第1話

文字数 2,708文字

 大学に行くまでの18年間は、地元で全てのことを満たしていた。特に不自由を感じるわけでもなく、車を走らせれば大体のものは手に入った。
 大学進学を機に上京し、そのまま東京で就職した。東京の時間は流れが速く、地元で流れている時間とは違う時間を採用している感じがした。
 渋谷は、谷底にある街と自覚しながら、それでも必死に賑わせようとしている虚しさがあって、地元と重なった。広告と店が乱立し合い、その隙間を縫うようにして人が移動し、同じような服と同じような声色でかろうじて男か女かを区別でき、むしろ、男女と分けることさえはばかれるような生物感があった。
 センター街側の交差点ではギターの弾き語りをしている男がいて、好きな歌手はEXILEなのだろうと予測できる歌い方で、新鮮味に欠ける。もちろん、日焼けをしさらに髭を生やし、ワイルドを演出している。
 
 渋谷から品川東京方面の山手線に乗り秋葉原まで行く。電気街口から中央通りへと向かい、何も買う気がないままに末広町駅まで歩く。ここ数年でメイドの格好以外にも、くのいち姿や猫耳、女子高生風のコスチュームを身につけた若い女が微笑と真顔の中間の表情で男たちに声を掛ける。
 痩せている女がほとんどのなか、やや太めの女が俺の前に立ち、「コーヒだけでもどうですか?」と目を見据えて言う。
「いや、金ないから」
「コーヒだけなら。500円で済みます」
「チャージ料は?」
「1時間で1000円です」
「500円で済まないじゃん」
「えへへ、間違えちゃいました。1500円で済みます!」
いたずらをごまかす子どものような愛嬌のある表情をする。久々に誰かと話したことで少しだけ気分が高揚し、その女に着いていくことにした。
 「少しここから離れているんですけど」と言いながら、雑多な会話をする。お互いに興味を持っている風を装いながら、雑居ビルに入り4階までエレベーターで上がる。店に着くまでの間、どのような会話をしながらここまで来たのかの記憶はもうすでにない。それほどまでに中身のない会話をしていた。
 店内は淡いピンク色で全体が装飾されていて、カウンターで客とメイドが仕切られている。猫耳を付け、メイド風のコスチュームを着た女が店内に3人ほどいてそれぞれに自己紹介をされたが、誰一人として名前を覚えられなかった。
 俺を案内した女は「このお家の説明をしますね」と慣れた手つきでこの店のコンセプトが書かれた紙を広げて説明を始める。どうやら、店員が猫という設定で、客はその飼い主ということらしかった。一通り説明が終わると、「何か質問はありますか、ご主人様」と首をやや傾げながら言う。
「なんで猫が人の格好してるの?」
「それはご主人様の愛の力で人になれているんです。だから、ご主人様が長い間、来てくれないと私たちは野良猫になってしまうんです」
「じゃあ、化け猫なんだ」
「そういうことになります。でも、可愛い化け猫ちゃんでしょ?」
完璧な受け答えだった。俺なりに困らせてやろうと思って質問を投げたが、それを平気で打ち返してきた。掛布、バース、岡田にホームランを打たれた槙原の気持ちが初めて理解できた。
「ご注文は何にしますか?」
「じゃあ、ホットコーヒを」
「かしこまりました!」
語尾をやや上げて若さと可愛らしさを演出している。
 女の後ろにある冷蔵庫からペットボトルのコーヒを取り出し、カップに注いで電子レンジで温める。ペットボトルのコーヒーを冷蔵庫に戻して、こちらに向き直り、「そういえば、ご主人様を何とお呼びしたらいいですか?」
「なんでもいいです」
「えぇ〜、お名前は何ですか?」
「西川です」
「じゃあ、ニッシーはどう?」
「ニッシーっていう顔じゃないでしょ。AAAのファンに怒られそうだし」
「じゃあ、下の名前で決めよう!西川なにさん?」
「西川モギュモギュ太郎三世です」
できるだけ抑揚を抑えて、平然とした声で言う。困らせてやろうとくだらないボケをするが、女は「何それー!かわいい!じゃあ、モギュちゃんだね!」と明るい声で返す。
 全く戸惑わない女の対応がこちらを戸惑せる。すると電子レンジが鳴り、それに合わせて「はい、モギュちゃん」とコーヒーを俺の前に置く。
「モギュちゃんって仕事、何してるの?」
「教育系の仕事だね」
「先生ってこと?すごーい!」
「別に凄くないよ。子どもの相手してると、疲れるし、話は通じないし」
「なるほどねー。でも、その仕事好きなんでしょ?」
「嫌いじゃないけどね。ただ、本当はもっと大規模な会社で働いてみたかったとは思うよ」
「いわゆるオフィスラブができるような会社だ!」
「そう。でも、この猫耳メイドの仕事も大変でしょ」
「そんなことないよ!だって、私たちは猫だから人間界の話を聞けて、いっぱい勉強できるし、人間の方たちともお話しできるから楽しいよ!」
 女の目は輝いているように見えて眩しい。
「猫の世界ってどんな感じなの?」
「そうだなぁ〜、皆、自分勝手かな。人間みたいに自分以外の誰かのために何かをするってこともないし、子どもだってたくさん産まれるからその子たちの面倒をみないといけないし。あ、でも、人間から可愛いって言ってもらいながら頭を撫でられるのは大好きだし、猫で良かったって思うよ」
しっかり設定に入り込んだプロだった。ここまでのプロ意識を初めて見て、感動すら覚える。さらに、地元について質問しても、「どこか分からないんだけど、ひまわり畑。それで目が開いたときは目の前に大きなひまわりがあったよ」と答え、好きな食べ物を聞いても「油少なめの猫缶」と答えた。

 しばらくすると、一時間が経ち延長を促されたが、話すこともなくなったので、金を払って店を出、エレベーターを待つ。4階に到着するまでの間、少し会話をする。
 エレベーターが到着し、ドアが開く。「またね!」とその女が言い、「また」と短く返し、1階のボタンを押し、扉を閉める。

 1階に着き、外に出て店が入っている雑居ビルを見上げると、3階までしかなく、さっきまでいた店はなかった。
 呆然としていると後ろから男性の低い声がした。驚き、振り向く。やけに冷たい風が吹く。スーツ姿でサングラスをかけたオールバックの老爺が不敵な笑みを浮かべ、こちらを見ている。

「不思議な世界へ誘われたようですね。世の中には科学で解明できないことが多々あります。それにあなたが巻き込まれたとき、素直に受け入れることができるでしょうか。おや、こんなところに」
そう言いながら、その老爺が近付いてきて俺の右肩あたりに手を伸ばし、それからその手を俺の目の前に差し出した。そこには猫の毛らしき動物繊維が一本あった。
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