第1話

文字数 2,358文字

「ハァ、大学辞める?」
 幸次は予想だにしなかった真知子の言葉に思わず立ち上がってしまった。教室の気温が上がるのが肌で分かった。
「そう、さっき先生と話してたみたいで―」
「じゃあゼミ長誰がやんだよ、今更変えるなんてできないだろ。」
「そんなの知ったこっちゃないわよ。」
「俺はやらんぞ、今のタスクで一杯いっぱいだから、期待すんな。」
「そんなこと一言も言ってないじゃない。」
 初めて見る真知子の顔だった。
 幸次の所属するゼミは、大学内でも有名なゼミだった。常に本を読まされ、発表を求められる。隙を見せれば容赦なく教授から鋭い質問が飛んでくる。フィールドワークも、ぎちぎちの行程にグループ論文の執筆、交流のある自治体との交流と山ほど行事があった。だから、学内でこのゼミに入る、というと必ず怪訝な顔をされる。毎年毎年繰り返されてきた本学部伝統の光景であり、ゼミである。
 だからこそ、そんなゼミを取りまとめるゼミ長が消える、ということはゼミ生にとって大きすぎる出来事だった。
「で、理由は?」
幸次が聞くと、真知子は奥歯を噛みしめ言い淀んでしまった。」
「有紀、結婚するんだってさ、就活も諦めるって。」
このゼミでゼミ長をしながら就活を100%の力でやり遂げるというのは並大抵のことではない。でも、大谷はそれをやり遂げようと、並外れた努力を重ね我々を気遣ってくれていたことは誰もが分かっていた。」
「嘘だろ、まさか…」
「幸次、それ以上は―」
しまった、と思った。幸次が副ゼミ長の座に落ち着いたのは思わず余計なことを口走ってしまう癖が知れ渡ってしまっていたからだ。
「とりあえず解散だな。こんなんじゃ作業すすまんだろ。今日だって自主的にやってるわけだし。俺のチームは一旦解散。また金曜日な。」
「ちょっと待ってよ。」
「すまん、じゃあな。」
真知子に呼び止められた気がしたが、お構いなしに幸次は帰路についた。
「ハァ、メンドクサイ。」
ぼそっと口をついた言葉は灰色の空に吸い込まれていった。幸次の本心に違いはなかった。しかし、同時に「来た」とも思っていた。激務なのに、激動ではない、色が濃いだけで単調な生活が変わる予感がした。
 幸次はアニメや映画が好きで、主人公が嫌いだ。一クールのなかで、なぜ特定の個人の周りであんなにも面倒なことが起こるのだろうか。両津勘吉のような人間ならまだ分かる。創作だから、といってしまえばそれまでだ。でも、どこか納得できずに色々な作品の主人公を眺めていた。憧れと妬みの混ざったまなざしを向けていた。
講義帰りの大学生で満員の地下鉄の中で幸次は中学・高校時代のことを考えていた。サークルのこと、ウザい教授の話、色んな話が聞こえてくる。このなかに、「主人公」はいるのだろうか。今まで周りにはどこかのアニメの主人公みたいに、学校を背負って何かと戦ったり、次から次へのメンドクサイ人間関係に巻き込まれている奴などいなかった。学校中のトラブル、厄災を一か所に集めない限りは無理だ。特に幸次は厄介ごとを嫌い何かが起こりそうな環境を避けてきた。このゼミを選んだのも、しっかりした学生しか態々こんな面倒な場所を選ばないだろう、そう考えたからだ。
駅に着くたび大学生が降りていく。入れ替わるように仕事帰りのサラリーマンが同じ数だけ乗ってきた。ちょうど帰宅ラッシュの走りのころだ。
幸次は、いくつかの主人公を思い浮かべていた。色々なトラブルに巻き込まれているはずなのに、浮かぶ顔はどれも笑顔だ。心の底から人生を楽しんでいそうな笑顔だ。
電車が大きく揺れた。ギチギチにはずなのに、乗客もそれに合わせて体を振られる。どこにそんな隙間があるのだろうか。
そうか、と思った。彼らは交叉点だ。人が作り上げた、皆の意識と人生が集まる交叉点なんだ。
人波に乗って、最寄り駅に降り立つ。
色が濃いだけじゃない、濃淡と彩りのある時間を過ごすには、自ら交叉点となるしかないと思った。

金曜日、教室に入ると幸次以外の全員が揃っていた。
「遅い!」
真知子が隣の席から耳元でささやく。幸次は黙ってそれを無視した。
「先生から後任を決めろって。幸次はやらないんだよね。」
真知子はそういうと前に向き直り、他のゼミ生とあーでもないこうでもないと議論していた。
 結論など出るはずない。その場にいた誰もが感じていたはずだ。結論は一つしかないとも。そして、その「線」は早々につぶされていることも知りながら。
 しかし、一人の男の発言がすべてを解決する。
「俺、やるわ。やるよ、ゼミ長。」
手も上げず、突然幸次はそういった。
全員の視線が幸次に集まる。真知子は開いた口がふさがらないといった様子だ。
 今、この教室の交叉点は俺だ。幸次はそう思った。
「異論のあるやついるか?」
その声に反応するものはいなかった。是全員の同意を確認すると幸次は前に出て話し合いを進めた。各グループの再編に論文の進捗など、驚くほどスムーズにことが進んでいった。
 その日、幸次は久方ぶりに真知子と帰路についていた。
「あ、しまった。」
「どうしたの?」
「副ゼミ長、決めるの忘れてた。」
初仕事を完璧にこなしたと思っていた幸次は肩を落とす。
「…それなんだけど、私がやってもいい?」
「へ?」
真知子はまっすぐ前を見つめる。蒸し暑い中でも、秋を感じる爽やかな風が二人の間を駆けていく。
「今日の幸次、何か良かったよ。イケてた。中高の時から合わせて一番。」
幸次は自分の頬が熱くなっているのを感じた。
「今日の幸次、ううん、これからの幸次に期待してる。昔好きだった時よりいいよ。」
今度は幸次の番だった。空いた口が塞がらない。
「じゃ、今日バイトだから私こっち。また連絡するね。」
そういって真知子は横断歩道の向こうに消えていった。
 幸次は今、間違いなく交叉点に立っている。
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