河童

文字数 3,776文字

 いまだ脳裏にこびり付いているひと夏の思い出ばなしをしようか。
 あれは――詰まっていた遊びの予定をすべてキャンセルされ、N県にある父方の実家まではるばる連れてこられた小3の夏休みのこと。
 見渡すかぎりの緑・緑・また緑……。初めて訪れるじいちゃん()は目も覚めるような大自然の只中にあった。
 大人たちが慌ただしく駆けまわる中、ひとりほっておかれた俺はしばらくブータレていたが、そうしているのもそのうち飽きて、こっそり家を抜け出した。
 人っ子ひとりいない昼下がりのあぜ道を通りすぎ、さらに先へと進んでいくと、草木に隠されたうす暗い沢を発見。
 岩だらけで流れも急だが透明度がとにかくすごい。川底を這うカニや、優雅に泳ぐ魚群が、手をのばせば触れられそうなくらい間近に見えた。

 泳ぎが苦手なクセして水辺の生き物が大好きだった俺は夢中になって観察した。

 ――どれくらい時間(とき)が過ぎたろうか。
 大音量で合唱するセミの声がふいに止み、川面をのぞき込む俺の上に薄い影が落ちた。
 顔を上げてみると、まっくろに日焼けした少年がすぐ(わき)に立っているではないか。

 ボロボロの麦わら帽子をかぶっているせいで表情はほとんどわからない。ただ、嫌な感じや危険な感じは特にしなかった。

 ビックリする俺の横を通りすぎ、ジャブジャブと腰が浸かるあたりまで水に入っていくと、少年はこっちへ向かって手まねきをする。――どうやら泳ぎを教えてくれるつもりのようだ。
 恥ずかしながら警戒心ゼロガキだった俺は、何の疑いもなく、むしろ喜び勇んでその誘いに乗った。
 少年は一言もしゃべらず、指導方法は身ぶり手ぶりのみ。かなりの急流なのに、プールへ行った時に親がしてくれるみたいに手をにぎってもくれない。
 とはいえ、教え方はすごくていねいだし、話しかければうなずき返してもくれる。つまりコミュニケーション的にはまったく問題なし。

 そもそもはじめから警戒心のなかった俺は、人生初の川泳ぎを心ゆくまで楽しんだ。

 空はいつしかオレンジに染まり、俺は少年にバイバイをして家へと戻った。
 あいかわらず忙しそうな大人たちはこちらに目もくれない。

 風呂に入るのもおっくうなほどクタクタだった俺は、白飯をかっこんで早々に眠ってしまった。

 翌日は早くから沢へ向かった。水泳のコーチ(あの少年)がまたいるかもしれない期待に胸をワクワクさせながら。

 期待どおり、少年は昨日とまるで変わらぬ様子で同じ場所にいた。

 俺たちは無言でザブザブ水に入ると、さっそく練習を開始する。猛特訓のおかげで急な流れにもだいぶ馴染んでいた。

 ――夢中になっているあいだは気がつかなかったが、彼が教えてくれる泳法はかなり独特だった。学校の授業で習うやり方とはぜんぜん違う。

 疲れた、休みたいと何度訴えても、なかなか解放してくれないほど少年は熱心だった。

 昨日と同様クタクタになって帰宅すると、農機具なんかをしまってある納屋のほうから俺を呼ぶ声がする。――じいちゃんだ!
 まともな会話のできる大人がいたことのうれしさで、俺は戸越しに、聞かれてもいない二日間の体験談をしゃべりまくった。
 ガキ特有のとっちらかったエピソードを無言で聞いていたじいちゃんは、俺がようやく長っ(ぱなし)を終えると、「そいつは(⚫︎)(⚫︎)だな」と、ひどく疲れたような声でつぶやいた。
河童が泳ぎを教えることには必ず意味があるから、今は大人しく習っておけ
それからな、仏さんの飯を毎日ちゃんと食っておくことは忘れんようにな。でねぇと(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)
 じいちゃんはそれっきりうんともすんとも言わなくなってしまい、薄気味悪くなった俺はそそくさと退散した。

 戻ってみると、玄関には線香の匂いが充満していた。

 翌日と翌々日も俺は少年の元へ通った。おかげで泳ぎはかなり上達した、と思う。
 そのまた翌日は暴風雨がこのあたりを直撃したため、さすがに家にこもっているしかなかった。

 泳いでいないと何だか落ち着かず、一日中ソワソワしていた。

 翌朝、雨粒まじりの曇天の中を走って沢まで向かう。

 まさしく自殺行為だが、その時の俺は得体の知れない衝動に突き動かされていた。

うっわ……!!
 思わず声が出る。あやうく踏みとどまった足の下にはゴウゴウと渦を巻く濁流! 嵐の一夜が明けた後の沢は凶暴な側面をむき出しにしていた。
 荒々しい光景を前に不可解な衝動はすっかりと冷め、急いでここから離れようときびすを返したとたん、おそろしい力で足首をつかまれた。
――!?
 水底に引きずり込まれる直前、俺ははっきりと見た。見てしまった。

 頭の皿。ふくれあがった醜い体に青黒い皮膚。濁流にプカリと浮かぶソイツは昔話に出てくる〈河童〉そのものだった。

 そのまま俺は濁水の中へ。

 不思議と息苦しくはなかったが、少しでも気を抜くと流れの速さに持っていかれそうになる。その横を枝や木切れや石なんかが、すさまじい勢いで流れていく。
 九つのガキが溺れもせず、また、ズタズタの肉片にもならずにいられたのは、ひとえに少年から教わった泳法のおかげだった。
 教えは体に染み付いていたらしく、腕が、足が、胴体が、スイスイと勝手に動いては襲いくる障害物をたくみに避けていく。シューティングゲームさながらだ。
 この泳ぎはこの日この時この危機を乗り越えるためだけのものだったんだな、と子供心に痛感する。
 もしかすると少年は俺の死ぬ未来が見える力か何かの持ち主で、それを哀れと思って助かる方法を具体的に伝授してくれたのかもしれないぞ。
 なんてことを悠長に考えていたら――
 目と目が合った。
 流れに逆らおうとする俺にピッタリくっつくようにして泳いでいたのだろうか。

 うらめしそうに睨んでくるその目には見覚えがあった。

(あ……思い出した)
 ボロの麦わら帽子から時たまのぞく(それ)にとてもよく似ている――
 そのことに思い当たった瞬間、体中から泡という泡が吹き出し、急速に息苦しくなっていく。
 またもや誰かに足首を引っぱられるのを感じながら、俺の意識はそこでプッツリと途切れた。
(あれ……? 納屋の前?)
……じいちゃん! じいちゃん聞いてよ! あの子の正体はやっぱり河童だったよ!
そうかそうか。そいつぁツイてねぇなぁ
ツイてない? そりゃまぁ怖かったけどさ。でもホンモノの妖怪だよ! すごくない!?
ホンモノの妖怪……? この辺じゃあな、川で死んだ子どものことを〈河童〉って呼んでんだ
青黒く膨れた姿は土左衛門そのものだったろう? 頭のアレもな、ありゃ皿じゃねぇんだ。皮がベロッとめくれて剥き出しになった頭の骨だ――
 ――パッと目を開けると、そこは見慣れない病室だった。まわりには誰もいない。

 俺は清潔なベッドで横たわっていたが、額や寝巻きは汗にまみれていた。

 たった今まで納屋のじいちゃんと会話していたはずなのに!

 怖さとわけのわからなさに混乱した俺はワンワンと声をあげて泣いた。すると、病室の外から親たちがあわてて駆け込んできた。

 やっと両親が相手をしてくれたことに安堵する俺に対して、彼らは口をそろえておかしなことを言う。
 やむを得ない事情での里帰りとはいえ、夏休みの予定をすべてキャンセルされた息子がかわいそうだからと、皆で何かと話しかけたり遊んでやろうとしたのに、俺はそれを無視してふいっとどこかへ行ってしまう。
 そして、日の落ちる頃にふらっと帰ってきたかと思うと、用意しておいた食事には見向きもせず、仏壇にお供えしてあった陰膳を食って寝てしまうのだと。
 わが子の正気を本気で疑い始めたそんな折、急な里帰りの理由になった父方の祖父が入院先で危篤となる。
 一報を受けた直後、知らないうちに外出していた俺が全身ずぶ濡れ状態で玄関先に現れ、そのままぶっ倒れたらしい。
 これから向かう先は病院だから丁度いいと俺もいっしょに連れていかれて、検査を受けたのち(特に異常はナシ)、安静のため病室で休まされていたとのこと。
 これが俺の目覚めるまでの顛末だ。ちなみに祖父はその少し前に亡くなっている。
 遺影の中で笑う老人は見たことのない顔だった。そう、俺は父方のじいさんの顔はもちろん、声だって知らない。なぜなら、この土地へ来たのは初めてだったから。
 親と俺との記憶の食い違いもふくめて、何もかもがわからないことだらけだった。これからもきっとわからないままだろう。
 俺がある程度年をとってから聞かされた事実といえば、じいさんはあの納屋で首を吊っているところを発見されて緊急搬送されたことと、近所でも有名な釣り道楽で、以前はよく例の沢へ渓流釣りに行っていたってことくらいだ。
 そうそう。帰省してからというもの、俺が一切泳がなくなったことも付け加えておく。
 泳(⚫︎)なくなったんじゃない。自主的に泳(⚫︎)なくなったんだ。

 あれから十数年経つ今でもそれだけは守り続けている。

 ものすごく暑い日――例えば30度超えの真夏日なんかに、キレイな川を見たりすると無性に泳ぎたくなってくるのだが、(すんで)のところでグッとこらえる。
なぜなら、どんな川だろうと河童(ヤツ)が必ずいるはずだからだ。
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