シズク

文字数 3,877文字

 入社二年目で、新卒で入ったパン工場をやめた。
 理由は人間関係だった。ようするに先輩や上司にいじめられたのだ。
 ここの職場をやめるのは、かなり骨が折れると聞いた。ようするに言い包められるのだ。
 「なんでやめるんだ?」専務は机の向こうで僕にそう尋ねた。椅子の背に、ゆったりともたれながら。
 「あなたのことが嫌いだからですよ!」と僕は言った。
 その日のうちにやめられた。

 工場から出ると、駐輪場に停めてある原付に跨り、ヘルメットを被った。
 そして産業道路を原付で飛ばした。
 歌の歌詞じゃないけれど、自由になれた気がした21の午後だった。
 それは、夏の終わりだった。



 「飲みすぎよ」カウンターの向こうでママが言った。
 「んん……」と僕は唸った。
 そのとき僕は、駅近のスナックにいて、焼酎のお湯割りを飲んでいた。客はそのとき僕しかいなかった。
 「仕事やめてどれくらいだっけ?」ママが僕にそう尋ねた。彼女はその日、黒い柄物の着物を着ていた。
 ママは40代半ばくらいで、ある種の40代女性しか持ち得ない、美しさと輝きがあった。
 「二ヶ月ですね」と僕は言った。そろそろ11月に入る頃合いだった。
 「そんなにしょっちゅうウチに来てて大丈夫なの?」とママが言った。「ウチとしては勿論、ありがたいんだけどさ……」
 「貯金があるから、当分問題ないです」二年間あまりにも忙しくて、貯金は貯まる一方だったのだ。趣味と呼べるものも、僕には特になかった。
 「もしかして淋しいの?」ママがそう尋ねた。
 「ヒマなんですよ」僕はお湯割りを飲んだ。確かに「それも」事実だった。
 ふぅん、とママは疑わしそうに言った。

 「旅行にでも行ってきたら?」ママが自分のお湯割りを飲みながら言った。「気分転換にさ」
 「旅行かぁ」と僕は答えた。
 「お金と時間が両方揃ってることって、あまりないでしょ」とママは続けた。「それにいまはオフ・シーズンなんだし」
 「確かに」と僕は同意した。確かに旅の条件がここまで揃っていることは、そうそうないだろう。



 というわけで、僕はリュックを持ってJRに乗っていた。
 行き先は房総半島の南、千葉の館山だった。館山には祖父母の家があって、懐かしかったからだ。二人とも、僕が小学生のころに亡くなってしまったけれど。

 途中で千葉駅で下車し、駅前の定食屋に入って天丼を食べた。
 食べ終えると、駅前を行き交う人々を窓からぼんやりと眺めた。熱いお茶を飲みながら。
 思い出すのは、「シズク」のことだった。
 小学生のころ、夏休みに祖父母の家に遊びに行くと、僕は近所の一軒家によくでかけた。そこには、同い年の女の子がいたからだ。彼女の名前はシズクといった。
 色白で細かったけれど、背が僕よりも高く、髪は少年のように短かった。彼女は病弱で、よく布団のなかで眠っていた。
 シズクと、シズクの母親は、僕を歓迎してくれたが、僕の母親は僕を叱り、彼女の家に行くことを禁じた。シズクの身体に障るからだ。
 それでも僕は、こっそりと彼女の家へ遊びにでかけていた(きっと、自分のことしか考えていなかったのだ)。
 シズクは、「城山公園に行きたい」と布団のなかでよく口にしていた。城山公園は、館山の丘陵にある公園で、山の頂上には館山城が建っている。
 彼女にとって「城山公園に行く」という行為は、病気から回復することを意味していたのだ。
 「一緒に行こうよ」僕は彼女のそばで言った。「シズクが元気になったらね」


 
 館山の町をぶらぶら歩いていると、シズクとばったりと再会した。
 シズクは、相変わらず色白で細かったけれど、身長は僕のほうが頭一つ分ほど高くなっていて、少年みたいだった彼女は、すっかり女の子らしくなっていた。
 髪は腰まで伸ばしていて、麦わら帽子を被り、真っ白なワンピースを着ていた。
 彼女と僕は、海岸沿いの道路の歩道を歩いていた。
 空は全体を白い雲に覆われ、海はくすんだ色をしていた。
 波の小さな音と、道路を行き交うクルマの走行音が、辺りに響いていた。クルマは都会とは違い、それほど数は多くないし、苛立ってもいない。
 左手には小学校が、前方には博物館が見えた。
 「時間はあるの?」シズクは微笑んで僕に尋ねた。綺麗な笑みだった。
 「あるよ」と僕は答えた。「気ままな一人旅だからね」
 「ちょっとどこかで休もうよ」彼女はそう提案した。



 僕らは、海岸沿いのレストランに入った。
 コーヒーを飲みながら、僕は自分の近況をシズクに話した。彼女がそれを聴きたがったからだ。
 そのほとんどは、やめたパン工場の話だった。自分の作業が遅すぎて、パン(ベルトコンベアから次々に流れてくる)が、無限に溜まっていく話や、僕と仲の良かった先輩との話、僕を目の敵にしていた先輩との話、等だ。
 「シズクはいつまでここにいるの?」僕は彼女に尋ねてみた。
 「さぁ」と彼女は頬杖をついて、窓から海を眺めた。「きっかけがないからね……」
 きっかけ……と僕は思った。



 シズクと別れたあと、住宅街にある小さなビジネスホテルにチェックインした。
 シャワーを浴びたあと、コンビニで買ってきた弁当を食べ、そのあとTVを見た(ビジネスホテルに泊まると、なぜだかTVを無性に見たくなるのだ)。
 夜の九時ごろに外出し、近くの海岸を歩いた。
 波の音が、辺りに小さく響いていた。波は打ち寄せたあとで、沖に引いていく。
 僕は立ち止まり、海原を眺めた。海原のわきのほうに黒い島影があり、灯りがポツリポツリと見えた。
 そしてシズクが言っていた「きっかけ」とは何だろう?と、僕はしばらくのあいだ考えてみた。



 翌日もシズクと会い、僕らはまた海岸沿いを歩いた。
 その日は、海辺の博物館を二人で見て回り、そのあと、昨日と同じレストランで昼食をとった。
 僕は自分の近況を、昨日と同じようにシズクに話した。彼女は微笑んで、それを聴いていた。

 三日目は、二人でバスに乗り、城山公園まで出かけた。
 ロープウェイに乗り、僕らは山頂まで昇った。
 そして館山城のそばの展望台から、町と海を一望のもとに眺めた。
 空はどこまでも高く、そして澄み渡っていた。雲一つない。海は、深い濃紺だった。海原は太陽の光を受けて、キラキラと輝いていた。
 「あのころは来られなかったからね」シズクは町を眺めながら言った。
 彼女と僕は、その展望台から彼女の家と、僕の祖父母の家を探した。

 四日目、僕たちはまた館山の海岸を歩いていた。
 「城山公園にはもう行けただろ」僕はシズクに言った。
 彼女は立ち止まり、僕の目をジッと眺めた。彼女の瞳は、とても透明だった。
 小さな波の音と、クルマの走行音が、辺りに鳴り響いていた。
 「まだこの世にいるの?」と僕は続けた。



 シズクが死んだのは、僕が小学五年生のときだった。
 「一緒に城山公園に行く」という約束を果たせぬまま、彼女は死んだのだ。
 彼女の死を、僕の母親から聞いたとき、僕は涙が出なかった。なぜかはわからない。僕らはあんなに仲が良かったのに。
 僕の母親と僕は館山まで行き、彼女の葬儀に参列した。そのときも僕は涙を流せなかった。どうして涙が出ないんだ?と思った。シズクが死んだのに。
 山のなかの火葬場で、細い煙突から白い煙が立ち昇っていくのを、僕はただぼんやりと眺めていた。



 シズクと僕は、館山の海岸に立っていた。
 海の向こうには、夕焼けが広がっていた。燃えるような空だった。
 波の音は、相変わらず小さく響いていた。波は寄せては返し、また寄せては返した。
 「『きっかけ』って、城山公園に行くことだったんだな」と僕はシズクに言った。
 彼女は海を眺めながら小さく頷いた。海原は夕陽を反射させ、キラキラと光っていた。
 「だけど、いまなら一人でも行けただろう?」僕はシズクに尋ねた。あの病弱な身体から、彼女はもう抜け出せたのだ。
 「君と一緒に行くことが大事だったんだよ」彼女はそう、僕に言った。
 「僕と?」
 「約束だったからね」

 夕陽はもう、水平線に沈み込もうとしていた。辺りはオレンジ色から紫色へ、そして藍色へと変わっていった。
 「もう行かないと」シズクは言った。
 「また会えるかな?」僕は慌てて尋ねた。
 「会えるよ」彼女は綺麗に微笑んだ。「またいつかね」
 シズクは眩しい光に包まれ、そして消えてしまった。
 海岸には、僕一人が残された。
 幕が下りたように、周囲は暗くなり、波の音とクルマの走行音だけが、辺りに鳴り響いていた。
 


 翌朝、街の喫茶店でモーニングをとったあと、シズクの家にでかけた。
 シズクの母親は、まだ僕のことを覚えていてくれた。彼女ももう、還暦を迎えたようだった。髪には白髪が混じっている。
 彼女と僕は机を挟み、思い出話を交わした。
 その部屋には、シズクの遺影が置かれていた。写真のなかの彼女は、まだ小学五年生だ。
 シズクの家で昼食をご馳走になったあと、僕は礼を言って彼女の家を出た。
 そして館山駅へと歩いて向かった。商店街を抜けて。
 最初にやってきた東京行きの電車に乗り、座席に座った。少しして電車が動き出す。
 座席から僕は、ずっと海を眺めていた。遠くには、貨物船が何隻か見えた。
 不意にシズクとの思い出が、脳裏をよぎった。まるで走馬灯のように。
 いつも布団のなかにいた彼女。彼女との他愛のない話し。彼女と交わした約束。
 そして、そのときの彼女の笑顔……。
 少しして、涙が僕の頬を伝り、そして膝に落ちた。そのあと涙は、堰を切ったように、こぼれ落ちていった。
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