心配のタネ

文字数 3,938文字

 半年ぶりに訪れた町を、ひろこはなつかしそうに見渡した。3月20日、春分の日。やわらかく穏やかな、水色の空だ。
(ここを出ていった頃、この道は真っ赤な花が満開だったっけ…。)
 さざんかの垣根道は、茶色いツヤのある丸い実をたくさん落としていた。ひろこはふと、自分の上着のポケットにも、何かの実が入っているのを思い出した。それはさざんかの実とよく似ていたけれど、いつから持っていたのかひろこはおぼえていなかった。
(ヒロシのやつ、本当に一人で引っ越しなんて出来るのかしら…。)
五つ年下の弟、(ひろし)のことを考えると、弘子(ひろこ)は眉根を寄せた心配顔になってしまう。姉弟二人の名前は似ていたが、性格は180度異なる。社交的なひろこと、内気なヒロシ。けれど、幼い頃から二人は仲が良く、大人になってもそれは変わらない。
 大学を卒業しても仕事を見つけられず、農業を営む実家に居づらくなったヒロシ。ひろこは自分のアパートへ呼び、住まわせてあげていた。
―それにしても、どうしてバイトすぐやめちゃうのよ!
―だって、オレの目がはなれてて変だって、皆が笑うから…。
ひろこがあきれたのは数えきれない。
―また辞めたの?今度は何が原因?
―クビになったんだ。客商売に向いてない顔だっていわれた…。
世間知らずで気が弱く、不器用で口数少ない弟を、ひろこは怒れなくなり、長年、姉弟二人暮らしをして過ごしていたのだった。
 ひろこの都合で、半年前にアパートを出てからは、ヒロシのアルバイトも少しは続いていたようだ。
―オレも引越しすることに決めたよ。今まで姉ちゃんに頼りすぎていたけど、しっかりやるから大丈夫だ。
と、報せてきたのだが、ひろこはやはり心配になって訪ねてきてしまった。

 あと一つ曲がればアパートが見える角で、ひろこは立ち止まる。トラックの前で、引越屋の制服を着た青年が、何か声高に話している。ヨレヨレのTシャツを着たヒロシの後ろ姿も見えた。
(あれ?あんなにちっちゃい車で、荷物全部入るの?)
青年の甲高い声は、明らかに怒っている様子だ。
「困るんです!こんなに内容がちがってるんじゃ、どうにもならないですよ!」
「え、あ、いや…、そんなちがってましたかねえ…。」
「ダンボール箱の数だけでも2倍はあるじゃないですか!参ったな…もう1台、急いで今から手配しないと…。」
 どうやらヒロシは、荷物の量を少なく申告してしまったらしい。大きな背中を丸めてペコペコと頭を下げている。
(あーあ。やっぱりあいつ失敗してるわ…。)
ひろこは、塀の壁へ身を潜めた。
 引越屋の青年にさんざん文句と嫌味を言われ、高額な追加料金を払わされたヒロシ。それでも一生懸命荷物を運び、トラック2台を送り出した。アパートの外階段を軽やかに上がりながら、ヒロシは汗をぬぐい、満足そうにつぶやいた。
「ふうー。なんとか終わったな…。ちょっとミスしちゃったけど、姉ちゃんにはばれないからいいか。」
ひろこは、ばれてるわよ、とため息をついた。
(あいつ、小さい頃からトンチンカンなことやってたからなあ…。)
 ひろこは思い出した。7歳の時生まれて初めておこずかいの100円をもらったヒロシが、喜びいさんで買物に出かけた日。100円硬貨はすごいお金で、そのすごいお金さえあれば何でも買えるんだと思いこんだヒロシは、欲しい品物を山のようにかかえ、店員に気づかれぬまま、レジの前に100円を置いて帰ってきてしまった。
 大あわてであやまりに出かけた父母の真っ赤な顔と、弟のキョトンとした顔を、ひろこは20年以上たった今でも忘れられない。

 ブルルルンと低いエンジン音が響き、ひろこははっとした。アパートの大家が、黒塗りの車で乗りつけたところだ。
 大家はヒロシの部屋に入ってゆき、あちこちなめ回すように見つめている。階段の途中から部屋をそっとうかがうひろこの耳に、会話が聞こえてきた。
「…それで、このキズはいったいどうしてついてしまったんです?ぼくには、まるでひっかいたように見えるんだが…。」
(あ、しまった!)
ひろこは舌打ちした。台所の壁の一部に猫が爪をといだ跡がある。飼い主が見つかるまで、ひろこがあずかった野良猫につけられてしまったキズだ。
(冷蔵庫をずらした時に少しキズがついたのかな、とかとぼけるのよ、ヒロシ!)
ひろこの期待を裏切って、ヒロシはのんきそうな口調でこう言った。
「ああ、そういえば姉ちゃんが猫をつれてきた時、つけられちゃったのかも知れませんねえ。いたずらな子猫だって言ってたから。」
(バカ!そんな事大家に言ったら怒られるにきまってるのに…。それに猫あずかったのたった3日なんだから!)
ひろこの心配どおり、大家は猫を飼った事を契約違反としてヒロシにきびしく注意した。それだけじゃすまず、もともとあった部屋中の細かなキズすべてを猫の責任として、修繕費を請求されるはめになってしまった。。

 ひろこが頭をかかえ、そっと階段を下りると、以前顔を合わせたことのある老婦人と会った。ひろこの記憶では、老婦人はアパートの5軒先にある三世帯住宅に、息子夫婦や孫たちに囲まれて住んでいるはずだ。
 老婦人はひろこを見つけるとアレ?という不思議顔になったが、すぐに親しげに声をかけてきた。
「こんにちは。いい天気ですわね。『暑さ寒さも彼岸まで』って言うけど、本当に今日はあたたかくて…。ほら、こんな日は種まきにちょうどいいでしょう?」
老婦人は手に小さなスコップとひとにぎりの黒い種を持っている。何か楽しい事があったのを隠せない笑顔で、ひろこに近づいてきた。
「今日はね、孫の卒園式だったのよ。末っ子だからなにしろ甘えん坊でねえ、幼稚園に連れていくのも一苦労だったの。一日中泣いてばかりで、私なんか何度呼び出されて迎えにいったかしら…。それがねえ、先生に名前呼ばれて、ハイってしっかり卒園証書もらってた。そんな姿見たら本当に、もう…。」
老婦人は泣き笑いしながら、ひろこの前で顔をおおった。ひろこの目頭もあつくなった。
「もう、なーんの心配もないわ。あの子すっかり小学生らしい顔つきになったもの。私の心配の種は、今日すっかり無くなりました。」
老婦人は、手ににぎっていた種を土にまき、ひろこに会釈して道を歩き出した。5軒目の家の前でもう一度ふりかえり、門の中へ消えて行った。ひろこも黙って頭を下げた。
(あのおばあちゃん、心配の種が無くなっていいな…。私はあんなでっかい弟が心配で、ため息ばっかりだっていうのに。あーあ、来ないほうがよかったのかしら。)
 ひろこはうつむきながら、アパートの階段を再び上がった。
(これ以上心配させないでよ、ヒロシ。)

 ヒロシはがらんとした部屋で、大汗をかいて掃除していた。引越荷物の失敗も大家とのやりとりもすっかり忘れたように、晴ればれした表情でぞうきんがけを終わったところだ。「よし!これでピカピカだ。今、姉ちゃん来たら感心するだろうな。」
ヒロシは部屋を見渡してうなづくと、どっかり座ってスーパーのビニール袋を開いた。おにぎりと缶詰が入っている。アパートの廊下側の窓越しに、ひろこはその様子をうかがっていた。
「あ、いっけねえ!こいつ、缶切りが必要なヤツだったか!」
けれどヒロシはすぐに笑顔になり、押入れの前に置いてあった工具セットからドライバーとハンマーを取り出したのだ。ひろこはどきどきした。
(うわ、危なっかしい…あの手つき…。ホラ!やっちゃった!)
「イテテテ!」
ヒロシが、ドタドタと左手を押さえながら台所の流し場へやってきた。ひろこがすぐ目の前でのぞいていることにも気づかない。缶詰をあけようと差し込んだマイナスドライバーが、親指の根元に血をにじませている。よっぽど痛かったのか、ヒロシは涙ぐんでいた。
(全く、ドジで、泣き虫で…。)
しっかりしなさいよ、男でしょ!と大きく叫ぼうとしたひろこが声を飲み込んだ。突然、ヒロシが顔をあげたからだ。
「姉ちゃん…オレ、もうこの先は泣かないよ。これで最後だ。」
ヒロシは台所の窓から遠くを見つめ、流していた涙をぬぐった。ほこりだらけの顔に涙の筋が残ったが、ヒロシは泣き止んだ。
「オレ、ここを引っ越して田舎に帰る。農家をつぐことに決めたんだ。親父たちも年とったしな。でも、今まで嫌いだった農家、何で急にやろうと思ったか知ってるか?」
ヒロシの目が真っ赤になった。泣きたいのをこらえているのが、ひろこによくわかった。
「姉ちゃんがいなくなったのは…あんなわけわからないガンにやられてあの世へいっちまった原因は、少しずつ、少しずつ悪い食物が体の中でたまっていったからだと思う。
だから、オレ、体にすごくいい野菜をつくろうって決めた!悪い毒がたまらないようなすごくいい野菜をつくる農家になるんだ…。」
 ヒロシの目から、再び涙があふれだした。同時に、ひろこの目からも銀色に光る涙がこぼれ、空中に音もなくすいとられた。
 
 しばらく涙が流れるままにまかせたひろこは、ようやく顔をあげた。無意識にポケットへ手をいれると、ついさっきまであったはずの丸い種が消えている。
(ヒロシ、姉ちゃんやっと心配のタネが無くなったよ。これでもう、帰るからね。)
ひろこはそうつぶやいて、アパートの廊下をたどった。
 階段を下り、二階の部屋を見上げた姿勢のままで、ひろこは笑顔とともにそのあたりの空気と一緒の色となった。

 3月20日・春分の日は、お彼岸の中日にもあたる。こんな日は、空の上にいる人もそれぞれ心配事のある地上へ下りてゆくことが許された。
 しかし、空の上から外出したなら、守らなくてはならない約束がある。
 約束はたった一つ。
訪れた地上で『心配のタネを消してくる』というものだった。
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