第1話

文字数 1,986文字

 たぶん、父は自分を殺そうとしている。朝早くに叩き起こされ「モリヤの地で犠牲をささげに行く」と言われてから、イサクはずっと考えていた。
 モリヤと言えば、家から三日ほどの場所。異教徒が人身供犠を行う地とも言われている。イスラエルの神に従う父にとっては汚れた地だ。それなのに、あのモリヤで焼き尽くす献げ物をしに行くと言う。
 イサクはまだ、神の声を聞いたことがなかったが、普段父から聞かされている神が、そんなことを命じるとは思えなかった。むしろ、異教徒やその風習に関わることを激しく拒絶する神だ。あんな所へ行くよう命じるなんてらしくない。
 しかも、薪を集めてくるよう言った父は、いっこうに犠牲の羊を連れてこない。大量の薪だけがロバの上に積まれていく。やがて薪を積み終えると、父は自分と若者二人だけを連れ、忌むべき土地へ出発した。
 道中、父はずっと黙っている。なぜ急に、モリヤで犠牲をささげることになったのか、若者二人も聞かされていないようだ。何か神を怒らせるようなことをしたのか、ただ単に犠牲を求められただけなのか、息子の自分にも分からない。心当たりがあるとすれば、少し前のあの事件……

 イサクには、歳の離れた兄イシュマエルがいた。なかなか子どもができない母に代わって、奴隷ハガルに産ませた子だ。自分が生まれなければ、兄が父の後継になるはずだった。しかし、兄はハガルもろとも、家を追い出されていた。
 追い出したのは母だったが、それを許したのは父だった。腹違いの兄を、母は確かに疎ましく思っていたが、父は間違いなく愛していた。神の言葉を直接聞いたことのない母と違い、イシュマエルを産んだハガルは、父のように神の言葉を聞いていた。その腹から生まれてきた子が捨てられる日が来ようとは。
 本当は父がイシュマエルを後継にしようとしていたことも、イサクは薄々気づいている。そのことで、母が父と争っていたことも。日に日にヒステリックになっていく母を抑えられなくなった父は、結局彼女の言うとおり、兄とハガルを家から追い出した。水も食べ物もない荒地に。
 家の者には「神がそう命じた」と伝えられた。兄とハガルは、別の土地で子孫を増やすよう導かれたと。だが、広大な荒地をパンと皮袋の水だけで生き延び、賊にも襲われず安全な土地へ行き着くなんて無理がある。父は母が怖かったのだ。見えない神に逆らう以上に、目の前の家族が厄介だった。

 おそらくこの旅は、神をだしにして子を捨てた者が、代償を払う旅なのだろう。神が、モリヤの地でささげるよう求めた犠牲は、残っているもう一人の息子の血肉に違いない。そうでなければ、大量の薪で燃やす犠牲が難なく手に入るだろうか? 臆病な父は妻に責められ、神に責められ、結局家の者を失っていく。
 予想どおり、父は目的地に近づくと、二人の若者とロバを待たせて、息子だけ連れて礼拝しに行くと言い出した。ここまで彼らを連れてきたのも、旅の途中で自分を警戒させないためだろう。若者二人は逆らえるはずもなく、大量の薪をイサクに背負わせる。
 やがて父は立ち止まると、石を並べて祭壇を築き、イサクが背負ってきた薪を並べていった。まもなくここで、犠牲となる生き物の四肢が裂かれ、内臓が出され、血が絞り出されて四隅にかけられる。そうして、全てを舐め尽くす火にかけられ、脂肪がなくなるまで焼かれるのだ。
 イサクは、火と刃物を手にした父の動きが止まるのを期待し、「わたしのお父さん」と呼びかけた。しかし彼は「ここにいる。わたしの子よ」としか返さない。ついに、イサクは問いかけた。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」
 しばらく間があってから、彼は答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」その手に持ち直された刃が「小羊はお前だ」と告げていた。なぜ彼は犠牲を求める神に対して「自分が小羊になる」と言わないのか? 息子のために神にとりなすことをしないのか?
 だが、飛びかかった男に押さえつけられるほど、イサクも幼くはない。そもそも年老いた彼の力では、自分を捕えることは叶わない。たとえ、祭壇に縛り付けられたとしても、必死にもがく自分の体を皺だらけの手で仕留めることは無理だろう。イサクと彼の攻防は数十分続いた。ついに彼の方が力尽き、その手からカランと刃物が落ちた。
 何かぶつぶつ呟いている。今度は「神の使いがこの手を止めた」とでも言うのだろう。神に忠誠を試されていたと……だが、イサクの耳に神の声は聞こえない。代わりに、向こうの木の茂みで一匹の雄羊が角をとられているのが見える。タイミングのいいことだ。
 結局、彼とイサクは、見つかった羊を屠って焼き尽くし、若者二人と合流して家へ帰った。その後、イサクが神の声を聞くことはほとんどなかった。
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