悪意[ショートバージョン]

文字数 1,999文字

 午後三時、自宅でのテレワークが片付いた僕は、二歳の娘が通う保育園の駐車スペースに車を停め、ため息をついた。
 僕が娘のお迎えへ行くと、決まって何か不備がある。それを妻に容赦なく突かれることになるからだ。

 教室に入ると、娘が目を輝かせ「パパー」と声を上げて僕に抱きついてきた。
「今日も元気だったよ」
 保育士の先生の言葉にも憂鬱に笑顔を引き攣らせ、娘の名前があるロッカーへ進む。
 通園用のバッグに荷物を詰め、「ありがとうございました」と教室をあとにしようとすると、「パパ!」とその先生に呼び止められる。
「コップ!」
 先生は巾着袋に入ったコップを手に駆け寄ってくる。
「すみません。助かりました」
 危なかった、牛乳で濡れたコップを忘れるのはかなりの重罪。

 車に戻るまで、いつも元気過ぎる娘はひとりで駆け出したりもせず、大人しく僕の手を握っていた。
「パパだと心配だよね」
 チャイルドシートに座る娘に話しかけても、ご機嫌伺いの飴玉に夢中で相手にされない。
「なんか、今日はいいぞ」
 僕は浮かれないようにミラーを確認してから、車を走らせた。

 しかし、家に着くと妻がいないことに娘は癇癪を起こした。抱っこしようにも嫌がって身体をくねらせては床で大の字になり、全身全霊で不満を主張する。
 困り果てて時計を見ると、三時四五分。妻は近所のスーパーへパートに出ていて、仕事が終わるのが四時。そこで買い物を済ませ、家に帰ってくるのが四時半過ぎ。
「ママに会いに行く?」
 僕の問いかけに、床に寝そべる娘は嘘のように泣き止み、「はぁい」と手を挙げた。

 僕は娘と手を繋ぎながら、反対の手で携帯電話を操作する。
「お散歩ついでにママのお迎え行っていい?」
 妻は仕事中に携帯電話を見れないと知りつつ、事前に許可を取ろうとした証拠にメッセージを送る。
 近所と言っても、妻は自転車で通っていて、買った物を籠に詰めた自転車を僕が押すことになるが、その距離を娘と手繋いで帰ることに妻が納得するかどうか。
「仕方ないか」
 諦めの言葉が自然と口から漏れた。娘が散歩に疲れて、今夜は早く寝てくれるかもしれない。そう自分を納得させていると携帯電話が震えた。
「了解、いいよ」
 何かのタイミングでメッセージを確認したらしい。素気ない返事だが、「了」とか「了解」じゃないだけいい傾向だ。
「ママ、待ってるってさ」
 そう伝えると、真っ直ぐ前を向く娘の顔に力がこもる。妻のメッセージに気合いが入ったようだ。
「やっぱり、今日はいいぞ」
 携帯電話をポケットに戻しながら顔を上げると、あるものが見えてきた。それはパチンコ屋の駐車場出口にある、店名を示した大きな縦型の看板。
 五メートルほどの高さで、奥行きは二メートル。それは僕らが進む歩道の右側にあり、そこから出てくる車は歩道を横切り車道へ入る。看板は進行方向に向かって手前にあり、その横にも建物があるものだから、駐車場から出てくる車が非常に見辛い。
 以前、僕がそこを自転車で通りかかると、勢いよく出てきた車にぶつかりそうになり、車はブレーキ音を上げながら急停車した。
「危ねえだろうが!」
 運転席の男は窓を下げて僕を怒鳴りつけた。僕は面食らったが、きっとパチンコに負けて虫の居所が悪かったのだろうと頭を下げ、その場のあとにした。
 娘と繋いだ手に自然と力が入る。
 視界の端に違和感を覚えて娘から目を上げると、車道には対面するようにこちらへ向かってくる国産の黒いSUVが駐車場出口の前で速度を緩めている。
 もしかしたら先の信号が赤で、駐車場から出てくる車のためにスペースを空けようとしているのかもしれない。比較的安価で人気の高いSUV。きっと運転手は庶民的で親切な人なのだろう。
 そんな風に思いながら歩いていると、僕は看板の存在を思い出し、すぐに目を向けた。
 一瞬、白い影が看板へ吸い込まれるように見えた。
「車が来る!」
 僕は急いで立ち止まり、娘を引き寄せた。突然のことに娘は驚き、怪訝そうな眼差しを僕に向ける。
 娘と手を繋いだまま、恐る恐る看板の影を覗きながら足を進めると、そこには白い軽ワゴンが停車していた。
 運転席に座る年配の坊主頭の男性は、仏のように穏やかな顔で「どうぞ」と指先で僕らを促している。
 僕は安堵し、軽く会釈をして娘と歩き始めた。車道のSUVもそのタイミングで車を発進させる。
「やっぱり、今日は……」
 歩きながら、突然、先ほどの違和感の正体に胸騒ぎがした。
 パッシング?
 僕はすれ違いざまSUVの運転席を見た。恰幅の良い四十代後半の男が横顔に笑みを浮かべ、片手でハンドル操作をしている。男は空いた方の手で指をスナップした。まるで、惜しいとでも言うように。
 身体が恐怖に捕らえられ、金縛りのように固まった。わずかに動く首で、走り去るSUVの後ろ姿を見送ることしかできない。
 僕の手を、「早く行こう」と娘が引いた。
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