全話

文字数 1,706文字

 私は結婚・出産して家事をしていますが、まだまだ肌に張り艶があった頃の話です。駅前のたこ焼き屋でバイトをしてまして、暑い日も寒い日も熱い銅板に丸まったたこ焼きをくるくる回して格闘していました。
 そのバイトのお金ではいいところには住めず、おんぼろワンルームマンションに住むことになりました。もちろん住む前に部屋を見せてもらっていたのですが、うっかり見逃していたことがありました。
 壁に穴が開いていたのです。それも五百円玉ぐらいの大きさの。
 しまったと思いましたが、もう前払いでお金は払っていましたし、幸い隣には人が住んでいないと聞いていたので気にはすまいということにしました。
 でも電気を消して寝ようとするとどうも気になるのです。なんだか見られているような気がするのです。もしやと穴を覗いても床の上に何もない空間が見えるだけです。
 気のせいだ、となんとか眠りにつきました。
 それでも気になることは気になるので、カレンダーで覆うことにしました。
 これで気にならないとほっとしました。
 ところがバイトを終え帰宅するとカレンダーが床の上に落ちています。とめていたピンもろです。とめかたが弱かったのだときつめにとめますが、また帰宅後落ちていたり、しまいには翌朝目覚めたら落ちていたりするのです。
 もしかしたら横の部屋から風でも吹いてきているのかと思いましたが、そんな空気の流れは感じません。
 とりあえず白いハンドタオルを突っ込んで、その上からカレンダーをかけました。
 でも帰宅後にはタオルもろともカレンダーとピンが落ちているのです。
 私はたまらず隣の一軒家に住む大家のおじさんを訪ねました。普段何をしているのかわからない人で、ここまで穴のことを言わずにいたのは、あまり話をしたくない人ということもありました。
 事情を話しますと「おかしいなぁ。隣には人が住んでないんだけどね」
 と隣の部屋を開けて見せてもらいました。
 自分の部屋と全く同じ物で何もありません。うっすらと埃がたまっているだけです。空気は澱んでいて流れも感じません。
「ほらね。誰も住んでないでしょ。穴はこちらで業者を呼んでなんとかしますから。それまで我慢してください」
 なんだかほっとするような、腑に落ちなくて首をひねるような複雑な心境でした。
 穴をふさぐのも馬鹿らしくなり、またカレンダーやタオルが落ちているのも嫌なのでそのままにしておきました。
 そしてバイト先からたこ焼きで使う千枚通しをうっかり持ち帰ってしまっていた日のことでした。眠りにつこうとしましたが、どうも穴が気になります。見られているような気がするのです。窓のカーテンの隙間から月明りがさしこみ、薄暗い中で千枚通しを握って立ち上がりました。勇気を奮い起こし、穴に目をつけます。
 穴の向こうには人間の物らしき目があったのです。ドキッとして悲鳴をあげました。
 目は瞬きして大きく見開いています。
 怖くなって持っていた千枚通しを穴に突き刺しました。ぐにゃりとした物を貫いた感触がありました。驚いて手を離すと、そのまま千枚通しは穴に吸い込まれてしまいました。
 穴を覗くと何もありません。
 怖くなって部屋を飛び出しました。
 イートインのあるコンビニに駆け込み、ともだちにひたすら連絡をとろうとしました。
 朝陽が昇り、ようやく連絡がとれて気遣ってもらい、こわごわ部屋に戻ると大家が待ち構えていました。
「困りますよ。深夜に大声なんて。苦情が――」
 私は急いであったことを話しました。
「まさか、そんなこと……」
 とまた隣の部屋を開けてくれました。
「ほら、誰もいないでしょ」
 穴の下に千枚通しが落ちていました。しゃがんで確かめると、その先には赤い液体がついていました。
「血……。血でしょ、これ!」とまた騒いでしまいました。
 大家はうなって「実は……」と話し始めました。
「ここは前、目の不自由な男性が住んでいたんですよ」
「その人は今どうしてるんですか」
「さあ、突然いなくなって……。荷物は家族に引き渡したんですよ」
 私は業者に穴がふさがれるのを見ることなく、その部屋からできるだけ遠く離れた場所に引っ越したのでした。
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