第1話 しずる~美味しいの特等席~

文字数 1,999文字

 男、有田一(ありた はじめ)
 彼女いない歴、三十三年。(先々月時点)
 生まれて初めて、女性の部屋に入室す!!

「ここか……」

 俺は今、恋人・瀬戸静流(せと しずる)のアパートの玄関前に来ている。
 きっかけは、ほんの些細なことだった。
 SNSにゲームのイベントについて投稿したら、彼女も行きたいと言ってきたのだ。
 一緒に参加したイベントで意気投合し、交際へ。
 そこからトントン拍子で――わずか二か月で『夕飯を食べに来ないか』と、彼女の部屋に招かれることとなった。

「……ょしっ」

 一人暮らしの、女性の部屋――期待と緊張で息が荒ぶり、心臓が勢いよく脈打つ。
 行く!! 俺は行くぞ!!

【ピンポーン】

 彼女の部屋のインターホンを鳴らす。
 はーい、と静流さんの返事が聞こえる。
 水道の流れる音がして、パタパタとした足音が玄関に近づいてきた。

「いらっしゃいませ、一君!」

 玄関が開き、静流さんが出迎えてくれた。
 同時に、甘辛い香りに包まれる。醤油と、味噌の香り。
 溜め込まれていた気合と緊張が、あっという間に霧散した。

「どうぞ」

 静流さんの部屋に入ると、すぐ横がキッチン。
 二口のコンロの上には、フライパンと手鍋が乗っていた。
 どちらもユラユラと、湯気が上っている。

「すぐにご飯できるから、奥の部屋で座ってて。あ、手はそっちの洗面台で洗ってね」
「わかった」

 言われた通り、手を洗って奥の部屋に向かう。
 部屋には食卓と思しき、折り畳みテーブルが置かれていた。
 食卓の片方にはパソコンチェアがあり、もう片方はベッドが置かれている。
 ベッドの上にはクッションが置かれ、ソファー替わりのようだ。
 ――まぁ、パソコンチェアの方に座るよな。
 
「狭くてごめんね」
「とんでもない。おまねきありがとう」

 トレーに料理を乗せて、静流さんがどんどん運んでくる。
 食卓に並べられていく、ほうれん草の小鉢、ごはん、熱々の味噌汁。
 そしてバターの乗った、四角い切り身の煮魚。

「今日は魚にしたんだ。一人暮らしだと、なかなか食べないかなって思って」
「すごい、美味しそうだな」
「ありがとう。温かいうちに、食べよう」

 料理を運び終わった静流さんが、向かいのベッドの上に腰を下ろす。
 気にしないようにしても、やはりちょっとドキドキするな。
 ――いや、今は食事に集中しよう!

「いただきます!」
「いただきます」

 まずは、味噌汁から口にする。
 キャベツと玉ねぎの、優しい甘みの味噌汁だ。

「美味しい……」
「味噌汁って、ホッとするよね」
「ああ」

 笑顔で話しかける静流さんと話しながら、次は小鉢のほうれん草を食べた。

「ウマッ!」

 口の中に、ゴマの香りが一気に広がる。
 ほうれん草って、こんなに美味しかったっけ?
 あまりの美味しさに、一気に食べきってしまった。

「あはは。おかわりもあるからね」
「あ、ありがとう……」

 照れ隠しに、味噌汁をすする。
 先ほどまであれこれ考えて、あんなに緊張していたのに。
 すっかり食事に夢中になって、メインの煮魚に箸を伸ばす。

「これは?」
「カジキの煮つけ。おばあちゃんが、よく作ってくれてたんだ」
「へぇ」

 照りのある濃厚な煮汁に包まれた魚を箸で割ると、身の真っ白な断面が現れた。
 一口食べると、ご飯が恋しくなる甘辛いタレが広がる。
 甘い身がホロホロと、淡雪のようにほぐれていく。
 俺は追いかけるように、白米を口にかけ込んだ。

「美味しい……売ってるお惣菜とは全然違う……」
「お店のはね、衛生管理のために火を通しすぎるから」

 どんどんご飯が進んでしまう。
 流氷のような塊のバターがとろけて、タレと絡まった部分は一層濃厚で旨い。


「料理は基本的に、出来立てが一番美味しいの。だからこの美味しさは……料理を作る人の、(そば)にいる特権だね」

 時おり味噌汁をはさみながら、食べ進めていく。
 美味しい、温かい、満たされていく。
 ああ、これが、家庭料理っていうのかな――

「一君?」

 ちょっと驚いた顔で、静流さんが俺を見つめる。

「あ……ォレッ……」

 声が、掠れる。
 目元が一気に熱くなった。
 俺、泣いて――

「ごめっ……」
「……一君、こっち」

 静流さんは座っているベッドを、ポンポンと手で叩く。
 促されるままに、俺は彼女の横に座った。
 そんな俺の頭を、静流さんは何も言わずに撫でる。

「……うち、母子家庭で……」
「食事は、買ってきたものばかりで……」
「家で、こんな料理が作れるなんて、全然知らなかった……」
「ごはんが……こんなに美味しいと思うの、初めてで……」

 ぽつりぽつりと零れる言葉に、溢れる涙。
 今まで思いもよらなかった感情が、彼女の撫でる手に流されていくよう。

「そっか。……寂しかったんだね」

 寂しかった。
 気づいてしまったのだ、彼女の料理で。

「静流さん」

 俺は彼女の目を真っすぐ見つめ、≪この世で一番の幸せ≫の手をとった。
 美味しいの傍らに、俺はありたい。

「俺と、結婚してください!!」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み