第1話

文字数 3,126文字


 彼女はコピー機の前でため息をついた。
 彼女は恋する乙女なのだ。
 恋をしているなら悩みは付き物かもしれないが彼女の悩みはただの惚れた腫れたで片付けられるものではないのだ。
 事の発端は彼女の生まれた時にさかのぼる。

 二十六年前、田中家の奥さんは分娩台の上で最後の戦いをしていた。
 もう頭が見えていた、あと、ひと踏ん張りだ。
 奥さんは分娩室に鳴り響く唸り声をあげた。

 こうして田中家の長女は生まれたのだ。

 病室に運ばれスヤスヤと眠る母と子を見て田中家の亭主は深く感動し誓った。

 『お前たちを幸せにするぞ』

 彼は家に帰ると、その興奮さめやらぬ内に娘の名前を考え始めた。
 そして一晩考えに考えて決めた。

 『花子』

 こうして彼女は『田中花子』になったのだ。

 花子の苦難は小学生の頃から始まった。
 クラスメイトの男子から、からかわれるようになった。
 普通、容姿や学力の事が対象となるのだが、花子の場合は名前だった。
 「やーい、花子やーい」
 花子はその度に泣いて帰り「お父さんが一生懸命考えて付けてくれた名前なんだから」と母に慰められた。

 数年後、『トイレの花子さん』が大流行した。
 花子の小学校でもそれは流行して花子を苦しめた。
 休み時間トイレに行こうとすると意地悪な男子が待ち構えていてわざと大声で言うのだ。

 「花子がトイレに入るぞ、トイレの花子さーん」

 花子はそれが嫌で学校で極力、トイレに行かないようにした。

 それで便秘になった。
 毎日、快便の花子がもう六日も出ていない。

 フン詰まりで苦しむ花子に母は言った。
 「浣腸しましょう」
 花子はよつんばいでパンツをひんむかれてお尻に浣腸を差し込まれた。
 恥ずかしくて涙が出そうになったが泣いている場合じゃなかった。
 猛烈な便意を催しトイレに駆け込むと・・・・六日分を出した。
 げっそりしてトイレから出てきた花子に母は言った。
 「スッキリしたでしょ」

 確かにお腹はスッキリした。でも心はスッキリしていなかった。
 名前のせいだ、そう思うのだった。

 中学生の頃だった。
 自分の息子に『サタン』と名付けた親が物議をかもした。
 花子はテレビのワイドショーを見ながら、うちのお父さんよりスゴイ人がいる、と驚いた。

 花子は美人な方だ。
 でも名前に対するコンプレックスのためか、少し内気な性格になった。
 控えめでいい、と花子に好意を抱く男子は結構いた。でも花子は気づいていなかった。
 おかげで勉強に打ち込めた。
 大好きなイケメン俳優のポスターを何枚も部屋に貼って受験を乗り切り、見事、有名大学に合格し卒業後は大手企業に就職した。

 年頃になっても浮いた話の一つも無い花子を心配して伯母が縁談を持ってきた。
 「いい人なのよ」
 伯母はまるで自分が見合いするかのように目を輝かせて言った。
 お見合い写真を見ると、なかなかのイケメンだ。
 しかも高学歴で今は有名企業に勤めている。

 なんでこんな人がお見合いするのかしら?
 
 花子が考えていると横で伯母が言った。

 「お名前は山田さん、山田家康さんよ」
 「家康?」
 「あちらのお父様が徳川家康を大好きなんですって」
 「・・・・」

 伯母のごり押しに負けて花子はお見合いし、その後、結婚を前提に交際がはじまった。

 家康とデートをするようになって花子は自分達が似ている事に気付いた。

 いつも家康は物静かで控えめだ。
 それが名前に対するコンプレックスから来るものである事も・・
 そしてそのコンプレックスをはね除けようと必死に努力した結果が今の彼の経歴となっているのも、同じだった。

 花子は家康に恋をした、そして今、コピー機の前でため息をついていた。

 交際がこのまま順調に続けば、いずれ結婚する事になるだろう。
 家康と結婚したら『山田花子』になるのだ。
 『田中花子』より『山田花子』はパワーアップしてる感が否めない。

 どうしたらいい?

 二日後の午後八時、花子はデートの待ち合わせ場所の公園に走っていた。
 急ぎの仕事が入ってしまい、一時間の遅刻だった。
 「ごめんなさい、遅くなって」
 「いいんだよ。気にしないで」
 師走の夜風に一時間さらされた彼の鼻先は少し赤くなっていた。
 「ああ、そうだ。これ」
 彼は懐から缶コーヒーを取り出した。
 「冷めちゃったかな」
 「ありがとう」
 コーヒーを受け取りながら、なんかこういうのあったわね、と考える。

 ああ・・草履だわ。草履を懐に入れて温めていたんだわ。でもあれは秀吉よね。家康じゃないわ

 一人、笑いをかみしめる花子に「どうしたの?」と家康は怪訝な顔をした。

 家康の懐で温められていたコーヒーはほんのりと温かい。

 この人が好き

 花子は結婚を決めた。

 こうして花子は『山田花子』にパワーアップした。
 幸せな結婚生活が花子を変えた。
 名前なんかどうでもいい、幸せならいいじゃない、と思えるようになった。
 そんな時、妊娠した。この上ない喜び。
 いまや彼女は最強の妊婦でその行く手を阻むものは何も無いように思えた。
 そんな花子とは対照的に家康は表情を曇らせていた。考え事をしている時間が多くなった。

 「どうしたの?」花子は心配してソファーに座る家康の顔を覗き込みながら尋ねた。
 家康は言った。
 「心配なんだ。ウチの親、孫の名前を付けたがるんじゃないかって・・・・」

 そうだった、どうして気が付かなかったのだろう

 花子は呆然と家康の横に腰を下ろした。

 妊娠がわかった時、すぐに実家に電話した。
 花子の両親はそれはそれは喜んだ。でも・・・・花子が生まれた時、父は感動して『花子』と名付けた。
 
 父は喜びが大きければ大きい程、危険なのだ。

 それは家康のお父さんだって同じだ。
 横の家康が不安そうに言った。

 「ウチのおやじは弁慶も好きなんだ」

 花子と家康は両方の親に、生まれて来る子供の名前は自分達で決めるから、と口を酸っぱくして言った。
 そうこうしてる間に花子のお腹はどんどん大きくなりついに産気づいて出産した。

 女の子だった。

 家康は「有難う、有難う」と言いながら花子の手を握った。

 花子と我が子が病室に落ち着いたのを見届けると家康は外に出て実家に電話をかけた。
 電話に出たのは父だった。
 女の子が無事に生まれた事を伝えると家康の父は言った。
 「おお、そうか、そうか。そりゃあ良かった。おおい、母さん、生まれたぞ。女の子だ」
 うれしそうな母の声が少し聞こえた。
 「じゃあ、落ち着いたらまた後で電話するから」電話を切ろうとする家康に父は言った。
 「女の子か、父さん女の子の名前も考えておいたんだ。それでな・・」
 家康は慌てて電話を切った。

 あぶない、あぶない、そう思いながら病室に戻ると、花子の両親がいた。

 「良かったわ。無事に生まれて」花子の母は言った。
 「なんてかわいいんだ。花子の小さい頃にそっくりだ」花子の父は目をうるませた。

 そしてポケットに手を突っ込むと一枚の紙を取り出し家康に握らせた。
 「私が考えた名前だ」
 「駄目よ、名前は私達が決めるの」花子は父に釘をさした。
 花子の父はジーと家康を見た。そのうるんだ瞳があまりにも真剣で思わず家康は受け取った紙に目を落とした。

 「サダコ?」

 「違うよ。家康くん、テイコだよ」
 「でも、お父さん。これは、これは・・・・多分、皆、サダコと読みます」
 「貞淑のテイだよ。私はこの子に家内のような女性になってもらいたいんだ」

 ポッと頬を赤らめる母と、もはや、サタンくんのお父さんと同じ域に達した父を見ながら花子は三十年前に

 『貞子』と名付けられなくてよかった、『花子』でよかった、と生まれて初めて『花子』と名付けられた事を喜んだのだった。














 















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