第2話

文字数 2,679文字

 そして私はいつの間にか、小さな劇場ホールのすぐ目の前まで来ていた。全く予期せぬ展開である。まさかこの六稜島で、劇団の舞台鑑賞をさせてもらえることになるとは。
 先程までの会話が思い出される。私は初め、ツバキから今日の出来事の発端を伺っていた。
「今朝、気晴らしに繁華街を歩いていた時のことさ」と彼は説明した。
「突然僕の名前を呼ぶ声がしたもので、不思議に思って振り向いたのさ。するとそこの彼女だった。柄本真矢。少し前に発足された、劇団サウスビレイの女優らしい」
「よろしくお願いします〜」と柄本は振り返り私に挨拶をした。どこか抜けていて浮ついた印象を抱いたが、私達より歳は少し上なのだろう。
「彼女は劇団員時代の僕の熱狂的なファンでもあった。だから出会い頭に目を輝かせながら頼んできたのさ。『私達の劇団のリハを評価してほしい』とね」
「へえ。ちなみにお前は彼女のことを知っていたのか?」
「いや全く。仕事の関係で会ったことは一度もない。客として観劇した際に僕を知ったらしいから」
 そして最後に彼は困り果てた様子で言った。
「僕に劇団を評価できるほどの実力はまだないよ。これは謙遜じゃなくて一つの事実さ。だから断ろうとしたのだけれど……彼女が懲りなくてね。喫茶サリアにまでついてきた」
 成程、だからげんなりとしていたのかと私は理解した。何でも器用にこなしてみせる青年でも気苦労は存在するらしい。元から人付き合いの苦手な私はツバキに同情した。
 今はそんな彼も仕方なしと諦めたのか、率先して劇場のメインホールへと入っていく。ツバキの周囲を歩く数名はスタッフなのだろうか。柄本の事前の連絡もあってか、彼らは雑談を交えながらスムーズに案内を始めた。
 一方の私はといえば、ツバキから紹介されてばかりの柄本に捕まっていた。リハーサル前なのに随分と余裕だなと感じたが、どうやら本日行うのは役者が舞台に上がらない、演出のみの出来を見極めるテクニカルリハーサルというものらしい。
「今回役者はオフなのよ。だから私は暇なの。まさかこの島の観光ついでに、あの人に会えるなんて!」
「柄本さんにとってはラッキーなことだったんですね。彼の熱烈なファンなんですか?」
 私は普段のようにツバキのことを「あいつ」と呼びそうになったのを堪えた。ファンの前で失礼なことを言っては、自分に故意がなくとも傷付けてしまうだろう。
「ええそう!整った顔立ちは勿論のこと、スタイルも良くてスマートで。私は彼が劇団窓烏にいた時しか知らないけれど、いつも彼は輝いていたわ」
 かねてからツバキには人を惹きつけるカリスマ性があったということだろう。私は演出家については舞台を根底から支える、いわば観衆の目に触れない仕事だと勝手に思っていた。ツバキが元々モデルのように恵まれた容姿であったのも原因の一つだろうが、演出家のファンとは余程観劇に通じた証拠だろう。そもそも演劇の世界に疎かった私はそのように解釈したのだが。
「特に私が好きなのは窓烏オリジナルの『赤騎士物語』!演劇好きなら誰もが知っておくべき作品だけどね。サクマさんはご存知?」
「いえ、すみません。演劇はテレビで拝見できる有名どころしか知らなくて……」
「えー、もったいない。人生の七割は損してる」
 えらく大袈裟な言い方だなと私は若干辟易とした。人の趣味や楽しみなど千差万別だろう。しかし素直な口調から本人に悪気がないのも分かる。私は苦笑いで受け流すしかなかった。
「古風なファンタジーって批判する人もいるけど、堂々と王道のストーリーを展開するのが良いの。赤い衣装を身にまとった『赤騎士』が村の少女と出会って、一緒に冒険をして、恋に落ちて……」
「へえ、そうなんですか」
「あらその反応。あの人から一度も聞いたことがないの?」
「住む部屋が隣同士なだけで、詳しく話すことはなかったので」
 特にツバキは自分のことを話したがらなかった。対する柄本はそんな私に一瞬怪訝な表情を向けたが、すぐに元のあっけらかんとした笑顔に戻る。
「今日私達サウスビレイがリハをする作品も、赤騎士物語の影響を大いに受けているわ。楽しみにしといて」
「ええ、分かりました」
 今日は演出だけとは言うが、私は学生行事以来の舞台鑑賞に期待を寄せた。小説も演劇も、その場にないものを表現するという点では共通している。創作のインスピレーションが少しでも湧けばと私は期待した。
 そして柄本は「ああそれにしても!」と祈るように指を組み、身体中から憧れと悔しさを滲ませた。
「私達が演じるぐらいなら、本物の赤騎士に一つ演じてほしかったなあ!」
「演じる?誰がですか?」
「え?ツバキさんよ」
 その発言を聞き、私は思わずある疑問を口にした。
「彼は演じるというより、演じる人を導く立場なんでしょう?自分で言っていましたよ。見習いだけれど演出家だって」
「あら、サクマさんこそ何を言っているの?彼はずっと舞台俳優として活躍していたのよ。演出家に転向しただなんて話、噂でも聞いたことがないわ」
 え?と私はその場で素っ頓狂な声を上げた。俳優だと?そんな話、それこそ一度もツバキから聞いたことがない。
 私はすぐさま彼女に問い掛けた。
「あいつは演出家じゃないんですか?」
「そうよ。もうサクマさんったら、そんなの演劇に詳しくなくても分かるじゃない!あのかっこいい姿を演劇で活かさない人なんていないわ」
 慌てて遂に「あいつ」と言ってしまった。柄本は気付いてなかったが、取り繕うように私はその場凌ぎの言い訳をした。
「ああいや、確かに俳優が演出も任されるうちに本職にするというのも聞いたことがありますが……。私は所詮、彼のフルネームも知らない程度の関係なので」
「え、そうなの?何だか不思議」
 それは私も同感だった。「ツバキ」という呼び名が本名であるのは本人も認めているが、それが苗字なのか名前なのかも定かではない。最早そこそこの付き合いとなっているにも関わらずだ。
「だったらテクリハの後でも教えてあげるわ、彼の舞台俳優としての功績もフルネームも。私、ファンの中でもかなり詳しいほうだから」
「ああいや!それは遠慮しますよ。彼に睨まれそうなんで」
「大丈夫大丈夫!むしろ私が話したいくらいなの!他のメンバーは彼のことを知らないから」
「一時は巷で話題にもなったのに……」と柄本は会話の最後にごねるような呟きを残した。結局彼女に押される形で約束してしまったが、果たして問題なかっただろうか。
 この時の私はそのように懸念していたが、それは突如として無用の心配に終わったのである。
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