横断歩道、信号は赤

文字数 1,766文字

その日、私はいつものごとく部活から逃れ、日没までやり過ごす方法を考えていた。帰りたくはないし、学校から出てふらふらと歩き回ろうにも、あいにくの雨が邪魔をする。それでもとにかく、さっきいた場所から遠くに行きたくて、なるべく人を避けつつ校舎の端を目指した。

最上階の、最南端。そこに図書室があった。
存在だけは知っていたけれど、実際に入ったことはなかったな、と思いながら静かに戸を引く。何人かスタッフはいたけど、それぞれの作業に集中していてこちらには注意を向けない。私は目当ての一冊を探すふりをして、できるだけカウンターから遠くの本棚の影に隠れた。

ようやく、一人になれた。
私は深呼吸して、できる限りの今日を忘れようとした。どうせ忘れても、また明日が今日になるけど。忘れようとしているのに、すべて思い出してしまって、また深呼吸をする。…これじゃ一向に忘れられないな。心の中の自分が、苦笑いを浮かべたそのとき、
「君も一人?」
左から声がした。びっくりしつつ目を向けると、そこには同じく高二と思わしき少年がいた。同い年に少年というのも変かもしれないけど、彼を表現するのにはそれがぴったりだった。少し幼い顔立ちと、柔らかい表情。だからこそきっと、私もさほど気を張ることなく返事ができたんだと思う。
「うん。君も…?」
「そうだよ。困ったことにね。」
彼はまた優しく笑った。どこか安心するような、彼の不思議な雰囲気に促されて、私も少し微笑む。
「ほんとに、困ったことにね…あいにくの雨だし。」
「雨は嫌い?」
「うん、好きじゃないな、湿気も重たいし…君は?」
「僕は、どちらかと言えば好きだよ。いい音がたくさんするから。」
「音か、たしかに…いい音するね」
「でしょ?重たい湿気も、僕は好きだよ。」
数回言葉を交わしただけで、雨って案外悪いものじゃないなと思い始めるくらい、彼の言葉には説得力があった。私たちはそのあとも少し会話をして、暗くなったころに解散をした。

その日から、彼が中学生のときからそうしていたように、放課後は図書室に通った。一人になりたくて駆け込んだ場所は、いつのまにか二人の場所になっていた。なんでもない会話をして、解散。それだけなのに、なぜだか毎日が少しだけ楽になった。忘れたくない日もできた。仲間の存在が強さになることを、初めて理解した。
彼は夜更かしが好きで、よく授業中に寝て怒られてしまうと言っていた。私も夜更かしが好きになって、今まで授業中に寝るなんて考えたこともなかったけど、たまにうたた寝をするようになった。彼にその話をすると、そこまで仲間にならなくても、と笑った。クラスメイトに「なんか最近変わったね」と言われるくらい、彼の生活が私の生き方の芯になった。そうしてやっと、私は少しずつ進めるようになった。

はずだった。

一学年の人数が多く、他クラスとの交流も少ないのもあってか、図書室以外で彼に会うことはこれまで一度もなかった。だから私は彼の普段についてなにも知らなかったし、壇上で賞状を受け取る彼を認識するのにそれなりの時間がかかった。賞状を持って、うれしそうにクラスの仲間のところに戻り談笑する姿を見て、私の芯は簡単に崩れてしまった。

正直言って、私は彼をなめていたのだ。彼は私と同じで、弱くて孤独な高校生だと思っていた。でも、違った。私がなんとなく過ごした深夜に、彼は自分の力を高めていた。図書室で会話をしているときも、頭の中では別のことを考えていたかもしれない。彼には図書室以外にも居場所があった。それでも図書室に来る理由があったことには変わりないけれど、私の持つ彼のイメージを壊すには十分な出来事だった。勝手に期待して勝手に失望して、あまりにも自分勝手で自己中心的で、今までにないくらい、自分を最低な人間だと思った。思ったけど、それが正直な気持ちであることに変わりはなかった。

その日も雨だったけど、図書室には行かなかった。学校を出て、歩いて、交差点で立ち止まる。
これからどうするか、なんて、考えられなかった。納得していたはずの最近の生活も全部、意味のないものになってしまって、今日も今までも、いっそ明日も、なくなったっていいと思った。
雨が地面にぶつかる音と、水たまりを切るタイヤの音が混ざって、意識をより不確かにした。

横断歩道、信号は赤。
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