第1話

文字数 1,982文字

「そんな子はウチにいません」
 酷く平坦で、静かな声だった。しかし、その言葉の中には確かな苛立ちが感じられる。
 つまり、拒絶である。
「いやしかし奥さん、確かに連絡がありましてね。こっちも『はいそうですか』って訳にはいかんのです」
「いないものはいません。お引き取りを」
 まさに、取りつく島もない。しかし、まさかこの場で引けるはずなどない。彼らの目的は、それほど軽いものではないのだから。
「中を見せて頂いてよろしいかな?」
「困ります、お引き取り下さい!」
 家の中に目を移した男に、女は明らかに動揺した。
「ご近所への聞き取りはもう終わってるんですよ! お子さんがいらっしゃる事はもう分かってるんです!」
「いません! ウチには誰も!」
「奥さん、貴方のご自分が何をやってるのか分かってるんですか? 恥ずべき行為ですよ、これは!」
 しばらく問答が続くと、様子を見るために何人かの住人が顔を出し始めた。騒ぐ女と、困る男。その構図を見て、住民がどちらに意識が向いていたかなど疑うべくもない。
「ウチに子供なんていません!」
 震え、叫ぶ。しかし、そんな抵抗がいつまでも続くはずなどなかった。なにせ、男は正当な権力をもって調査にあたっているのだから。
「あんな人とは思わなかったわ」
「恥ずかしくないのか」
 やがて、そんな声が発せられる。
 とうとう抵抗ができなくなった女を押し除け男が家の中へ押し入ると、案の定一人の少女が部屋の隅で小さく固まっていた。
「やっぱりだ。奥さん、こうなると私はアンタを逮捕しなくちゃならん」
「わ、私はその子の母親です! 私からその子を奪うなんて許されないわ!」
 その言葉は、単なる悪足掻きだ。万が一にも許されないと分かっていながら、足掻かずにはいられない。そして、案の定意味などなかった。
「は、離しなさい! 離してください!」
 その言葉に耳を傾ける者など、たった一人もいないのだ。



 魔王を滅ぼすのは、勇者であると相場が決まっている。
 人類の大敵、憎き怨敵、世紀の宿敵。
 人類の歴史は魔王との戦いの歴史であると言って相違なく、そこに勇者と呼ばれる英雄は切り離せない象徴として君臨していた。
 勇者は歳の頃十二を迎える前の少年少女の中から無作為に選ばれ、その証が肉体の何処かに現れる事によって発覚する。そうして選ばれた人間は国家の管理下に置かれ、英雄として魔王との戦いに赴く為の訓練を積む事になるのだ。
 これは非常に名誉な事であり、勇者はあらゆる人間の憧れの対象である。人間のどの国においても羨望の眼差しが向けられ、あらゆる特別待遇が約束される。
 だが、誰もがそれを望むのかと言えばそうではない。
「お母さん……こ、これ……!」
「? ……それは!?」
 母は娘の手の甲に浮かび上がる紋章を目にして、飛び上がりそうなほど喜ばしく思った。しかし、次に娘の顔を見ると、そんな舞い上がった気持ちはすぐに霧散する。
 娘は、目に涙を浮かべて震えていたのだ。
「わ、わたし勇者になりたくない……」
「それは……」
 勇者の拒否。それは、人類の戦いを左右する力を持つ者の責任を、一切放棄してしまう事に他ならなかった。時には極刑もありうる大事である。我が身可愛さに責務を放棄する事など、あってはならないのだ。
「わたし……こわいよ……!」
「——ッ」
 しかし、否定などできようか。魔王との戦いに危険が伴う事など、疑う余地もないのだ。それを恐れる事の、どこに不自然があると言うのか。我が子への愛を思えば、その後の母の言動は必然であったとすら言える。
「任せて」
「お母さん……」
「なんとかするわ。アナタは私の娘ですもの。私が守らないで、誰が守るって言うのよ」
 勇者の発覚後は、速やかに国家へ報告しなくてはならない。母は、その義務を怠った。
 全ては娘のためであり、自らのためであり、愛のためである。家の中に娘を隠し、誰にもこの事を話す事はなかった。念の為娘には常に手袋を付けるように指示し、窓という窓にかけられた分厚いカーテンは常に閉じられたままである。
 愛のために、娘を隠した。娘は母の愛を一心に感じ、娘もまた母を愛していた。
 永遠に、そんな生活を続ける気だったのだ。無論、そんな事ができるはずもないと分かっていながら。
「お母さん、ごめんね……」
「何を謝る事がありますか。アナタを守るために私がいるのよ?」
 二人の愛は本物である。本物である。本物である。
 しかし、ある日扉が叩かれた。それは二人を引き裂く者だったが、それと同時に正義の番人でもあった。
「ウチにそんな子はいません」
 身を裂くような思いで放たれたそんな言葉は、終ぞ理解される事はない。母と娘は涙ながら、正義の名の下に引き裂かれたのだ。
「離してください!」
 それが、娘が聞いた母の最後の言葉である。
 それより後に、二人が再び出会う事はなかったのだ。
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