第1話

文字数 2,366文字


私が日々のほとんどを過ごす子育ての現場では、熟考・思慮・踏襲などとは対極的な、臨機応変・ある程度の諦め・放心…が求められている、と感じる。
何事も予定通りいかないし、育児本なんて読むだけイラつくし(これは個人的な問題)、ところ構わず子は泣いてひっくり返るし、オールウェイズ心を広く深くなんて無理だし。

一日のほとんどをニ歳目前の娘とニ人きりで過ごすとあって、ふと気がつくとまともに大人と会話していない日々、娘と舌をレロレロ左右に動かし同時に頭も振るというそれはそれは楽しい遊びを繰り返している時なんて、あぁこのまま正気を失うのかなあと朦朧とした頭で考えるのであった。

そんな時は目の前の現実から心を解き放ち(閉ざし?)、そう上述の放心ですね、どこか別の場所に思いを馳せるようにしている。私の場合そのほとんどの行き先は、過去。すると、あれよあれよと記憶の引き出しが開けられ、おぉ今まで何処にしまわれてたんだい、というような思い出が甦ることも。

昔、とても好きな男の子がいた。当時の彼は、「男の子」と呼ぶにはいささか生意気で、「青年」と呼ぶにはまだまだ幼かった。しかしながら、今の私からすれば「男の子」。
彼と同じくらい生意気で幼い当時の私には、この小さな町でのささやかな毎日が世界の中心だった。

何がきっかけかは覚えていない。気がついた時には、彼のことがとても好きだった。
だからあの日の帰り道、彼が気持ちを伝えてくれた時、そしてそれが自分と同じだと知った時は信じられなかった。身体中が、痺れて、とろけていくようだった。
じゃあまた明日。彼と別れた私は、無意識に走り始めた。背中で通学鞄が勢いよく跳ね返り、体中にはドクドクドクドクと熱いものが流れていた。からだ全体が、心臓そのものなのではないかと思うほど。嬉しいのか苦しいのか、わからない。息も切れ切れになりながら、それでも無我夢中で走り続けた。

春の終わり、夕暮れ時。空はピンクとクリーム色のグラデーション、渋滞する車のライトがキラキラ滲み、頬に当たる風はひんやりと冷たかった。世界がこんなに美しいことを、初めて知った。

そして、2人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ、とはいかないのが初恋の通説。この少年少女も例に違わず、季節の移ろいと共にこの関係もあっけなく終わってしまったのである。

どうやら何も無かったことにしたいような振る舞いの少年に対し、未練たらたらというか現在進行形の少女…。しかしこれだけ相手にされていないのだから身を引こう、でも自然消滅は嫌!と考えた私は、今思えばストーカーばりの行動で彼と2人きりになることに成功した。
ちゃんとした形でお別れをしたいと願っていた私に対し彼は、曇りのない笑顔で「じゃあね」と告げた。その笑顔は、あまりに残酷だった。「早くこの場を切り上げたい、湿っぽい空気なんてごめんだ」という気持ちが、悲恋の幕引きに酔っていた私にさえ分かった。悲しかったし、恥ずかしかった。私と同じように、泣いて欲しかった。
それからは三日三晩、泣いて泣いて、泣いた。目が溶けて無くなっちゃうんじゃないかと思うほど。悲しくて、こんな世界、滅んでしまえばいいと本気で思った…。

そんなことを思い出していると、目の前のモヤが開けて、艶やかな、尻。白くてまぁるい、尻。浴槽から手を伸ばし、熱心に給湯器をいじる娘の後ろ姿である。
あぁこんなこともあったなぁ、すっかり忘れていた。あの男の子は、今どこで何をしているんだろう?どんな30歳になっているんだろう?
娘を寝かしつけたあと、好奇心の赴くままに、現代人の悪いくせ、彼の名前で検索をかけてみる。
すると、これまた現代社会の恐ろしさ、ある程度のことがわかってしまった。
どうやら彼は、日本国民のほとんどが知っているようなとても賢くて有名な大学に進み、私にはさっぱり分からない、とても難しい学問を研究しているらしい。
あのユーミンは、学生時代の彼のことを「町でみかけた時、何も言えなかった…」と歌っていたけれど、こんなに生活が違うんじゃすれ違う事もないわなぁ、別に会いたい訳では無いけど。

何とも自虐的な気持ちでスマホを置いた。そもそもあの曲は、若かりし日の甘酸っぱい思い出の曲で、ほんとは「町で見かけ」てなんて、いないんじゃないか?変わらずにいてほしい、というこちらの願望を暗喩しているのではないか?等と妙な考察に気持ちを切り替えながら…。

失恋の痛みに打ちひしがれていた少女は、案外すぐに回復(その若さゆえか)、性懲りも無くまた誰かに恋をし傷つき傷つけの繰り返し、酸いも甘いも何なら苦いも辛いもしょっぱいも経験しながら、気づけば30歳。どこにでもいる主婦となり、のうのうと生きている。
色々な人と人生を交錯させてきたが、彼らが今どこで何をしているのかすら、ほとんど知らない。そんなもんだし、その方が良い、お互いに。
そしてその恋愛遍歴の(恐らく)最後は、強い刺激もコッテリな甘さも無いけど、穏やかな安心感を与えてくれる相手だった。その人との出会いのおかげで、今目の前には素晴らしきプリプリお尻を持つ娘がいる。
あの日神様仏様が、おいおい泣き続ける愚かな少女の願いを聞き入れ世界を滅ぼさずにいてくれて、本当に良かった。

思うに、恋すること愛することは、勇気のいることだ。そして結構面倒だ。でも私は、いつも誰かを好きにならずにはいられなかった。それはあの日、夕焼け空の美しさ、冷たい風の心地よさを知ったからだと思う。あの瞬間、私の新たな人生が始まったんだと思う。

私の人生の春は、とっくに終わってしまった。これからは、そんな日々をふと思い出しながら生きていくのだろう。過去を振り返る日々も悪くはない。思い出したい記憶が、大切な過去があるって、今が幸せだからこそ、だろうから。
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