渡辺一夫「ヒューマニズム考」について
文字数 1,880文字
哲学に関する本が読みたくなり、書店で見かけた本書を手に取った。
文体が優しく、そう厚くないことが購入の決め手になった。
当時メールのやりとりのあった、結婚相談所で知り合った相手に、渡辺一夫の「ヒューマニズム考」を読んでいる、と言った。
すると相手は、話を合わせるために購入して、感想を言い合おうと提案してくれた。そういった理由で、少し真面目に本書を読むことになった。
本書は東京大学の教授が書いた、ヒューマニズム(本書の記載ではユマニスム)が十六世紀のフランス文学ではどのように現れていたか、という中間報告だ。
ここで言うユマニスムとは現在使われているような博愛主義とか人道主義といった意味ではない。
当時、議論のための議論に堕していた神学−例えば「針の先に天使が何人とまれるか」などと言った問答(かわいい)−に対して警鐘を鳴らした思想がユマニスムだ。
ユマニスムは議論のための議論に対し「それはキリストと何の関係があるのか」と、神学をキリストの教えに近いものであるように努める立場でもある。
哲学に造詣の深くない私が、本書の意図を正しく汲み取れたかは分からない。
それでも、渡辺一夫が「はじめに」で書いている、田毎の月、という言葉がある。
水田の一つ一つに月が映って、それが全て月の影であるように、一人一人が思想に触れて受け止めたものは各人にとり確かなものである、という意味だ。私も自分の月を披露したい。
なんと言っても出てくる登場人物が全員熱い。
キリストの教えにあくまで忠実であろうとしたルター、エラスムス、ラブレー、カルヴァン、モンテーニュの五人の男たちがペンを武器に当時の教皇たちに立ち向かう。
ルターは直情径行が行き過ぎてローマ教皇に破門され、革命家になってしまう。
一方、エラスムスはルターより自己主張が弱く、考え深い人物だ。彼の姿勢はルターに比べると弱く惨めに見えるが、それというのも正しい主張も行きすぎると互いに譲らず傷付け合い、ユマニスムも本末転倒になると分かっていたのだ。知的。
この二人はユマニスムを実現する姿勢の違いから対立したが、エラスムスが卵を産み、ルターが孵した、と言われるように両者の存在は車の両輪のようなもので、実に熱い関係だ。
その後登場するラブレーは、下ネタ満載の「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」で、人間は皆用便しなければ生きていけない、天使になろうとして豚になるな、と人間の思い誤りを文学で戒めた。
カルヴァンはそのラブレーに真っ向から対立する。
彼は、神に選ばれた者としての責務を果たすため、正しいと信じる新教会の設立に血道をあげていく。
理想を求めるあまり敵を虐殺し、ユマニスムの対極に行ってしまうのは、ピカレスク小説の王道ではないか。とにかく熱い。面白い。
最後に、私が心動かされたのはモンテーニュだった。
モンテーニュは、私たちは真理を追い求めるように生まれついているが、多くの人はその方法を知らない、として行き過ぎた旧教会もカルヴァンも間違っていると言う。
そして、新大陸についての彼の叙述である。
ヨーロッパ人が新大陸に上陸し、土着民に今からお前たちの主人は俺たちだ、と言った。しかし土着民の答えは淡々としたものだった。
反抗するでも追従するでもなく、土着民は素朴に「君のところの王様って野蛮〜」(意訳)と答えた。
モンテーニュはこの土着民の返答を「幼い人々の片言」のようだが、それだけに原理的な正しさがあるとする。無力だが脈々と流れるユマニスムと同じ批判精神であると。
ヨーロッパにおける宗教の腐敗に対しユマニスムは「それはキリストとなんの関係があるのか」と問うた。
そしてまたユマニスムは、新大陸を侵略したヨーロッパ人の背後にあるキリスト教絶対主義やヨーロッパ絶対主義にも「それは人間となんの関係があるのか」と姿を変えて問いかける。
そうか、「それがキリストとなんの関係があるのか」とはキリスト教徒だけに向けられたものではない。それは「それは人間であることとなんの関係があるのか」として、肥大した自己で弱者を征圧する者への小さな抗議の声でもあるのだ。
私は心に感じるものを覚えて本書を読み終えた。
数日後、結婚相談所で知り合った相手と、本書を読み終えての感想をメールで交わした。
先方の感想はこうだった。
「自分も会議中に関係ない話をする奴には、『それがこの会議となんの関係があるのか』と言ってやる」
私は文面を三度読み返してスマホの電源を落とした。
後日、この関係は破談になった。
文体が優しく、そう厚くないことが購入の決め手になった。
当時メールのやりとりのあった、結婚相談所で知り合った相手に、渡辺一夫の「ヒューマニズム考」を読んでいる、と言った。
すると相手は、話を合わせるために購入して、感想を言い合おうと提案してくれた。そういった理由で、少し真面目に本書を読むことになった。
本書は東京大学の教授が書いた、ヒューマニズム(本書の記載ではユマニスム)が十六世紀のフランス文学ではどのように現れていたか、という中間報告だ。
ここで言うユマニスムとは現在使われているような博愛主義とか人道主義といった意味ではない。
当時、議論のための議論に堕していた神学−例えば「針の先に天使が何人とまれるか」などと言った問答(かわいい)−に対して警鐘を鳴らした思想がユマニスムだ。
ユマニスムは議論のための議論に対し「それはキリストと何の関係があるのか」と、神学をキリストの教えに近いものであるように努める立場でもある。
哲学に造詣の深くない私が、本書の意図を正しく汲み取れたかは分からない。
それでも、渡辺一夫が「はじめに」で書いている、田毎の月、という言葉がある。
水田の一つ一つに月が映って、それが全て月の影であるように、一人一人が思想に触れて受け止めたものは各人にとり確かなものである、という意味だ。私も自分の月を披露したい。
なんと言っても出てくる登場人物が全員熱い。
キリストの教えにあくまで忠実であろうとしたルター、エラスムス、ラブレー、カルヴァン、モンテーニュの五人の男たちがペンを武器に当時の教皇たちに立ち向かう。
ルターは直情径行が行き過ぎてローマ教皇に破門され、革命家になってしまう。
一方、エラスムスはルターより自己主張が弱く、考え深い人物だ。彼の姿勢はルターに比べると弱く惨めに見えるが、それというのも正しい主張も行きすぎると互いに譲らず傷付け合い、ユマニスムも本末転倒になると分かっていたのだ。知的。
この二人はユマニスムを実現する姿勢の違いから対立したが、エラスムスが卵を産み、ルターが孵した、と言われるように両者の存在は車の両輪のようなもので、実に熱い関係だ。
その後登場するラブレーは、下ネタ満載の「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」で、人間は皆用便しなければ生きていけない、天使になろうとして豚になるな、と人間の思い誤りを文学で戒めた。
カルヴァンはそのラブレーに真っ向から対立する。
彼は、神に選ばれた者としての責務を果たすため、正しいと信じる新教会の設立に血道をあげていく。
理想を求めるあまり敵を虐殺し、ユマニスムの対極に行ってしまうのは、ピカレスク小説の王道ではないか。とにかく熱い。面白い。
最後に、私が心動かされたのはモンテーニュだった。
モンテーニュは、私たちは真理を追い求めるように生まれついているが、多くの人はその方法を知らない、として行き過ぎた旧教会もカルヴァンも間違っていると言う。
そして、新大陸についての彼の叙述である。
ヨーロッパ人が新大陸に上陸し、土着民に今からお前たちの主人は俺たちだ、と言った。しかし土着民の答えは淡々としたものだった。
反抗するでも追従するでもなく、土着民は素朴に「君のところの王様って野蛮〜」(意訳)と答えた。
モンテーニュはこの土着民の返答を「幼い人々の片言」のようだが、それだけに原理的な正しさがあるとする。無力だが脈々と流れるユマニスムと同じ批判精神であると。
ヨーロッパにおける宗教の腐敗に対しユマニスムは「それはキリストとなんの関係があるのか」と問うた。
そしてまたユマニスムは、新大陸を侵略したヨーロッパ人の背後にあるキリスト教絶対主義やヨーロッパ絶対主義にも「それは人間となんの関係があるのか」と姿を変えて問いかける。
そうか、「それがキリストとなんの関係があるのか」とはキリスト教徒だけに向けられたものではない。それは「それは人間であることとなんの関係があるのか」として、肥大した自己で弱者を征圧する者への小さな抗議の声でもあるのだ。
私は心に感じるものを覚えて本書を読み終えた。
数日後、結婚相談所で知り合った相手と、本書を読み終えての感想をメールで交わした。
先方の感想はこうだった。
「自分も会議中に関係ない話をする奴には、『それがこの会議となんの関係があるのか』と言ってやる」
私は文面を三度読み返してスマホの電源を落とした。
後日、この関係は破談になった。