第1話

文字数 4,992文字

「被害者は古館保之、五十四歳。黒井商事経理部部長、死因は青酸カリによる服毒死」
 旭正子刑事が古館の死体を見下ろしながら淡々と続ける。三十代半ば、両目が離れ気味なファニーフェイスの美人、女性にしては低い声の持ち主だ。
 古館の死体は大の字になってカーペットの上に仰向けに転がっている。左手は体の脇に添えられているが、右手は喉元にあった。何かを掻きだそうとしたかのように指がこわばっている。薄く開いた口の端は吐しゃ物で汚れていた。ネクタイにもシャツにも染みが出来ている。両目はかっと見開いて天井を見据えていた。
「警察を呼んだのは?」
「私です」
 |平一生は旭刑事にむかって微笑みかけた。細い目がさらに細くなる。東南アジアの神像を思わせる神秘的な微笑みである。目尻に皺のよった四十歳の神像だ。
「あなたは?」
「平一生。この春に経理部に異動になり、二か月になります」
「警察に連絡する前に救急車を呼んでいますね?」
「古館部長が倒れたので、年齢からして頭か心臓をやられたと思ったので」
「警察を呼んだ理由は?」
「息があるかどうかを確かめようとした時にアーモンド臭を嗅いだので、ただ事ではないと」
「ただ事ではない……殺人だと?」
 「殺人」という単語に、その場の空気が凍りついた。
 派遣社員の大和愛子は血の気を失って今にも倒れそうだ。大和愛子と同じ二十代半ば、派遣社員の佐藤アリサは戸惑っているのだろうが怒っているようにもみえる表情をしている。三十代、中堅の正社員、浅野卓己は腕組みをして平静を装っている。
「お茶に青酸カリが入れられたと考えられます。湯呑から青酸カリが発見されていますので」
「お茶に……確か、お茶を部長に出したのは大和さんですよね?」
 アリサが愛子を見やった。浅野もまた愛子に視線をむけた。つられて旭刑事も愛子に顔を向ける。白い顔をした愛子は風にはためく旗のように震えている。
「大和さんがお茶を……。今時、社員にお茶をいれさせるんですか?」
 旭刑事の顔が歪んだ。
「古館部長だけです、社員にお茶を持ってこさせるのは」
 平の口元に浮かべた微笑みが苦笑いに変わる。
「お茶だけじゃないですよ」
 浅野が吐き捨てた。
「書類もファクスも何でもかんでも人に持ってこさせるんですよ。資料もわざわざメールで送りつけて僕等に印刷させて自分のところに持ってこさせるんです。不要になった書類だって自分では廃棄しない。わざわざ僕等を呼びつけて『これ、シュレッダーにかけておいて』って。一旦、席についたらトイレと食事、会議以外には絶対に動かないんで、陰では『大仏』って呼ばれてました」
 浅野の言葉を裏付けるように、アリサが何度もうなずく。
「お茶を持っていったのは確かに大和さんです。ですが、だからといって大和さんが青酸カリをお茶に入れたとは限らないでしょう」
 口元の微笑みは変わらないが、細くなった平の目の奥に鋭い光が宿っていた。
「お茶を淹れたのは大和さん、あなたですか?」
「は、はい……」
 唇をわななかせながら愛子は旭刑事の質問に答えた。
「どうやって?」
「どうやってって……ポットでお湯をわかして――」
「水は? ポットにすでに入っていましたか、それとも大和さんが入れましたか?」
「ええっと……つぎ足した記憶はないので、たぶんポットいっぱいに水が入っていたんだと思います。スイッチを入れてお湯を沸かしました」
 旭刑事の質問に答えるうちに愛子の舌が滑らかになっていった。
「お湯が沸くのを待っている間に、ティーバッグと湯呑を用意して――」
「湯呑は、どこにありましたか?」
「給湯室の食洗機です。信楽焼で、部長の湯呑なので誰も使いません」
 赤味を帯びた素朴な風合いの湯呑は古館部長の足元に転がっている。
「湯呑が被害者のものだと知っている人間は?」
「経理部の人間なら全員知ってます。経理部でなくても、このフロアに入っている総務部の人も知っていたと思います。同じ給湯室を使っていますから」
「刑事さん。刑事さんは、部長を殺した犯人は、部長の湯呑にあらかじめ青酸カリを仕掛けておいたと考えているんでしょうか?」
 浅野が推理を披露する。経理関係で不明なことがあればまずは浅野に聞けと頼りにされている頭の切れる人間だ。表計算ソフトの達人でもあり、同じフロアの総務部の社員や他部門の部長クラスまでが浅野の助けを借りにやってくる。
「湯呑にあらかじめ青酸カリが仕掛けられていた可能性は捨てきれません」
 旭刑事が冷静にそう述べ、愛子がほっとして顔に血の気が戻ったのも束の間、アリサが爆弾発言を投じた。
「でも、私、見たんです。大和さんがお茶に青酸カリを入れているところを」
 愛子の頬から再び血の気が引いていった。旭刑事の離れ目が鋭く愛子を射抜く。
「トイレに行こうと給湯室の前を通りかかった時でした。大和さんが湯呑に何かを入れているところを見かけたんです。砂糖かなと思ったけど、お茶に砂糖を入れるわけはないし、そもそもお茶なんだから何も入れるわけがないんですよね。その時は気にしていなかったけど、部長が殺された、お茶に毒が入っていたっていう話なら、大和さんが入れていたものは青酸カリだったということになりますよね」
「大和さんがお茶に何かを入れたとしても、部長が飲んだお茶はそのお茶ではありませんよ」
 平はさらっとアリサの告発を否定した。
「電話がかかってきましてね。浅野さんは電話中、佐藤さんは席を外していたし、私は携帯電話で話し中でしたので、給湯室にいた大和さんに声をかけました。古館部長ルールで、電話を取るのは派遣社員の仕事と決まっていましたし、取らないとうるさいんですよ。大和さんが電話を取りにいっている間に、お茶は捨ててしまいました」
「捨てた?」と旭刑事。
「はい。ぬるいお茶を出すと部長が機嫌を損ねるので。お茶は私が新たにいれなおしました」
「そのお茶を飲んだ部長が死んだということは、平さんが毒を入れた殺人犯……?」
「違います。平さんは犯人じゃありません。もちろん、私でもありません。平さんがいれたというお茶は私が捨てました」
 アリサと旭刑事にむかって愛子が声を張り上げた。
「佐藤さんが見たのは、お茶に埃を入れていたところです。お茶ぐらい自分でいれろって腹が立って――嫌がらせのつもりでした。お茶を持っていこうとしたら、電話が鳴っていると平さんが知らせてくれて、慌てて机に戻りました。受話器を取ったところで相手の電話が切れてしまったので、また急いで給湯室に戻りました。その間に気持ちが落ち着いて、埃を入れたお茶を捨てたんです」
「大和さんが埃を入れたお茶を平さんが捨て、平さんが捨てたとは知らないで、平さんがいれ直したお茶を大和さんが捨てた――仮に平さんが青酸カリを入れたのだとしても、そのお茶を被害者は口にしなかった。しかし、被害者はお茶を飲んで苦しみ始めた……そうですよね?」
 旭刑事がぐるりと平たちを見回し、メモ帳をめくった。メモ帳を見ながら、旭刑事は手にしたボールペンをカチカチと鳴らしていた。カチと音がするたびに芯が出たり収納されたりを繰り返した。考え事をしている時の癖らしい。
「午前九時過ぎ、大和さんはお茶を被害者に持っていった。被害者は資料に目を通しながらお茶を飲み始めたかと思うと、突然呻き声をあげた。喉元をかきむしりながら立ち上がったかと思うと、倒れ、被害者は死亡。お茶以外に口にしたものはない。湯呑からは青酸カリが発見されている。お茶に青酸カリが入っていたとしか考えられませんが」
「青酸カリはお茶に入れられていたのではないんですよ」
 何を言い出すんだと旭刑事の目が無言で平を制した。平は続ける。
「犯人は、お茶に青酸カリが入れられたと思わせるために後から青酸カリを湯呑に入れたんです。部長が倒れた直後の混乱状態に乗じてね。どさくさに紛れて部長の殺害に用いた凶器も処分しています」
 そう言うなり、平は古館の机の裏側にまわった。戻ってきた平はゴミ箱を手にしていた。ゴミ箱にはクリップで止められた書類が投げ込まれていた。
「書類が凶器? 被害者が捨てたのでは?」
 平は首を横に振って旭刑事の疑問を否定した。
「部長は、自分では書類を処分しない人間でした。捨てるにも、わざわざ私たちを呼びつけた。にもかかわらず、書類はゴミ箱に投げ込まれてある。犯人が捨てたとしか考えられません。落ち着いたらきちんと処分するつもりだったんでしょう」
「書類でどうやって部長を殺せたっていうんです?」
 アリサが無邪気に問いかけた。
「青酸カリは書類の隅に塗られていたんです。部長は書類をめくる時、指を舐めて湿らせる癖がありました。書類をめくって指先についた青酸カリを舐める。そうやって部長は殺されたのです」
 旭刑事はボールペンを何度も打ち鳴らした。
「では犯人は誰なんです?」



 日曜の午後の昼下がり、公園のベンチに腰掛け、趣味の編み物に興じる。平の休日の過ごし方だ。無暗に手を動かしていると頭が整理されてくる。その上、セーターだのマフラーだのが手元に残る。一石二鳥だ。出来上がったセーターなどは、姉や甥っ子、姪っ子たちにやってしまう。姉は、自分が編んだと言っているらしい。
「今度は何が出来るんだ」
「セーターです」
 隣に腰かけた男の顔を見もせず、平の目は網目を追い、手はひっきりなしに編み棒を動かし続けていた。男は犬を、ゴールデンレトリーバーを連れていた。
「セーターにしては小さいが?」
「ティーポット用ですから。紅茶が冷めないようにティーポットに着せるんです」
 男は笑った。出光昇、平の同期だ。五年前、三十五の若さで黒井商事の人事部長になった。同期の出世頭である。ギリシャ彫刻のような顔立ちをしていて、初対面の人間には必ずといっていいほど「日本人か?」と尋ねられる。イタリア人に同胞と間違えられた話は同期の間で笑い話となっている。
「例の件は落ち着きましたか?」
 返事はなく、出光はふうとため息をもらすだけだった。
 古館経理部長を殺害した容疑で部下の浅野卓己が逮捕された。平の指摘した通り、資料から青酸カリが発見された。ページがめくりづらいようにと二枚の書類を糊付けするという工作が裏目に出て、殺害目的で作成された資料と断定された。ネクタイやシャツについたお茶の染みから青酸カリが発見されなかった事実も平の推理の正しさを裏付けた。
 被害者も加害者も共に社の人間だ。人事部長として、社内で発生した殺人事件の後処理に奔走したのだろう。編み物の手を休めて見やった出光の横顔に疲れがうかがえた。
「動機は何だったんです?」
「上司に対する不満、だそうだ。パワハラにあっていたというが実態はいじめに近かったらしい。古館部長のパワハラは噂どまりで、内密に調査を始めた矢先に殺されてしまった……。もっと早くに一生を経理部に送っておくんだった」
「私が経理部に異動になった直後はパワハラめいた行動は見うけられませんでした」
「警戒したのだろう。一生がどういう人間か見極めて、口答えしないようならいじめてかかるつもりだっただろう。その前に、浅野くんに殺されてしまったわけだが」
「大和さんが古館部長を殺そうとしているのだと思ったんです。それで携帯から電話をかけて給湯室から彼女を呼びだし、その間にお茶を捨てたんですが……まさか浅野くんが……」
 平は犬の頭をそっと撫でた。犬はふさふさとした尾を振った。
「一生には悪いことをしていると思っている。社内調査のために異動してもらう必要があって、平社員の地位に留めておいてしまっているから」
「その話はもういいじゃないですか。出光部長は上を目指す、私は身軽な体で社内の膿み出しをする。入社した時にした約束です」
「その『出光部長』というのはやめてくれ。それと敬語を使うのも。昔のように、『出光』でいい」
「命令ですか?」
「ああ、そうだ。命令だ。社外では敬語はやめろ、『出光』と呼べ」
 犬を連れ、出光は去っていった。アルカイックな微笑みを浮かべ、平はその後ろ姿を見送った。
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