第1話
文字数 1,661文字
あれはいつだったかしら。
ずいぶん昔に水族館に行ったときに見たあの光景。
トンネルをくぐると、ガラスごしに大きなジンベエザメが泳いでいた。ガラス一枚に隔たれていたけど、どっしりとしたジンベエザメが、自分の周りをゆうゆうと泳いでいるのを見ると、まるで海のなかに放り込まれたみたいだった。
そして今、トンネルを歩く私のまわりにはあのときのジンベエザメみたいに、頭上に、左右に、足元に、いろいろなものが広がっていた。
それも全部見たことあるもの。
最近買った玉ねぎ、働いていたときの制服。はじめて聴いたレコード。お見合いした男の人、すぐ怒る先生、あんまり口を聞かなかった同級生……とにかくたくさん。
「これはなに? 走馬灯?」
ずいぶんハイテクな感じなのね。
でも、今のところあんまり重要じゃないものばかりな気もする。80年もの思い出をすべてふり返るにはちょっと時間がかかりそう。
「似てるんですけどね。ちょっと違うんです」
案内してくれた人はそう笑った。
長い髪に顔が隠れてて男性なのか女性なのかはっきりしない。身につけているのはシルバーのジャケットとスーツ。変な言い方だけど、古いアニメに出てくる未来人みたいだった。
「あ、ソレイユだわ!」
頭上に昔飼ってた犬の姿が映った。よかった、大切な思い出も出てきてくれた。
父や母よりも先にソレイユがあらわれたのはちょっと意外だったけど。
ソレイユはゴールデンレトリバーの女の子。私が小さいころ、わが家にやって来て、ずっといっしょに遊んでた。大きな目に優しい口元。
「まるで女優さんみたいだね」
って父はほめてたっけ。私のことはあまりほめてくれなかったのに。
両親共働きだったのもあって、私と遊んでくれたのはいつもソレイユだった。いっしょに笑ったり、ときにはいたずらしようとしていた私をソレイユが叱ったり。
「ソレイユってまるで私のお母さんみたいだったのよね。いえ、おばあちゃんかしら。犬ってあっという間に年とっちゃうから悲しかったわ」
ソレイユが13歳で亡くなったとき、涙が枯れるほど泣いてもう犬は飼わない! って決めてそれっきり。
あのフワフワの身体をできることならもう一度抱きしめてみたい。
「ねぇ、このトンネルを抜ければ会えるのよね?」
案内人がくるりとふり返る。
「誰にです?」
「だからソレイユに。それに家族や他にも大切な人たちに。このトンネルって天国につながってるんでしょう?」
ここはきっとこの世とあの世の狭間なのね。
ところが、案内人は苦笑いを浮かべて。
「残念ながら、天国ではないんです」
「え? ちがうの?」
やだわ、地獄行きってこと? 私そこまで悪いことしてたかしら?
「このごろはタイパを重視してましてね。あなたにはすぐ別の世界に行ってもらいます。天国とは異なりますが、怖いところではありませんよ」
タイパ? なにそれ?
「ほら、姿も新しい世界にふさわしくなったでしょう」
あらら、私どんどん若くなってる。歩くたびに幼くなってるわ。あらあら歩きにくい。進むのがゆっくりになってる。立っているのもおぼつかない。大丈夫かしら?
「ご心配なく。準備は整ったようです。あなたはこれから大好きだったひとたちと再会できますよ。
命は上手い具合にめぐってるんです。はじめは意外に思うかもしれませんがね。今までの記憶はしだいに消えていくでしょうが、新しい世界でもきっと幸せになれます。それではまた」
トンネルを抜けた先は、明るい光に満ちあふれていた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
気がつけば小さくなった私は誰かに抱き上げられていた。
何が起こったのか分からず泣きじゃくる私に、うれしそうにほほ笑みかけるひとがいた。
パッチリとした大きな目に、やさしい口元。フワフワとゆらめく金色の髪。どこかなつかしい面影の女性。
あら、あなたは……。
ふふふ、なんだ。そういうことなの。
どおりでそばにいるだけでホッとすると思ったわ。
久しぶりね、そして、はじめまして。
これからもどうぞよろしくね。
ずいぶん昔に水族館に行ったときに見たあの光景。
トンネルをくぐると、ガラスごしに大きなジンベエザメが泳いでいた。ガラス一枚に隔たれていたけど、どっしりとしたジンベエザメが、自分の周りをゆうゆうと泳いでいるのを見ると、まるで海のなかに放り込まれたみたいだった。
そして今、トンネルを歩く私のまわりにはあのときのジンベエザメみたいに、頭上に、左右に、足元に、いろいろなものが広がっていた。
それも全部見たことあるもの。
最近買った玉ねぎ、働いていたときの制服。はじめて聴いたレコード。お見合いした男の人、すぐ怒る先生、あんまり口を聞かなかった同級生……とにかくたくさん。
「これはなに? 走馬灯?」
ずいぶんハイテクな感じなのね。
でも、今のところあんまり重要じゃないものばかりな気もする。80年もの思い出をすべてふり返るにはちょっと時間がかかりそう。
「似てるんですけどね。ちょっと違うんです」
案内してくれた人はそう笑った。
長い髪に顔が隠れてて男性なのか女性なのかはっきりしない。身につけているのはシルバーのジャケットとスーツ。変な言い方だけど、古いアニメに出てくる未来人みたいだった。
「あ、ソレイユだわ!」
頭上に昔飼ってた犬の姿が映った。よかった、大切な思い出も出てきてくれた。
父や母よりも先にソレイユがあらわれたのはちょっと意外だったけど。
ソレイユはゴールデンレトリバーの女の子。私が小さいころ、わが家にやって来て、ずっといっしょに遊んでた。大きな目に優しい口元。
「まるで女優さんみたいだね」
って父はほめてたっけ。私のことはあまりほめてくれなかったのに。
両親共働きだったのもあって、私と遊んでくれたのはいつもソレイユだった。いっしょに笑ったり、ときにはいたずらしようとしていた私をソレイユが叱ったり。
「ソレイユってまるで私のお母さんみたいだったのよね。いえ、おばあちゃんかしら。犬ってあっという間に年とっちゃうから悲しかったわ」
ソレイユが13歳で亡くなったとき、涙が枯れるほど泣いてもう犬は飼わない! って決めてそれっきり。
あのフワフワの身体をできることならもう一度抱きしめてみたい。
「ねぇ、このトンネルを抜ければ会えるのよね?」
案内人がくるりとふり返る。
「誰にです?」
「だからソレイユに。それに家族や他にも大切な人たちに。このトンネルって天国につながってるんでしょう?」
ここはきっとこの世とあの世の狭間なのね。
ところが、案内人は苦笑いを浮かべて。
「残念ながら、天国ではないんです」
「え? ちがうの?」
やだわ、地獄行きってこと? 私そこまで悪いことしてたかしら?
「このごろはタイパを重視してましてね。あなたにはすぐ別の世界に行ってもらいます。天国とは異なりますが、怖いところではありませんよ」
タイパ? なにそれ?
「ほら、姿も新しい世界にふさわしくなったでしょう」
あらら、私どんどん若くなってる。歩くたびに幼くなってるわ。あらあら歩きにくい。進むのがゆっくりになってる。立っているのもおぼつかない。大丈夫かしら?
「ご心配なく。準備は整ったようです。あなたはこれから大好きだったひとたちと再会できますよ。
命は上手い具合にめぐってるんです。はじめは意外に思うかもしれませんがね。今までの記憶はしだいに消えていくでしょうが、新しい世界でもきっと幸せになれます。それではまた」
トンネルを抜けた先は、明るい光に満ちあふれていた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
気がつけば小さくなった私は誰かに抱き上げられていた。
何が起こったのか分からず泣きじゃくる私に、うれしそうにほほ笑みかけるひとがいた。
パッチリとした大きな目に、やさしい口元。フワフワとゆらめく金色の髪。どこかなつかしい面影の女性。
あら、あなたは……。
ふふふ、なんだ。そういうことなの。
どおりでそばにいるだけでホッとすると思ったわ。
久しぶりね、そして、はじめまして。
これからもどうぞよろしくね。