第1話

文字数 3,625文字

 壁の丸時計の針は午前0時にさしかかっていた。広いオフィスの中は薄暗い。居残っているのはたった一名。紺のベストにリボンタイ姿の派遣社員だ。だがこの人物に仕事をしている様子はない。両の膝をぎゅっと握りしめ、スタンドの灯った机の上を一心に睨みつけているのだ。加藤冴子(24)が虎のような目つきで見つめているのは大きなマグカップだった。彼女のお気に入りで、全体が大きな目をしたペンギンの体になっているデザインだ。ちょっと不思議なのは、全く同じ形のマグカップが二つ並んでいることだ。ここは新婚カップルのリビングではなく、殺伐とした不動産会社である。冴子が呟く。「そろそろね…」
 すると、右側のマグカップがカタカタと震え始めた。冴子が見守る先で、陶器の表面がにゅっと盛り上がり、カップの両側に手のような短い羽が生えた。「クッ」冴子は思わずこめかみを押さえた。(やめて、これ以上は…)マグカップは小さな翼をジタバタ振り回しながら、机の上でポンと跳ねあがった。一瞬の後、水かきのついた足がマウスパッドの上に着地した。マグカップは机の上をよちよちと歩きだす。冴子の苦悩が裏声となって迸り出た。「チクショー、愛くるしいいぃぃ!」

 ところで宇宙は無限に広がっている。そこには生命が住む無数の惑星系があり、進化の末に知性を獲得した種族も稀ではない。さらに選ばれた者たちは高度な技術文明を発展させ、宇宙空間に進出した。彼らの中には善良な種族もいたし、性悪な種族もいた。天の川銀河のとある惑星にも、根性がひどく曲がった知性体が住んでいた。困ったことに、彼らは我らの太陽系を虎視眈々と狙っていたのだ。実のところ、悪魔のような宇宙人は、既に地球にやってきている。そう、邪悪で高度な知性と、完璧な擬態能力とを備えた狩人(プレデター)が!
 ところが最初の一歩(ファースト・コンタクト)でちょっとした行き違いがあった。一人乗りのスターシップで南極大陸に着陸したのは、数多の世界を地獄に叩き落としてきた手だれの工作員だ。「それ」は越冬隊のキャンプにまんまと忍び込み、まずはベッドの枕に擬態した。女性隊員は見た。オレンジ色の枕から猫の耳と足と尻尾が生えて、そこらをトコトコと歩き回るのを。「はうう!」隊員があまりの愛くるしさに悶絶すると、異星人は生命の危機を知らせる信号だと解釈した。猫耳マクラはしてやったりとほくそ笑んだ。彼らの種族は牙や爪を持つわけではなく、肉体的にはむしろ地球人よりも弱い。武器は敵をいやーな気持ちにさせる精神攻撃だ。それ以後、地球上のあちこちで、ぬいぐるみやファンシーなキャラクターグッズが可愛く動きだす怪奇現象が見られるようになった。子供たちがキャッキャ喜び、大人たちが愛くるしさに身悶えるたび、異星人の誤解は正のフィードバックによって増幅してゆき、擬態はより愛くるしく進化していった。ちなみに中身は邪悪なままである。彼らを間抜けと笑うのは少し酷かもしれない。1000光年も彼方の世界の生き物が何を考えているかなど、そうそうわかるものではないからだ。

 だが加藤冴子(24)は知っていた。ザ・人畜無害とハンコを押したくなるようなペンギンカップの仕草の裏に、血も凍るような悪意が隠れていることを。この真実を知るのは、地球上で彼女ひとりだ。(騙されちゃいけない!)冴子はぎゅっと目をつぶり、銃を構えるように左手で右手首を掴み、両腕を伸ばした。人差し指が動くマグカップに向けられている。(私はマシーン。心を持たないマシーンなの!)彼女はそう自分に言い聞かせると、決死の叫びをあげた。「ファイヤー!」指先から真っ赤な火の玉が飛ぶ。念力を熱エネルギーに変えるサイコブラスターだ。バン!と空気が爆ぜる音が響き、机の上が一瞬で火の海になった。冴子は吹きつけてくる熱気に顔をしかめながら、オレンジの炎に包まれたパソコン周りを見た。マグカップがバチンと砕け散る。だがそれはオリジナルだ。複製は姿を消していた。「クッ、逃した」彼女は油断なく身構えながら、あたりに素早く目を走らせる。「まだ近くにいるはずよ」すると隣の机に飾ってあったク○キーモンスターが大きな目玉をキョロっと動かしてこちらを向いた。「そこね!」指先がぴたりと照準を合わせる。チュイーンと音を立てて、右腕に念力がチャージされてゆく。毛むくじゃらのぬいぐるみが脅すように大口を開けた。上顎がメリメリと持ち上がり、しまいに頭部がパカッと上下に割れた。中から現れたのは小さなカエルだ。明るい緑色をしたマペットは、モンスターの頭の上部をバケツの蓋のように持ち上げて、腰をフリフリと振った。呑気な顔をして、三角の口を歌うようにパクパクさせている。「あああ愛くるしすぎるうううっ!」冴子は絶望の叫びと共にブラスターの引き金を引いた。

 もちろん彼女はただの人間ではない。銀河系を二分する勢力が一つ、(かみ)銀河連邦の(ウルトラ)エージェントだ。善なる宇宙人の連合体である上銀河連邦は、極悪宇宙人たちが集う(しも)銀河帝国と数万年にわたって戦い続けてきた。帝国の魔の手が地球に迫っていることを知った銀河連邦は、一人の使者を差し向けた。この善玉の宇宙人が融合先に選んだのが派遣社員の加藤冴子(24)だったわけである。彼女の使命は地球に侵入したエイリアンを徹底的に滅ぼしつくすことだ。だが、そこには冴子が知らない別の思惑もあった。銀河連邦が密かに望んでいるのは、敵の勘違いによってだらだら続いている膠着状態を打ち破り、太陽系を恒星間戦争の最前線の一つに押しやることだった。その流れ次第では地球の一個や二個は潰しても全然OKというのが連邦の本音だ。大国の論理というやつはどこの世界でも一緒である。危うし地球。危うし人類。が、が。

 火の玉は踊るカエルの脇腹を掠め、後ろの机の書類箱を炎で包んだ。小さな黄緑のぬいぐるみは、冴子に向かってサッと敬礼すると、ピョンと跳んで暗がりに逃げた。「ぐぬ…」冴子が唇を噛む。愛くるしいグッズへの情が邪魔をして照準を狂わせるのだ。炎は今や、経理課の島の半分を飲み込んでいた。真っ赤な照り返しを浴びながら苦悩する冴子。「憎いわ。私の中に半分流れている地球人の血が憎い!」と、戦火を逃れていた机の上で、ファンシーなピンクの表紙のノートがパタンと開いた。白い紙面がモコモコと盛り上がって植木鉢が現れ、そこにポンとチューリップの花が咲いた。「やめてええ!」のけぞって絶叫する冴子の両目がカッと光り、二条のビームが発射された。超科学の必殺技がオフィスの窓を横に切り裂き、ガラスが火花を撒き散らしながら次々と砕け散った。

 ここでこぼれ話を一つ。天の川を真っ二つに割って戦われている正邪の闘争にあって、銀河の中心核領域(エリア)では、技術文明を極限まで発達させた列強たちが激しく覇権を争い、ブラックホール兵器が連星系を丸ごと飲み込むといったスペクタクルが日夜繰り広げられていた。一方で渦状枝の外れにある我らが太陽系は、控えめに言って場末の戦場だった。回されてくるのがポンコツな人材ばかりでも文句は言えない。

 時計の針が午前3時を回ったころ、半分黒焦げになったオフィスの中で、顔を煤だらけにした冴子が呆然と佇んでいた。同僚たちの可愛いグッズを片っ端から灰にした挙句、敵はどこかに逃げてしまった。(もうここにはいられないわね…)遠くからファンファンとサイレンの音が近づいてきた。冴子の頭の中で声がする。
--ゴメン冴子、ジャミングの効果が切れたわ。早く逃げないと…
「もう、使っかえないわねえ!」冴子が苛立たしげに言い返した。声の主は彼女に融合した宇宙人だ。普段は冴子の心の奥深くに隠れているが、いざ戦闘が始まると、付近にいる人間の心に入り込んで注意をそらし、セキュリティシステムをハッキングして、小さな宇宙戦争が世間の明るみに出るのを防ぐのだ。そのおかげで冴子はいくら大暴れしてもお縄につくことがないのである。
--そんなこと言わないでよう。私だって一生懸命なのよう…
 宇宙からの使者がシクシク泣き出した。冴子は舌打ちした。宇宙人のくせに弱気でモジモジしていてすぐ泣くので面倒臭いったらありゃしない。ちなみにこの人は(かみ)銀河連邦の直属ではなく、くじら座τ(タウ)星をめぐる惑星からスカウトされた派遣である。太陽系からわずか12光年の近場なので交通費は出ない。宇宙も世知辛い。「ハイハイゴメンゴメン」冴子はため息まじりに謝ると、疲れ切った体を引きずるようにして壁際に行った。無事だったタイムカード時計にカードをガチャンと押しこむ。エイリアンとの闘いは完全なボランティアなので、せめて残業代くらいはきっちりもらわないとキツい。「ここは辻褄合わせといてよね」
--グスングスン…

 加藤冴子(24)は知らなかった。彼女の独り相撲によって、今日もまた地球が救われたことを。
 だが明日は明日の風が吹く。戦え冴子!宇宙の平和のために!
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