第5話

文字数 1,776文字

 陽はすでに中空をまわっていた。だが、菱屋は暖簾を下げたまま、ひっそりと佇んでいる。元々、質屋という商売柄、人通りの少ない場所にあるため、ゆっくりと進んできた荷車は人目を引くこともなく静かに店の前に横づけされた。
 外の様子を伺っていたかのようにすぐに戸が開いて中年の女中が顔を出し、利助と目を合わせると察した様子で利助を中にいざなう。栄三郎は、千次郎の亡骸を乗せた荷車の横で、辛抱強く待っていた。利助の話が終わったのであろう、戸が大きく開けられ、千次郎を載せた戸板に付き添うように栄三郎も店の土間に入っていった。

 「若旦那、通町の栄三郎親分です。千次郎様を運んでくださいました」

 利助が、店の中に突っ立ているままの千壱郎に説明すると、千壱郎は慌てて座り、両手をついて挨拶をした。

 「千次郎の兄の千壱郎と申します」
 「ご紹介にあずかった栄三郎でございます。お顔をお検めください」
 「利助が確かめたと…」

 躊躇(ちゅうちょ)されて、栄三郎は無理強いはしなかった。

 「では、中へお運びしましょう」

 そう言われても、主人が何の指図をしないので、奉公人たちはつったたままである。すると、店の戸を開けた女中が奥から出てきて栄三郎に目で合図をする。それを受けて、栄三郎が戸板を持ったまま立っていた人夫を促して店に上がり、利助も一緒に奥へ入った。
 仏間に敷かれてあった布団に千次郎を寝かせると店に下がり、人夫を帰して、座ったままの千壱郎の向かいに腰を下ろした。

 「少しお話をしてもよろしいですかな?」
 「話は利助から聞きました…」

 千壱郎は座ったまま身を引いたように見えた。

 「千次郎さんは、今日はご自分の乳母だった方のお見舞いにお一人でいかれていたそうですが?」
 「そのようです。私は店の方にいましたから、そのことは義母に聞いてください」
 「おつきもなく出かけて帰らなければ、ご心配だったんじゃありませんか?」
 「私も昨日は昼から客先を廻っていて帰りが遅かったので、今朝方お知らせを頂くまで、千次郎が帰っていないとは知りませんでしたし、お知らせを頂いたときも、乳母の家に泊まることもあろうかと」
 「では、昨夜は千次郎さんがいないことを知らずに床に着かれたということですか?」
 「はい。疲れておりましたので。もう、よろしいですか?病床の父に話さないといけないので」

 千壱郎は栄三郎の答えを待たずに立ち上がると、そそくさと奥へ消えた。それを見て、奉公人たちも栄三郎に頭を下げると、奥へ走って行く。入れ違いに先ほどの女中が茶椀を載せた盆を持って、栄三郎に近づいてきた。

 「申し訳ございません、皆、動揺しておりまして」
 「あなたは?」
 「女中頭のおせいと申します」
 「こちらには、長くお勤めですか?」
 「私は元々奥様がお嫁に入られるときに、ご実家から一緒に参りましたで、まぁ長い方ですかねぇ」
 「それなら、千壱郎さんと千次郎さんの兄弟仲がどうだったかご存じでしょう?」
 「それが、よくも悪くもないというか、そもそも交わりがございませんでしたよ。お歳も離れていましたし、千次郎様は、家の中でも乳母のおくにさんと、おさとさん以外とは話もされなかったので。お食事すら別にお部屋でおさとさんと食べておられましたし。親分さんは、千壱郎様が冷たいと思われたのでしょうが、千次郎様の方が近寄らなかったのです」
 「何かわけがあるんですか?」
 「まだ、お小さい頃はおくにさん以外が抱くと大泣きで手が付けられませんでしたし、話しかけても返事もされないので、周りはどうしようもなかったんですよ」

 奥から若い女中が顔を出し、

 「おせいさん、奥様がお呼びです」

 とおせいに声をかけた。おせいが挨拶をして下がると、その女中が袱紗に包んだものを栄三郎のひざ元に置いた。

 「おかみさんから、お渡しするようにと」

 栄三郎が包を開くと、小判が三枚入っていた。そのうちの一枚をつかみ、

 「これは、人夫と荷車の代金に頂きます。残りは奥様にお返ししてください」

 と言うと、女中が何か言う前に菱屋を出た。次は、おさとと、その母親から話を聞かなければならないが、その前に何か腹にいれないと持たないな、と自分の店を目指して歩き出した。

 栄三郎が菱屋を出た頃、平太も堀を渡り、岸に沿って(もや)ってある舟を一艘ずつ丁寧に確かめながら進んでいた。
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