしょうか」

 『私も人より随分小柄だと心配されて育ったものだが、元服してから急に背が伸び始めたのだ。兄上には及ばぬが、総大将として先陣を切っても他の兵に埋もれたりはせぬであろう?
 だから案ずるな。大八もきっと大きゅうなる』

 大坂城で、縁側に腰かけた幸村が大八を膝に抱きながら語っていたような青年に育ったのだろうか。
 「心根は、本当にお若い頃の幸村さまそっくりで……」
 大八の文をきっかけに、封じ込めていた心が久方ぶりに解き放たれてしまった。我が子の成長を喜び笑おうとしても、顔がくしゃくしゃになっていく。
 「……逢いたい……」
 おかねに心配をかけまいと口に出来なかった言葉が、伊佐の口からこぼれる。
 「大八……大助……幸村さま……」
 雨はただ淡々と屋根に、庭に音をたてて降り注ぎ、伊佐の心の声をかき消していく。伊佐は雨の慈しみに甘えるように、しばらく泣きじゃくった。

 ……
 「これ、そのような寝方をしていると体に障るぞ」
 どのくらい放心していたのか。あるいは夢うつつの中だろうか。
 ふいに、庭先になつかしい声を聞いた伊佐が顔を上げた。
 「?」
 最初、伊佐は躑躅の花に幻影を見たかと思った。声は、己の心が作り上げた幻聴ではないかと。
 だが違った。躑躅はまっすぐ伊佐に向かってくる。
 「久しいな。息災…ではないようだが、幸せそうで何よりだ」
 赤い躑躅は砂利を踏みしめて縁側に腰を下ろした。あの日、大坂城から出陣したままの姿だった。
 「幸村さま?」
 何故。どうして。そんな事を思わせないくらい当たり前に…九度山で、畑仕事から戻って来た時と同じくらい自然な所作だった。
 「随分と泣いていたようだな。瞼が腫れておる」
 「申し訳…ありませぬ」
 当たり前に現れたのならば、こちらも当たり前のように返そう。夢であるのなら、少しでも長くみていられるように。
 おそるおそる顔を上げると、幸村は目を細めて口許をつり上げた。あの日と同じ笑顔だった。
 「伊佐、土産だ」
 幸村が、手にしていた藤の枝を差し出す。
 「まあ」
 「ここへ来る途中、山藤の花が美しかったので一枝持って来た。
  『田子の浦 そこさえ匂う藤浪を かざして往かん 見ぬ人のため』
 であるな」
 「もしかして大八の文を御覧になりましたの?」
 「そなたが見ているものを、私もいつだって見ていたぞ。そなたの目や心を通して、何でも知っている」
 「えっ?」
 いつも側に居てくれた。伊佐の胸にある、少女の頃のような気持ちに灯りがともる。
 「さすがに、大八の文は昔の自分を見ているようで気恥ずかしかったが」
 「たしかに、時間を遡ったようですね。では
  『君ならで 誰にか見せん 藤の花 色をも香をも 知る人の知る』
 とお返しいたしましょう」
 本来は『梅の花』と詠まれた箇所を『藤』に替えて、伊佐は詠む。
 「幸村さまが、夜分に藤の花を持って大谷家に現れた日のこと、懐かしゅうございまする」
 伊佐が遠い思い出を手繰り寄せた。おかねが石川から聞いたのも、きっとこのくだりだろう。
 「泥だらけの手足に、綻びだらけの服で。息を切らしながら藤の花を差し出して『かかれる藤の咲きて散るやと』の意味がやっと分かった、そう仰っていましたね。」
 「……あれは若気の至りであった」
 幸村は、ふいと顔を背けた。長いつきあいの伊佐には照れ隠しだとすぐに分かってしまう。
 「ぽかんとしてしまった両親や私の前で、『花が色あせ散ってしまう前に、そなたと一緒になりたい』と頭を下げられて……私は『そう簡単に散ってたまるものですか』と追い返そうとしたのでしたね」
 「実はあの時、なかなか決断をせぬ私に業を煮やした太閤殿下が『左衛門佐が大谷刑部の娘との祝言を厭うのであれば、石川に娶らせようか』と申されたのだ」
 「あら、初耳です」
 「殿下は目出度い事が大好きであったからな。だが、それでようやく私は己の本心に気づいた」
 幸村が伊佐の目を見た。
 「それまでは、上田で亡くした最初の妻を忘れてはならぬという思い、そして里に子がいる身でそなたを娶って良いものかという思いの間で悩んでいたのだ。だが、そなたと逢うと何時も心が安らいだ。人質生活で何かと気苦労が絶えなかった私の愚痴も明るく笑い飛ばしてくれる朗らかさ、大谷刑部さまの病を治す術を求めて医師に学ぶ真摯さ、歌を吟ずる時の美しい声、舞う姿の艶やかさ。すべてが片時も心から離れない。そこへ殿下のお言葉があったものだから……矢も盾もたまらず、屋敷を飛び出していた」
 その途中で山藤を見つけたので咄嗟に摘んできた。泥や服の綻びは、藤を摘む時に足を滑らせてしまった結果だった。
 「けれど、私の気持ちを告げた途端にそなたは薙刀を持ち出して……大谷刑部さまはそなたを羽交い締めにし、義母上さまは酒をひっくり返すほど腰を抜かし、大谷家のご家来衆がすわ一大事と我が屋敷に兄上を呼びに走り……私はといえば、訳が分からず唖然とするばかりだった」
 「色あせ散ってしまう前になんて、年頃の娘には『婚期を逃す前に貰ってやる』と同じ意味に聞こえたのですよ」
 「その通りであったな。私の解釈違いは、後で義姉上…稲さまから懇々と諭された」
 「稲の義姉上さまは、翌日早速ご挨拶にいらしてくださいましたものね。『源次郎も悪気はなかったのです』と頭を下げられて……わたくしといえば、早とちりして頭に血が上ってしまった事がただ恥ずかしく、はしたなく……このお話はきっとお断りされると後悔したものです。父からも諦めろと言われてしまいましたし」
 けれど。
 「幸村さまは、その日の夜にまた藤の花を持っていらしてくださいましたね。今度は束帯に烏帽子姿で、
  『妹(いも)が家に 上田の森の藤の花 今来む春も 常かくし見む』
 と仰って」
 はるかな昔の歌人が詠んだ、『次の春もまたあなたと一緒に藤の花を見ていたい』という意味の歌である。
 「『伊久森』のところを『上田の森』と言い換えているところに幸村さまのお気持ちを感じて、わたくしは迷わず『はい』と答えておりました。ずっと申し上げたかったお返事です」
 「そなたの返事を聞いて、私は舞い上がる心持ちであった……ははは、すべてが懐かしく、こそばゆいな」
 「わたくしも同じ心持ちでございます」
 それが、二人の長い旅の始まりであった。
 九度山での蟄居生活は貧しいものであったが、振り返ればあっという間の出来事だった。
 自分達がそうであったように、子らはそれぞれの道を生きている。かつての自分達とよく似た姿で、同じ事を繰り返しながら。
 時間というものは川のように一方向に流れているようでいて、実はどこかで環を結んでいるのかもしれない。人は世代を紡ぎながらその輪の上を走るのだ。
 環のつなぎ目に来た時に、ふと脚を止めて感慨にふけりながら。

 庭先の雨が、少し小降りになった。
 「上田の藤を、一度でいいから見てみとうございました」
 伊佐がぽつりと呟いた。幸村も「見せたかったな」と返す。
 「上田は周りを山で囲まれているから桜の季節が長い。そして桜が終わった箇所から順に山が紫に染まってゆくのだ。季節が移ろう瞬間、それは見事な景色となる」
 「紫の次は躑躅の赤。そして稲の緑に紫陽花の青、蕎麦の花の白、色とりどりの朝顔、曼珠沙華の朱色に稲穂の金色と続いて、やがて紅葉へ。上田は色で季節を感じられる。そうでしたね」
 九度山で何度も幸村が語っていた上田の色。それを聞いた子ども達は、九度山でも様々な『色』を見つけて上田に思いを馳せていた。みな感性豊かに育ったのは、きっとその頃の思い出が心の底にあるからだろう。
 「よし、行ってみるか」
 「……今からでございますか?」
 「勿論」
 立ち上がった幸村が伊佐に手を差し伸べる。身につけている甲冑や武具は音もたてずに幸村に従った。
 「まずは上田へ赴き、それから大八達に逢いに白石まで足を伸ばそうではないか」
 夢だけれど、夢ではない。なぜ幸村が目の前に居るのか、伊佐は不思議なほどすとんと納得した。
 だから、答えが自然と口からこぼれる。
 「幸村さまが行かれる場所でしたら、何処へでもお伴いたしまする」
 「……気づいておったか」
 「あなたの妻ですもの」
 幸村は、「やはり、そなたには叶わないな」と笑った。初めて出逢った時と同じように目を細めて、少年のようにくしゃりとした笑みだった。
 「参るぞ、伊佐」
 「はい」
 幸村が差し出した手を、伊佐はとった。久方ぶりに触れる手は、大きく、温かかった。
 「上田の景色が楽しみでございます。それに子ども達の成長した姿も」
 幸村も頷き、伊佐の手を強く握りしめた。
 「そうだな。では」
 薄明かりが差してきた空。名残の雨が慈悲のように細かく煙る中を、二人は歩みだした。

 ともに、上田へ還ろう。

……

白石城。
 「母さまは大八の文を胸に抱き、幸せそうなお顔で……その傍らには、誰が捧げたのか知れない藤の花が置かれていたそうです」
 白石城下の当信寺。落ち延びる大八達の身辺を護るため、大坂から白石までついて来てくれた真田家の元家臣が建立した寺にて。
 「……母さまは、父さまと一緒に上田へ還られたのですね……」
 おかねの文にも、きっとそうだろうと綴られていた。
 京都に居る妹からの文を読み上げた阿梅は、心を落ち着けようと何度も深く息を吸う。
 大八、菖蒲、あぐり。白石に逃れてきた真田の子たちも神妙な顔をして俯くだけであった。
 「……父上さまが迎えに来られたのでしたら、母上さまも幸せに旅立たれた事でしょう。そして……」
 大八が本堂の窓から空を見上げる。雲の切れ間から薄日がさす、雨上がりの空だった。
 「悲しむことはありませぬ。父上が見せたがっていた上田の景色を一緒に見た後は、私達に逢いに来てくださる事でしょう」
 「……そうですね。いつかきっと」
 きょうだい達も同じ空を眺める。
 「そうだ。父上と母上がいらした時に迷わぬよう、こちらに墓標を建てませぬか?名は刻めませぬが、石碑であれば」
 「それは良いわ。目印となる藤も植えましょう」
 今から植えた藤の木が育ち、花が風にそよぐ頃には。子どもの頃に返って、両手を広げて抱き合いたい。両親の腕に飛び込みたい。
 『お待ちしておりました。父上、母上』
 そう言える日を待ち望み、けれどその時にきちんと両親に顔向けできる…真田の子として恥ずかしくない生き方をしている自分でありたい。
 「藤浪をかざして行かん 見ぬ人のため」
 心の中でそう呟き、大八は居住まいを正した。

 それから時が流れて。
 年老いた真田の子たちを両親が迎えに来たのかは、本人以外の誰にもわからない。
 しかし、阿梅と大八は当信寺に建立した幸村の墓標に寄り添うように、菖蒲もまた婚家である田村家の墓所にひっそりと建てた幸村の供養塔の隣で、仏門に帰依したあぐりは両親の戒名を胎内に収めた観音像を抱いて、それぞれ眠りにつくのである。京都のおかねも、両親の位牌を生涯守り通した。
 両親の願いどおりに生き抜いたと、全員が胸を張って。

 上田の風にそよぐ木々の音は一家の笑い声、恵みをもたらす雨は上田の地を愛する幸村の慈しみ、藤の花の香りは竹林院の優しさ、人々の心を潤す花の彩りは子ども達の優しさ。
 この地には、今も真田の家族の心が宿っている。後年に生きる者ですら、そのように思えてしまうのだから。

(おわり)


あとがき
 こちらの作品は、内容こそオリジナルですが、竹林院の俗名を「伊佐」としている事、また登場人物の性格など設定の部分で心から敬愛する「信州上田おもてなし武将隊」の皆様をリスペクトいたしておりますので、オマージュまたはファン小説にカテゴライズされるかと思います。
 史実の真田幸村公が好きで、前作の小説の取材も兼ねて上田に足を運ぶうちに、武将隊の皆様の大ファンにもなりまして…。幸村公のお話を書き終えた後も、たびたび上田に通っております。
 
 内容では、幸村公・竹林院夫妻のご命日が同じ5月である事から、上田では5月に見頃を迎える「藤」をモチーフに、私が思う理想のご夫妻像、ご家族像を描いております。
 離れていても、名を変えても、連れ合いや家族を思う心は変わらない。真田家の結束というと昌幸・信幸(信之)・信繁(幸村)といった男性陣がクローズアップされがちですが、彼らの活躍は妻や子達の支えがあってこそ初めて輝けたのではと思います。
 親子の絆、夫婦の絆を感じていただけましたら幸いです。

 作品中に登場する和歌は「万葉集」および能の演目「藤」から個人の解釈を交えて引用させていただきました。

2021.5.11 臨
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