第1話

文字数 5,849文字

『じゃあ、次の会議は木曜日の……』

築15年・駅から徒歩15分の1DK。
そう言えば聞こえが良いが、ダイニングキッチン部分はそれこそ猫の額ほどの広さしかない、いわゆる八畳一間が私の城。
そのプライベートな空間でマイクを通した上司や同僚の声を聴くのは未だに慣れない。

人と直接対面で会話をしなくなって……もう何日が過ぎたのだろう。
今、私の仕事場となっている北欧風の小さなダイニングテーブルは社会人になって1人暮らしを始めた記念に買ったものだ。
ホワイトオークの木のぬくもりを感じる色と、シンプルな無駄の無い正方形のデザインがスタイリッシュに感じてとても惹かれた。
当時、田舎から上京してきた故にダイニングテーブルのあるオシャレな食生活に憧れていた私は、祖父母からもらった就職祝いとバイトで貯めた貯金をつぎ込んでかなり奮発したのだ。

カリカリに焼いたベーコンと、とろける舌触りのスクランブルエッグ。
パリッと焼いた厚切りのトーストにほろ苦いマーマレードをたっぷり塗って頬張り、淹れたてのコーヒーで流し込む。

素朴な和食オンリーの実家では味わえない、ホテルのモーニングの様な朝食。
そんな朝食をこれから毎朝、頑張って早起きして作ってこの素敵なテーブルで取るんだ。
そしていつか……素敵な恋人と2人、テーブルを挟んで朝食を取りたい――。

そんな夢と期待が詰まったダイニングテーブルは購入して既に3年経ったが、素敵な朝食がテーブルの上に並んだのは片手で数えるくらい。
そして、素敵な男性が向かいに座ることなく、今は仕事の資料やマグカップ、雑誌やメイク道具でごちゃ付き、2つあるダイニングチェアの1つは服を掛けるものへと役目を変貌している。

これが、25歳の1人暮らし独身OL。

(ま、これが現実よね)

そんなことより……とチラリとテーブルの上に放り出されているスマホに目を向けた。

もうそろそろ定時が近い。
このあと議題をまとめれば今日の業務は終わり。

『――そういうわけで、リモートワークは年内いっぱいまで続く想定でいて欲しい。従って来週の水曜日くらいまで工程表の修正と仕切り直しを中心に……』

モニター越しの上司の言葉に耳を傾けながら、その言葉を逃さないようにキーボードを無心に打つ。
私の心はこの会議の場にはいない。
どこにあるかって? それは冷蔵庫の中にあるのだ。

冷蔵庫の中には、私が丹精込めて作り置いた『材料』がある。
まずは昨日の夜から仕込んだ半熟卵。
味醂と醤油で少し辛めに漬けた半熟卵は味は染み込んでいる事は間違いない。
しかし、果たして……黄身は半熟なのだろうか。
それが心配だ。
心配と言えば、甘めの照り焼きチキンは調理する前にもう一度軽く温めた方が良いだろうか?
うん、その方がマヨネーズにほんの少しだけケチャップを混ぜたオーロラソースとの絡みも良くなるだろうから、薄く切ってほんの少しだけレンジでチンしよう。

あ、生姜を切らしてたっけ。
この際、チャイに生姜は無くても良いかな?
いや、温かくなってきたとはいえ、夜はまだまだ肌寒い。
身体が芯まであったまるには、生姜は不可欠だ。
チューブのおろし生姜でも代用出来るだろうか……。

『……木、鈴木』

「は、はいっ!」

私を呼ぶ上司の声に私ははっとして、意識を冷蔵庫からディスプレイの前に戻す。
『どうした、ぼーっとして。引きこもり生活でストレスが溜まってんのか?』
「まあ……ストレスは確かに溜まってますが……ちょっと考えごとしてました』
『考えごと? 彼氏のこととかか?』
『いえいえ、この後のアフターファイブが楽しみだなって」
アフターファイブ。この単語に上司は顔をしかめる。
『おいおい……このご時世に外出とは感心しないな』
『ちがいますよ、家から一歩も出ませんし。自宅でアフターファイブをするんです」
『自宅でアフターファイブ?』
いぶかし気に問いかける上司に私は胸を張って答えた。
「はい。ベランダでソロキャンプをするんです」


「準備OK! さてと、移動しよっと」
リモートミーティングも終わり、業務用のノートパソコンは既にリビングテーブルの隅に追いやられている。
そして代わりにテーブルの真ん中に鎮座するのは卓上ガスコンロとホットサンドメーカー、そしてお気に入りのお皿とステンレスボトル。

ステンレスボトルには生姜が効いたスパイシーで甘さ控えめなチャイがたっぷりと入っている。
職場で愛用しているこのボトルの保温効果はばっちりで、まだまだ冷え込む夜に心強い味方だ。

卓上用のコンロは引っ越し当初に鍋パーティーをした時に購入したまま埃を被っていたものだ。
そして鉄製のホットサンドメーカーは一年前にソロキャンプのブログを見て、衝動的に買ってしまったもの。
使用は直火のみだという事を購入後に知り、キッチンがIHのこの部屋では使えずこれも狭い部屋の片隅で埃をかぶっていた。

この2つは存在自体も忘れていたのだが、自宅待機で持て余した時間を断捨離に当てた結果、運良く発掘し、ホットサンドメーカーは直火の卓上コンロで使えるのでは? と閃いた。
そして今日のアフターファイブの計画を思いついたのだ。

ソロキャンプと言ったものの、実際はベランダでホットサンドメーカーを使ってホットサンドを作るという『キャンプ飯』をお手軽に作るだけの話。

(キャンプ飯を作って食べるのも立派なキャンプだし)

ホットサンドメーカーの中は既にキッチンで食材を挟んであとは焼くだけの状態。
「仕込みがキッチンで出来るって言うのが、自宅キャンプの良いところよね」
うんうんと頷きながら、この3点セットを既に色々と準備済みのベランダに慎重に運んでいく。

ベランダには2つの椅子が並べられていた。
ひとつは、アウトドア用のラウンジチェア。
ネットショッピングで先日買ったばかりの折り畳み式のキャンプチェアでドリンクホルダー付きの優れモノだ。
思ったよりも安定感のある座り心地で悪くない。
防寒用のブランケットも用意して準備は万端。

もう一つは、部屋で洋服掛けと化していたダイニングチェア。
この椅子の上に、部屋から運んできたセットを置く。
椅子をテーブル代わりに使うのは、この椅子に申し訳ないがこのまま洋服掛けとしての人生いや椅子生を終えるよりは私の役に立った方が本望だろう。

――ブチ。
無機質な白い光がベランダから見える向かいの電柱の街灯にともり始めた。
気付けば辺りもとっぷりと日が暮れている。
(……手元が見えにくいと思ったら日が落ちるのはまだまだ早いか)
私はポケットのスマホを懐中電灯モードにしてキャンプチェアのドリンクホルダーにツッコむ。
こうすると、眩し過ぎず明る過ぎない、ちょうど良い光源になる。

役者は揃った。
――さて、始めようか。週末の宴を。

私はニヤリと口端を吊り上げると、卓上コンロの上にホットサンドメーカーを乗せ、火をつけた。

カチッ、ボォーッ!

コンロの火力を調整し、匂いに意識を集中させる
まだか? もう少し? あと少し……

(いまだ!)


鉄板からバターの匂いが濃く漂ってくる。
食パンにあらかじめ塗ってあるバターが溶け始めてきたようだ。
その匂いが香ばしさに変わる一瞬を見極め・・・素早く柄を持って、火にあぶられていたホットサンドメーカーをひっくり返す。

【――良いか? ここでグダグダしているとすぐにパンが焦げてしまうぞ】
【そのタイミングを読むのがホットサンドづくりに重要な事だ】

キャンプ好きの父のメールを思い出して私はふっと笑う。

そういえば父とやりとりしたのは随分と久しぶりだった気がする。
高校生の頃から近寄りがたく、自分と合わないとなんとなく思い込んでいた父。
父も思春期の娘へどう接すれば良いの分からなかったのかあまり私に話しかけなくなり、私はますます父への不満と苦手意識を募らせた。
それらの感情は家を出てからも積み重なっていってしまい、最近ではたまに実家に帰ってもひと言ふた言交わすだけの気まずい関係になってしまったのだった。

しかし、自粛期間の持て余した時間と人恋しさは『キャンプ好きの父にホットサンドの作り方を聞いてみる』という、普段の日常なら決して考えつかないことを実行させてしまう。

【ホットサンドメーカーで作るホットサンドのおすすめのレシピを教えて】

と、恐る恐るメールをしたところ、父も暇を持て余していたのだろう。
すぐに父から返事が返ってきた。
そこからホットサンドメーカーの手入れの仕方や、ソロキャンプするなら用意した方が良いもの、小さい頃一緒に行ったキャンプの話……随分と色々話をしたような気がする。

【自粛が緩和して落ち着いたら、また家族でキャンプにでも行こうか】

メールの最後を締めくくる父の言葉を思い出す。
この文章を目にした時、胸に何か温かいものがこみあげてきた。
父からこんな誘いを受けるとは思わなかった。
こんなふうに父と話をする日が来るとは思っていなかったから。

(これも自粛期間のおかげかな)

父の教え通り両面を最高のタイミングで焼き上げるとホットサンドメーカーを火から下ろす。

そして、取っ手に付いた金具を外し、未だ熱い鉄板の間からお気に入りの皿に熱々のホットサンドを滑り込ませた。

◆◆◆

「うんまっ!」
切らずにそのまま、勢いよく被りついたホットサンドを飲み込むと私は思わず大声で叫んでしまった。

美味しい、いや美味しすぎるのだ。

半分に切ったピーマンに細く割いた照り焼きチキンと半熟卵を丸ごと入れて、チーズとマヨとケチャップを混ぜたオーロラソースをかけたホットサンド。
これは最高の食べ物だ。
噛むとさっくり、そしてふんわり、バターがじわりと、三段攻撃を仕掛けてくるパン。
半熟卵は程良い弾力を保ち、黄身はとろーり。
そして半熟卵を包んでいる半割のピーマンの苦みとざくっとした食感。
(生のピーマンだけど、ちゃんと火が通ってるのは、ホットサンドメーカーの中で蒸蒸し焼きみたいになってるからなのね)
甘く濃い味わいでいっぱいの口の中を、スパイスと生姜の効いた熱々のチャイを流し込む。

ホットサンドとチャイを交互に口に運ぶ永久運動は止まらない。
そして、私はボリューム満点のホットサンドを瞬く間に平らげたのだ。

◆◆◆

「ふぁぁ~、美味しかったぁ」
お腹も心も満たされた私はキャンプソファに深く座って体を預けた。
そして膝の上に乗せていたブランケットを引き上げ、なんとなく先ほどのテレビ会議を思い返す。


『へえ、ベランダでキャンプか。それ良いな。映画も見飽きたし、ゲームもまったく進める気が無くてなぁ……最近はオンライン飲み会で酒におぼれる日々よ』
『部長~それって、自粛前と変わってないじゃないですか』
どっと笑い声が溢れるモニター。
『うちは子供たちが一日中いるから大変ですよ』
ワーキングママの川上さんがため息交じりで発言すると上司は首を傾げる。
『大変って言っても、おまえんとこは確か小学生と中学生だろ? 家の中で遊びまわったりするような歳じゃないだろうが』
『そっちじゃなくて、勉強の方ですよ。一日中子供たちに張り付いてないと勉強しないんですから ……っていうか、子供はいくつになっても子供です。いまだに家の中で暴れ回っていますよ』
まったく、とため息をつく川上さん。
『俺も近所の飯屋に早く再開して欲しいッス……俺みたいな自炊しない独身はやっぱ、飯が一番デカいっすよ! 最近、ピザばっかで体重計に乗るのが怖いっス~』
『田村君は彼女と同棲してるんでしょ? 2人で作れば良いじゃない』
『いやあ、実はこの自粛期間に2人で何回か挑戦はしてるんですけどね。オレも彼女も料理が下手でいつも惨劇っすよ~』
惨劇と言いつつも、大好きな彼女と同棲中の田村君の頬は緩んでいた。


(みんな、大変と言いながらも……寂しくはないんだろうなぁ。こういう時に大切な人が傍にいればそうだよねえ……)

1人身は気楽だ。
けれども孤独でもある。
ましてや、実家から離れている1人暮らしの独身はこういう緊急事態の時、傍で寄り添える人がいない。

(家族や恋人がいる人が羨ましくないって言えばうそになるけど。……でも)
弱弱しく光る街灯を眺めながら、ぬるくなってきたチャイをひと口飲む。
(――ひとりだから、今の時間をこんなに静かに過ごせるのかな)

だって、こんなに静かな日々は引っ越して来て初めてかも知れない。
そもそも私は1人暮らしなのに、1人で過ごしたことがなかったような気がする。
寂しくなったら友人や実家の家族と電話やトークアプリをすればいいし、それが難しい時は近所のコンビニや居酒屋に出ればいつでも人の気配があった。
商店街を歩けばお店の人が声を掛けてくれた。
このベランダの下の道路だって、今でこそ外出が制限されているからか、車の気配すら無いが夜中まで車が行き来していたものだ。

都会じゃないけど、田舎じゃない。
人情という人の気配が溢れて、寂しさを感じさせない。
けれども適度な距離感がある。
そんな微妙なこの街が好きだった。

だが、たった一か月で……この街は音のしない街になった。
配偶者も恋人も、家族もいない私は音のしない街のマンションの一室に閉じこもらなければならないのだ、たった一人で。

(――でも、この孤独は……案外キライじゃないかも)

正確に言うと……今感じている、この『緊急事態下での』孤独は、決して嫌いではない。
何故ならこの孤独は誰かに繋がる、未来につながる……1人じゃない孤独だ。
だから傍に家族がいない、恋人がいない、大切な人がいないなんて、卑屈になる必要なんてないし、大したことではない。
むしろ、この孤独に一人で耐えていることに胸を張るべきだし、楽しんでいることを自慢しても良いくらいだ。

それに……傍にいないことは決して悲しく寂しい事ではない。
遠くにいても、分かり合える事もあるのだから。

(……ま、もちろん今限定の孤独だからこんな事思えるんだけど)

この孤独は今だけだから楽しめる。
ずっと続くなんて願い下げだ。

そう。
八畳一間のベランダのソロキャンプも良いけど、世の中が落ち着いたらグランピングもしたい。

(出来れば素敵な恋人と一緒に……なんてね)
自分に小さく笑って、目をゆっくりと閉じた。

お腹が満たされたら、次は睡眠欲を満たしたい。
うん、欲望に忠実で心も体も健康的で良いことだ。

頬に感じる冷たい夜気が気持ち良い。
私はまだまだ頑張れる。

どうか、明日は今日よりも良い日でありますように。
そして願わくば ……この悪くない孤独は今この瞬間も頑張っている人たちの助けになりますように。
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