第1話 エメラルドの指輪

文字数 1,909文字

 その人が私たちの家を訪れたのは、母の初七日の翌日だった。

病院で初めて診断を受けた時にステージ4まで進んでいた母の子宮がんは、1年という短い時間で52歳の母をこの世から連れ去った。
母の日々悪化していく病状に父と私はあまりにも無力で、母の痛みと苦しみを前に胸を引き裂かれながらもなす術はなかった。

母が息を引き取った時、痛みからようやく解放された母への安堵の気持ちがあったことは否定できない。
だが葬式を終えた日の夜、写真を見ていた私はもう母に会いたくてたまらなくなった。
闘病生活の一年間、母に聞こえぬよう声を殺して泣いていた私はその夜声をあげて泣いた。
一人っ子で一緒に泣いてくれる姉妹もいない私を憐れんでいるのか、父は何も言わなかった。
小一時間ばかり泣いた後、父がそっと手渡してくれたお茶は、慣れない手つきで淹れた不器用な味がしたが、今まで飲んだお茶で一番おいしかった。

「指輪はどこにいったんだろうね」
父と向い合って二杯目のお茶を飲んでいた私はぽつりと言った。

それは母の五十歳の誕生日に父が贈ったエメラルドの指輪のことで、まさかその二年後に病気でこの世を去るとは思いもしなかった頃のプレゼントだった。

母は亡くなる一か月ほど前のある日、病院に指輪を持って来て欲しいと言った。
サイズの変わってしまった母の指に指輪はくるくると回転し、「サイズが合わなくなったわね」と母は寂しそうだった。
「でも綺麗なものを見ると心が慰められる。あなたが大事にしてね」
生気のない痩せた顔に笑みを浮かべ私に言った。
死を怖れていた母は「私が死んだ後は」と口に出せなかったのだろう。

容体が急変したとの連絡を受けて父と私が病院に駆け付けた時、集中治療室の母の手に指輪はなかった。
母の亡くなった後、所持品の中からすぐ見つかるだろうと思った指輪は、周囲の誰に聞いても困ったように知らないと言うばかりで、結局それきり二度と見つからなかったのである。


「普段は人に顔を見せないようにしているんです。職業が職業ですので」
年齢は20代後半だろうか。黒のパンツスーツ姿で髪はきっちり一つに結われていた。
メイクのない顔はよく日焼けしていて、私は外で働く人なのだろうかと考えた。

「これをお渡ししようと思い、失礼ながら突然訪ねさせていただきました」
彼女がそう言って玄関口で私たちの前に差し出したのは、エメラルドの指輪であった。
「あ」父と私は同時に声を上げた。
「どうしてこれを?」
慌てて家の中に入ってもらってお茶を出したが、彼女は手を付けようとはしなかった。
「内密にしていただきたいのですが」そう前置きして話し始めた。

私はトレジャーハンターです。
宝探し、つまり落とし物を探して換金することを職業にしています。
見つかるのは小さい物、主に貴金属で、中には何年も経っている物も珍しくありません。
道端や溝を探すことが多いので、普段は清掃員に変装して掃除をしながら回っています。
お母さまが入院されていた頃、私はちょうど収入に困って病院の清掃員の仕事に就いていました。
お苦しいでしょうにお母さまは私に何度も優しい言葉をかけて下さいました。
だからこの指輪のことはよく覚えています。

勘違いしないでくださいね。
私は決して盗みは致しません。
お母さまの指輪を注意して見ていたのは欲しかったからではなく、この指輪を狙っている人が同じ病室の中にいることに気付いていたからです。

名前は申し上げませんが、同じ六人部屋に身寄りのない末期がん患者がいらっしゃいました。
その方は、毎日お嬢様とご主人様がお見舞いに来られるお母さまを嫉んでおられました。
お母さまが意識をなくした時、私はその方が人のいない隙にお母さまの指から指輪を抜くのを見てしまいました。
その方はその後、素知らぬ顔で中庭の排水溝に指輪を捨てました。

私たちトレジャーハンターは盗みは致しませんが、民法240条の、遺失物は3か月以内に所有者が判明しない時はこれを拾得した者にその所有権が与えられる、を上手に利用する人はいます。
私はこの仕事を始める時に自分で仕事のモットーを決めましたので、それに外れたことは致しません。

父も私も驚いて言葉がでなかったが、私たちにとって唯一の母の形見と言っていい指輪が戻ってきたことが何より嬉しかった。

「用件はそれだけです」彼女はさっと立ち上がった。
「せめてお礼をさせてください」父は慌ててそう言った。
「そんなつもりでお持ちしたのではありません」

私は咄嗟に聞いた。
「あなたのモットーをお伺いしてもいいですか?」
その人は振り返った。

「人が不幸になる仕事はしない、です」
それでは失礼します、と言って後も振り返らずに家を出て行った。
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