アルテハイムの町(1)

文字数 11,114文字

「小説 ヴォツェック」

 アルテハイムの町(1)

 バスの乗客は私を含めて四人だけだった。一人はサングラスをかけた年配の男性で、大きなトランクを二つ持っていた。他には子供連れの母親がいた。母親は見慣れぬ外国人が乗り合わせた不安からか子供をしっかり抱きかかえていた。
 私が訊ねようとしているのは南ドイツの町である。
 フランクフルトから特急列車で出発し、ローカル鉄道に乗り換えてナーゴルトという町に着いた。ここは「黒い森」にも近い町だ。私はナーゴルトに宿をとってあった。ホテルで訊ねると目的の場所、アルテハイムにはバスで二時間ほどかかるということだった。しかも、朝夕の二本だけしかなく、チェックインした午後三時にはすでに夕方のバスが出ていた。そこで、翌朝のバスで行くことにした。
 バスは二十人がやっと乗れる程度の大きさで、後ろの一列は座席を取り外して荷物が置かれていた。ナーゴルトから食料品や衣服などを積んで近隣の町に届けるのだろう。ナーゴルトを出てしばらくは舗装された道路だったが、それが石畳の道に変わり、すぐに砂利道になった。ときどき思い出したように家が一軒、また一軒と見えた。家の周囲には果樹園が広がっていた。朝九時に乗ったから、まだ昼前だというのに空は灰色の雲が重くのしかかって夕暮れのようだった。
 道が二方向に分れるところでバスが停まった。運転手にはあらかじめアルテハイムで降りたいと伝えてあったので親切に教えてくれたのだ。だが、そこは標識も何もなく、バス停とは思えなかった。運転手はバスの後方から荷物の木箱を五つ下ろし地面に置いた。私が、アルテハイムかと訊くと黙って左の道を指差した。
 バスは右方向へ走り去り、私と木箱が取り残された。左の道の先には低い山と森が広がっている。町どころか一軒の家も見当たらない。早朝のバスが正解だったと思った。午後に出発するバスに乗っていたら、私は街灯もない真っ暗な街道にポツンと立っていなければならなかっただろう。
 私はスマートフォンのカメラでバス停周辺の景色を撮った。それから、リュックサックからパンを取り出した。レバーゲーゼという挽き肉を挟んだ、ハンバーガーのようなものである。ナーゴルトの町のパン屋でパンとミネラルウォーターなどを買っておいた。これで昼食と夕食は間に合うだろう。
 相変わらず空はどんよりと重苦しい。雨が降りそうだ。ここで降られたら最悪だと思いながら、木箱に座ってレバーゲーゼパンを齧った。
 木箱はどうするんだろうと考えた。ここに置いていったということは誰かが取りに来るはずだ。その誰かがアルテハイムの住人であることを期待した。
 私がドイツの田舎の道に放り出されることになったのは一枚の写真がきっかけだった。
 祖父はドイツ人だった。大学で日本語を研究するために来日し日本人の女性と結婚した。従って私は四分の一ドイツの血が流れていることになる。とはいえ、西欧の血が混じっているような顔立ちではなく、まして、ドイツ語は挨拶程度しか喋れない。
 祖父はカルロスという名前だった。ドイツ人にしては珍しいが、スペインかイタリア系の名を付けられたのだろう。その祖父はすでに亡くなっていたが、昨年、2017年の冬、今度は父が他界した。まだ六十歳になったばかりだった。
 父の遺品の中に写真のアルバムがあった。小型の冊子で写真はわずか五枚しか貼ってなかった。五枚うちの三枚の写真には、城壁と町の広場、それに小川か池のような水面が写っていた。他の二枚は住宅を撮った写真だった。その一枚は平屋の棟続きの家が並んでいる写真だった。五枚目に写っていたのは建築中の建物で、まだ家の土台だけしかできていない。いずれも古びたモノクロ写真であり、印面は小さく、粒子が荒くて鮮明とはいえないものだった。
 写真の裏にドイツ語でアルテハイムと書かれていた。これが手掛かりになると思い、調べてみるとドイツ南部の地名だということが分った。これらの写真は、父のというよりは祖父に関係するものだろうと推測した。
 ドイツのシュツットガルト出身だと聞かされていたが、祖父はアルテハイム生まれだったのだろうか。アルテハイムはシュツットガルトの西、およそ100キロほどの距離にある。地図で見る限りではかなり田舎の町のようだった。遺品にあった写真でも寒々とした片田舎だと想像できた。生まれ故郷か、それとも単に旅行で訪れただけかもしれないが、私はアルテハイムに行ってみたいと思った。
 ドイツ行きは、仕事の目途をつけた2018年の五月、連休の終わった後になった。
 城壁や建築中の家などの写真を建築事務所に勤める友人に見せた。友人はドイツといえば真っ先に浮かぶのが三角屋根のハーフティンバー住宅で、次にバウハウスだと言った。バウハウスとは、1900年代の初頭に起こった、建築、工芸などの芸術運動、並びに教育機関を指す。主導者は建築家のグロピウスだった。バウハウス建築は、シンプルな外観のビルが特徴だ。ナチスによって取り締まられたが、近代的なデザインの先駆けであり、現在の新しいビルにはほとんどバウハウスの影響がある。
 その友人によれば、写真に写った城壁は数百年以上前に建てられたもので、平屋の建物もかなり年代物だそうだ。彼は音楽にも精通していて、グロピウスは作曲家マーラーの元妻アルマ・マーラーと再婚したという話もしてくれた。二人の間にはマノンという娘がいたが、子供の頃に早世した。
 ということで、私は父の遺品にあった写真の場所、アルテハイムを目指してやってきたのである。
 パンを食べ、歩き出そうとしたところへ、左の道、アルテハイムの方角から車が走ってきた。木箱の荷物を回収に来たのだろうか。小型トラックが止まった。運転していたのは若い女性だった。私と同じくらいか少し上のように見える。栗色の髪で、きりりとした顔立ちである。オレンジ色のシャツを着て、ヤンキースの帽子を被っていた。ドイツ語で何か言うのだが、早すぎてまったく聞き取れない。すると、車から降りてきて木箱の側へ行き、個数を数えだした。やはりこれを取りに来たのだ。女性が木箱を抱え上げたが重そうにしている。私は荷台に積み込むのを手伝った。
「アルテハイムはこの先ですか」
 とっさにドイツ語が出てこないので日本語で訊ねた。それでも、アルテハイムという言葉は通じたようで、彼女は腰に手を当てて「ヤー」と頷いた。英語にすれば「イエス」だ。それから助手席を指差した。親切にも乗れというのだ。どうやらアルテハイムまで送ってくれるらしい。
 私がドイツ語で「ダンケ」と言って次の言葉に迷っていると彼女は、
「英語でもいいわ」
 流暢な英語で言った。英語が通じるのは助かった。
「車に乗せてくれてありがとう」
「荷物を持ってくれたお礼よ。あんなところで何をしていたの」
「ナーゴルトからバスに乗ってアルテハイムに行く途中なんです。バスを降りて歩くつもりでした」
「歩いたら日暮れまでには着ける。ただし道に迷わなかったらね」
 彼女の車に拾われて良かった。
「ルルよ」
「宮野隼人です。日本から来ました」
「日本人。ここでは珍しい」
 自己紹介もそこそこにトラックが走り出した。道の両側はブドウ畑が続いている。遮る物がなく見通しはいい。
「アルテハイムに用があるの? ハヤト・・・ハヤトー」
 ルルはハヤトと言った後で語尾を引き延ばした。面白そうにメロディーに載せている。日本人の名前が気に入ってくれたようで少し嬉しくなる。私はリュックからアルテハイムの写った写真を出して見せようとしたが、トラックがガタガタ揺れるので手が震えた。舗装されていない農道のうえにルルの運転が荒っぽかった。ルルがトラックを停めたので、ようやく写真を取り出すことができた。その写真は原本から複製したコピーなのでさらに解像度が落ちている。
「この写真見てください」
 私は父の遺品にあった写真を見せながら、ここへ来ることになった経緯を話した。
「アルテハイムにこの写真に写った場所はありますか」
「城壁は似ている。広場もたぶんアルテハイムの中心部だと思う」
 ルルは順に見ていたが、小川の写真には首を傾げた。
「川かな、それとも池みたいだけど、何か暗くて怖い、気味が悪い場所」
「この建築中の家はどうですか」
「さあ、工事中だもの。これじゃ、どこの家だか分からない。あと、こっちの写真の低い家はドイツならどこにでもありそう」
 土台だけの建築中の建物に見覚えがないのは当然だろう、ルルが生まれるずっと前の話である。城壁は変わらないとしても、古い家は取り壊されて新しいマンションにでもなっているのかもしれない。二十一世紀の現在でも写真のような古い家が残っているとすれば、それこそアルテハイムは時代に取り残された集落だ。
「これはかなり古い写真です。今から五十年、もっと前かな」
「だったら、お爺ちゃんに聞いてみれば、何か知ってるかも」
 ルルのお爺さんは九十歳を過ぎて、耳は遠いし目も悪いが、一日の大半を酒場で過ごしているそうだ。そこで話は途切れた。
 十五分ほど走ると城壁が見えた。写真にあった城壁だろうか。いよいよアルテハイムに着いたのかと思うと、胸の奥から何やらこみ上げてくるものがあった。アルテハイムにやってきたことで、私は一つの役目を果たしたような気がしたのだ。
 日本を発つ前は、祖父が旅行で訪れたのかもしれないと想像していたのだが、実際に来てみるとここは観光目的で来る場所ではなかった。アルテハイムは祖父の生まれ故郷だという感を強く抱いた。
 城壁は意外に低かった。高い部分でさえ二階建ての家の屋根くらいしかしない。これで外敵から守るに役に立ったのだろうかと思った。
 車は城壁のアーチ状の入り口の手前を右折した。壁に沿って進むと、石積みの壁の途切れたところがあって、その平坦な道から町の中へ入っていった。高い城壁は町の入り口のところだけで、人の背丈ほどの壁が町を囲んでいるようだ。
 ルルは車を停めた。通りに面して木組みの家が数軒並んでいる。看板が出ているので商店のようだ。
「荷物はそこの店宛てのものよ。洋服、靴、薬、石鹸、それに鍋やらフライパンとか、まあ何でもいろいろ売ってる店ね」
「コンビニとかスーパーマーケットみたいなものですか」
「そう、アルテハイムにはこの店と、他にもう一軒しかない」
 田舎暮らしはイヤだという表情をしてみせた。
 三角屋根のスーパーマーケットから男が出てきた。髭の生えた五十代くらいのいかつい男だった。ルルと二言三言かわし、トラックに積まれた荷物を下ろし始めた。私が手伝おうとすると、男は早口で何か怒鳴るような口調でまくし立てた。大事な商品には触るなということと解釈した。
「ハヤトが私に気があるんじゃないかって怒ってる。ハヤトー」
 両手を大げさに広げてルルが笑う。恋人にしてはその男性はルルと年が離れていた。私が外国人だから警戒しているのだろう。
 荷物を運び終えるとルルは男性と一緒に店内に入った。荷物が間違いないか確認しているのだろう。
 店の前の広場で子供たちが遊んでいた。木の棒の先端に馬の頭部が付いている遊具に男の子が跨って走っている。いわゆる「竹馬」だ。日本では竹に足掛かりを付けたのを竹馬というが、これは西洋スタイルだ。十歳くらいの女の子が男の子の手を引いている。お姉さんが弟の面倒をみているといった感じだ。男の子が私に向かって手を振った。歓迎されているようなので手を振って答えた。
 すぐにルルが戻ってきた。今度は、お爺さんが酒を飲んでいるという酒場を目指す。中心部の通りにしては商店らしき三角屋根の建物は数軒だけだった。商店街の外れに黄色い壁の良く目立つ店があった。角笛の看板が出ていて、POSTと書いてある。郵便局だ。ルルが立ち止まった。
「私のお父さん、郵便局の局長なのよ」
 ポストも黄色く塗られていた。
 郵便局は手紙や荷物の取り扱いだけでなく、銀行でもあるし、日用品も売っているとのことだ。そうすると、ルルが遠くのバス停まで荷物を回収に行ったのも、郵便局の仕事の一環だったのだろう。宅配業者のようなものだ。郵便局長ともなると土地の名士に数えられるのではないか。ルルは名家のお嬢さんだった。
 そこで家並みは途切れ、柵で囲われた農園、畑地になった。その先に灰色の大きな建物が見えてきた。かつては兵舎だったが今は使われていないそうだ。
 しばらくすると、緩やかにカーブした道路の片側に石造りの家が連なって建っているところに出た。向かい側はただの草地だ。ここが酒場だというのだが、看板らしいものはなく、入り口も目立たない。
 私はルルの後に続いて店内に入った。カウンターと他に長いテーブルがあるだけの小さな酒場だった。レンガの壁で、床は黒ずんだ板張りである。テーブルに老人が突っ伏している。客は一人しかいない。彼がルルのお爺さんだ。
「あーあ、また寝ちゃってる、いつもこうなんだ」
 ルルが身体を揺すっても老人は眠ったままだ。時刻は午後二時を回ったばかりである。明るいうちから酒場で酔いつぶれていたのでは話を聞けそうにない。
 私は例の写真を取りだし、ルルに渡して酒場の主人に見せてくれないかと頼んだ。初老の主人は写真を見ていたが、その顔つきから、良い答えは期待できそうになかった。ルルはこちらを向いて首を振った。ここでも手掛かりは見つからなかった。
 それからルルのお爺さんを起こして家に帰ることにした。酒場の支払いがすんでいないというので私が立て替えた。
「気前がいいのね、ハヤトは」
「アルテハイムの話を聞かせてもらうのでお礼の前払いです」
「それじゃ、明日はもっと出費を覚悟して」
 ルルは壁際に私を連れて行った。カウンターの脇の壁に絵が掛かっていた。椅子に座った女性が荒々しいタッチで描かれている。「私よ」とルルが言った。ナーゴルトに若い絵描きがいてモデルになったそうだ。目の前のルルは明るい栗色の髪だが、画中の彼女の髪は真っ赤だ。こちらを見つめるその眼差しは男を誘うような、奔放な雰囲気さえ漂わせていた。
「この町でモデルなんて私一人よ」
「いいね、とてもきれいだ」
 当たり障りのない感想を口にした。ルルには申し訳ないが、素人目にもあまりうまいとは思えなかった。少しデッサンが狂っているようにも見えた。趣味で描いている日曜画家なのだろう。
 それから、お爺さんをしっかり抱きかかえ店の外に出た。すっかり酔っぱらって足元がおぼつかない。年齢の割には身体がガッチリしているので抱えて歩くのは重労働だった。ルルはお爺さんのことは私に任せて少し前を歩いている。ルルが振り返った。
「あたし、シュツットガルトのビアホールで働いてたの。お客の中に新聞社の編集長がいて、あの絵を描いたのはその息子。絵描きとしてはモノにならなかったみたい。編集長のパパとは違って、ただのダメ男だった」
 単なる画家とモデルの関係ではなかったような口ぶりだ。それに、編集長とは違ってダメ男だったというのも何だか気になる。編集長と息子の両方とも付き合っていたのだろうかと勘ぐってしまう。
「ハヤトはどうするの、今夜のホテル。ねえ、ハヤトー」
「ナーゴルトにとってあります。帰りのバスには間に合うでしょう」
「今ならナーゴルトに戻るバスに間に合うわ・・・でも、ごめんね、バス停まで歩いて行って。私の車じゃないんで、このトラック勝手に使えないのよ」
「歩いている間に日が暮れそうですね。ここに宿はありますか、寝られるならどこでも構いません」
 ホテルがあるかどうか訊いてみた。ナーゴルトに戻って出直すのでは時間が掛る。アルテハイムに泊った方が得策だ。
「普通の家の空き部屋を民宿にしてるのがあるわ、そこでもいいかな・・・うっ」
 ルルが私に抱きついてきた。見ると、道の先に蛇が這っていた。しかし、私は身動きが取れない。右腕でお爺さんを支え、左側にはルルがしがみついている。その姿勢で数秒固まっていると蛇は草むらに消えていった。蛇がいなくなってもルルはすぐには離れようとしなかった。
 また歩きだす。お花畑の向こうに家が見えてきた。ルルのお爺さんの家だ。その家は、周辺の家とはまったく異なっていた。四角い直方体が幾つか組み合わさった、バウハウス様式だったのだ。
「バウハウスですか、この建物は」
「そう、バウハウスよ。日本人のハヤトが知ってるなんて思わなかった。あたしは詳しいことは知らないけど、何だか変わっててお爺さんの自慢の家なの」
 アルテハイムにバウハウス様式の家が建っているとは驚きだった。お爺さんの自慢だというのだから相当な年月が経過しているはずだ。
「でも、部屋の中を見たらがっかりするかも、台所と暖炉があって、ベッドがあって、おまけに散らかってる」
 この家でルルは両親とお爺さんとで住んでいるそうだ。室内に入り、お爺さんをソファに寝かせた。物音を聞き付けて奥から年配の女性が出てきた。ルルが母親だと紹介した。この二人が親子だと言われても俄かには信じ難い。母親は化粧っ気がなく丸々太っている。二人は何か会話をしていたが、母親が部屋の隅の電話を取り上げた。
「今夜の宿を探してる・・・プライベイトツインマー、住宅の空き部屋ね。シャワーとトイレは共用。夕食と明日の朝食を付けてくれと頼んでる。それでどう?」
 私は頷いた。母親が受話器を置いた。
「ペトラの家だって。ときどき農場の労働者が泊まるのよ」
 交渉がまとまったので、さっそくペトラの家に向かった。
「お母さんの友達なの、ペトラは。ソーセージはニュルンベルクで修業したから一級品よ。畑も持ってるんで野菜は新鮮だし」
「それは楽しみです」
「ホテルじゃないからベッドは固いけど」
 それに続けてルルが何か言ったが聞き取れなかった。ベッドが固い他にまだ何か隠していることでもあるのだろうか。たとえ、シャワーが水しか出なくても、ベッドが固くても、一晩だけだから辛抱できる。
 話しているうちにペトラの家に着いた。白い壁に三角屋根の平屋の一軒家だった。
 宿の女主人ペトラが笑顔で迎えてくれた。ルルの母親と同じくらい太っている。私は二階の部屋に案内された。部屋は二段ベッドが二つとクローゼットがある四人部屋だった。さっき、ルルが何か言ったのは相部屋だということだったのかもしれない。もっとも今夜はこの部屋を私一人で占領できそうだ。シャワーとトイレの使い方を教えてもらうときにはルルが通訳してくれた。宿泊代、10ユーロを払った。日本円で1500円くらいだろうか。
 ルルが二段ベッドの下段に寝そべった。二人きりの部屋で彼女はベッドに寝ている。誘っているのだろうかなどと、あれこれ想像してしまった。
「明日は九時に迎えに来る・・・お母さんを迎えに寄こそうか」
「どこかへ出かけるんですか、ルルは」
「朝は苦手なのよ」
 朝は苦手・・・だけど、夜は・・・何を余計ことを考えているのか。
 結局、私の思い過ごしだったようで、ルルはすぐに起き上がって帰っていった。誘われているのではなかった。
 夕食までには時間あるので、私は荷物を置いてアルテハイムの町を歩いてみた。祖父の写真に写っている建物や小川の場所を探そうと思ったのだ。
 宿を出て周囲を見回す。辺りには民家がポツポツとあるが店らしきものはない。宿の近くにコンビニがあれば便利だが、ここではそれは望めそうになかった。その代わりに遠くに深い森が見えた。
 まずは町の入り口である城壁まで行くことにした。途中にある、元は兵舎だったという二階建ての建物を見て回った。使われていないのでどことなく寒々としている。石造りの外階段は今にも崩れ落ちそうだ。兵舎の裏手にも城壁があった。壁にはひび割れが幾つもあって、隙間に草が生えている。スマートフォンを出して城壁の写真を写した。城壁に沿って行くとトンネル構造になっていて通り抜けができた。トンネルの中は昼間でも暗く寒かった。
 町の入り口に出た。先ほどは気が付かなかったが、商店のあるところは円形の広場になっていた。写真を出して見比べると確かに似ている。だが、町の中心にしては人通りは皆無だ。私は広場の写真も撮った。
 今度は宿から見えた森の方へと歩いた。森に入れば、写真にあった小川があるのではないかと思った。歩き出して分ったが、目指す森まではかなり距離がありそうだった。段々と木が茂ってきた。木の間から弱々しい陽が射しこんでいる。小川はなさそうだと諦めかけたとき、右手の方向にキラリと光るものがあった。水面に陽が反射しているようだ。川かもしれないと急いで行ってみるとそこは池だった。小川の写った写真を取り出した。ここが同じ場所だったとしても、写真が撮られたときよりも遥かに木々が生長しているようだ。五十年以上は経過しているのだから無理もないことだ。
 スマートフォンで周辺の写真を撮っていると急に陽が陰り、さらに霧が出てきた。
 池を畔に細い道があった。遊歩道だろうが、下草やツタが茂って靴に絡まりそうだ。古そうなベンチがあった。座席の板が腐って朽ちかけている。遊歩道もベンチも荒れ放題であまり整備されていない。ベンチの脇に何か落ちていた。女性物のストールのようだが、随分前に捨てられたとみえて泥だらけで地面にへばりついていた。
「・・・」
 人声が聞こえたような気がして立ち止まった。
 誰かいる。
 周囲を見回したが人影はなかった。空耳だったかもしれない。
 そのとき、池の水面が波立った。風もないのに波が立っている。それだけでなく、水面が盛り上がってくるようにも思えた。私は不安になってゆっくり後ろへ下がった。
 太い木に寄りかかって息を整えた。初めての土地でいささかナーバスになっているのだ。考えてみれば、池の水が溢れるなどということはありえない話だ。
 探索はそこまでにして宿へ帰った。散歩中、町の人を見かけたのは三人だけで、みな老人だった。若い人の姿はなかった。たぶん、若者はナーゴルトやシュツットガルトに働きに出ているのだろう。ルルのような若い女性がいるのが奇跡的だ。
 夕食のとき女主人のペトラにも写真を見せた。ペトラは宿を経営しているだけあって片言の英語は理解できる。彼女は写真をしげしげと見ていたが、何も思い当たるものはなさそうだった。
 その夜、ベッドに入るとルルの匂いがした。

 翌日、ルルの家を訪ねた。バウハウス様式の室内は建てられてからかなり年月が経過していた。白かったと思われる壁は灰色にくすみ、天上には黒い染みがある。床は板張りで、壁の一部は腰の高さまでタイルが貼られていた。窓は大きく開放的で部屋の中は明るい。
 私は居間兼食堂といった部屋に通された。一枚板のテーブルは存在感があり、食器棚も使い込んで黒光りしていた。
 ルルは花柄のワンピースを着ている。髪をポニーテールに結い上げ、うっすらと化粧してる。朝は苦手と言いながら、昨日にも増してきれいだった。
「昨日は良く寝られた?」
「ベッドも柔らかったので、朝までぐっすりでした」
「二人で横になるには狭かったものね」
 私はひやひやする思いだった。英語だからいいようなものの、ルルは母親の前で際どい話をした。
 お爺さんはクラウスという名前だった。
 さっそく本題に入る。私は五枚の写真をテーブルに広げた。城壁、広場、低い棟続きの家の写真、それに建築中の家と小川の写真である。クラウスお爺さんは顔を近づけて一枚づつ丹念に見ていた。ルルが城壁と広場の写真を示して訊くと、お爺さんは大きく頷いた。
「この二枚、城壁と広場はアルテハイムで間違いない、そう言ってる」
「やっぱり。そうすると、私の祖父はアルテハイムで生まれ育ったのかもしれません。あるいは、旅で訪れたという可能性もあります」
 これで祖父がアルテハイムと関係があることが確実になった。ただ、生まれ故郷なのかどうかは分からない。
「工事中の家はどうですか」
 クラウスお爺さんは建築中の家の写真を食い入るように見ていたが、突然、何かを思い出したかのように室内を指差した。
「えっ、なに・・・本当!」
 ルルも興奮気味だ。
「この写真、土台だけしか写ってないけど、この家よ、この家なんだって」
 私は家の中を見渡した。私が持ってきた写真に写っていたのは、この家、ルルのお爺さんの家だったのだ。できれば外へ飛び出して建物の外観を確認したいくらいだ。
 お爺さんが早口で喋るのをルルが英語に通訳した。
 それによると、この家を建てたのは、バウハウスを主催したグロピウスの弟子にあたる人物だった。工事は1939年に始まり、翌年に完成した。およそ八十年前のことである。お爺さんが七、八歳ごろだった。家が建てられるのを毎日眺めていたから間違いないとのことだ。
 偶然とはいえ、私は感激していた。
 そうなると、この写真を撮った人物が誰だったのかが気になる。
「この写真を写した人には心当たりはありませんか。誰だったか分かれば、祖父が写真を持っていた手掛かりになると思うんです」
 私が訊ねるとお爺さんは腕を組んで考えている。
「お爺さんは分からないって」
 通訳したルルも残念そうだ。古いことだから記憶が薄れてしまったのは致し方ない。それに、撮影者は誰もいないときに写したのではないか。家の前に工事の人に姿が見えないのがそれを物語っている。私の祖父が撮った可能性もあるが、祖父のカルロスは1928年生まれだから当時はまだ子供だった。旧式の二眼レフカメラを使いこなせる年齢ではない。
 私はその写真のコピーをお爺さんにプレゼントした。
 小川の写真はどうだろうか。お爺さんは私から写真を受け取って見ていたが、急にその手が震え出した。
 ルルが心配そうにのぞき込む。
「どうしたの、お爺さん」
 お爺さんはソファーに深々と座った。というよりは倒れ込んだ。
「この場所は・・・呪われている!」
 通訳しているルルの声が裏返った。お爺さんは手の震えはますます激しくなる。
 ルルが顔を私に向けた。
「この池で二人死んだんですって。お爺さんがそう言うの。二人・・・」
 私は昨日、この池だと思われる辺りに行った。
 カメラを構えている最中に暗くなり霧が出た。泥まみれのストールが落ちていたり、人声らしきものも聞いたのだった。そして、池の水が逆流してくるような気配がして、急いで立ち去った。あの池で二人が死んだというのだ。深みに嵌って溺れたのだろうか。まさかとは思うが、死者が私を池に引きずり込もうとしたのではないだろうか。
 お爺さんの震えが止まらないのでルルがビールを持ってきた。薬よりは黒ビールの方が効き目がある。お爺さんは黒ビールを半分ほど飲み、それから、この池で起きた悲劇的な事件を話し始めた。
 それは、貧しい兵士が愛人を殺し、自らも溺れて死んだというものだった。
 ルルが通訳となって私にも分かるように聞かせてくれた。

「これからお話しすることは、わしが生まれる前の出来事だ。二年か、三年ぐらい前のことだろう。なにしろ、ずっと以前に人から聞いた話だから、細かい部分となると記憶が確かではない」
 お爺さんはそう前置きして本題に入った。
「この町にヴォツェックという兵士がいた。あの頃はみな貧しい暮らしだったが、ヴォツェックもご多分に漏れず貧乏していた。毎朝、上官の髭を剃っていたそうだ・・・」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み