50億年の約束
文字数 5,000文字
たぶん、あの中には人がいる。
営業終了後の店舗の前に、ちらほらと段ボールのかたまりができ始めていた。大みそか、夜の8時。繁華街へ抜ける通りはまだ学生やカップルでごった返している。この大みそかの夜に、楽しそうな人々の足音を聞きながら、段ボールで区切られた暗闇に横たわるのはいったいどんな気分だろう。想像はしたくない。でも、考えざるをえない。いわゆる派遣切りにあって、専門学校を出て3年住んだ寮を追い出されたのが先月。ネットカフェにでも入りたかったのだが、手持ちが心もとなく、街をうろうろと歩きまわっていた。ビルの壁にもたれかかり、恐る恐る目を閉じてみる。雑踏のざわざわした音。知らない誰かの話し声。あちこちでスマホの着信音が鳴っている。混沌とした音の重なりの中で、その着信音だけが妙にクリアに聞こえた。遠くのどこかから、人を呼び出す音。
目をあけて、ポケットからスマホを取り出した。電話がかかっているが、非通知だ。たぶん、なにかの勧誘の電話。でも、出てしまう。
「Happy New year ! You've got a...」
まったく聞き覚えのない女の声。しかも英語みたいで、まったく聞き取れない。何を言われているのかさっぱりわからないが、とりあえず「もしもし」と言ってみた。
「……」
予想外の返答だったのか、相手はしばらく黙り込んだ。電話ごしに車のクラクションの音が聞こえる。
「あけましておめでとう!」
「え?」
「新年あけましておめでとう!」
時刻を確認する。まだ8時過ぎだ。
「まだ、あけてませんけど」
「え? なんで?」
「なんでって、まだ8時だし」
「夜の8時? 31日の?」
「ですね」
流暢な日本語だ。日本人? それとも日本語が上手な外国人?
「今しゃべってるのって、日本語だよね。ってことはあなた日本人?」
「そう。日本人」
なんか微妙におかしなやりとりだ。
「またやっちゃった。でもまあいっか、日本でも」
ん? 日本でもいい?
「どっかで会おうよ。日本のおいしいごはんが食べたい」
一瞬、頭がフリーズする。
「オークランドはもう終わっちゃったんだけど、そっちはまだこれからなんだよね? 今すぐ会えば、まだ間に合うから」
オークランドって、たしかニュージーランドだ。ニュージーランドから電話をかけてきて、今すぐ会いたいだって?
「あんまり日本は知らないんだけど、どこにいけばいい?」
なんだか気が遠くなる。違う世界の住人と話しているみたいだ。たぶん、たちの悪いいたずら。もしくは酔っ払いかなにかだろう。わかってはいるけれど、会話を止める気にはならない。雑踏の無数のざわめきの中で、自分に向けられた唯一の声を失いたくはなかった。
「じゃあ、新宿の歌舞伎町でどう? 大みそかにも眠らない日本で一番にぎやかな街だ」
「歌舞伎町だね。オッケー!」
そこで、電話は切れてしまった。思わずため息が出る。大みそかにいくらひとりで寂しいからって、こんなわけのわからないやりとりにさえ、すがりつこうとしてしまったのだ。なんていうか、もう終わってる。
「そっか。こっちは冬なんだ」
顔をあげると、目の前に女の子が立っていた。
「たった4時間の時差なのにね」
Tシャツ姿の日本人の女の子。見たところ若い。
「さ、行こ!」
「え?」
「言ったじゃん。さっき」
「へ?」
「ごはん!」
その子はそう言った。輝くような満面の笑みで。
*
金色に近いストレートのショートカット。背は低くきゃしゃなかんじだが、顔がとても小さくてスラっとした印象を受ける。スタイルもとてもいい。目がつんとつり上がったきついかんじなのだが、赤ん坊みたいなぽよんとしたほっぺたをしていて、全体的に幼く見える。実際に間近に見たことはないが、モデルとかアイドルとかの実物はきっとこんななのだろうと思う。
「うわー、おいしそー。食べていい?」
「あ、どうぞ」
とりあえず、近くのファミレスに入ったのだが、彼女のリクエストで、カツ丼に味噌ラーメンが並んだ。お腹がすいていたのだろうか。なかなか勢いのある食べっぷりだ。この季節に似つかわしくないノースリーブのTシャツにショートパンツ。ほっそりとした白い手足が目にまぶしい。明るい室内でよくみると、相当若い印象だ。下手すると未成年かも知れない。とりあえず、ニュージーランドから来たというのは嘘だろう。家出少女がカモをみつけて、ごはんをおごらせているというあたりが現実的な気がする。あまりにも可愛すぎるのと、カバンや上着すら持っていないのが気にはなったけど、あまり深く考えないことにした。世の中には、知らない方がいいことだってたくさんある。
「はー、おいしかった!」
キレイに完食した彼女が、再びメニューを開くのが見えた。
「デザートも食べたいなー。なんかオススメある?」
頭の中で所持金の残りを計算する。けっこうギリだ。大みそかに無銭飲食で捕まるなんてことはしたくない。それに、結局ここまでお互いの名前や歳も聞かず、会話らしい会話もないままきてしまった。彼女からすれば、自分はただの財布代わりなのだろうが、ここまであからさまだとむなしくなってくる。嘘でもいいから、もう少し夢を見させてほしかった。
「ごめん。もうお金ないから」
なけなしの5千円札を机に置いて、席を立った。こんなもんだ。世の中、こんなもん。
「これ、使えない?」
そういって、彼女はポケットから黒いカードを取り出した。クレジットカードだ。AMERICAN EXPRESSって書いてある。アメックスの黒いカードって、もしかして、あの戦車も買えるっていう?
「ドバイで作ってもらったやつなんだけど、日本でも使えるのかな?」
店員を呼んで聞いてみる。「もちろんです」と彼が言ったので、とりあえず、彼女に抹茶クリームパフェ、自分にはピザを追加した。
*
白状すると、女の子とホテルに入るのなんて初めてだ。それどころか、手すらつないだことがない。でも、どこでどうまちがったのか、モデルみたいにきれいな女の子と、ベッドでとなり合わせに腰かけている。うす暗い部屋の中でふたりきり。ひざの上の彼女の手がやたらを熱を帯びている。
「好きにしていいんだよ」
この子、こんな声出すんだと思った。目の前の彼女からではなく、時空を超えて異次元から響いてきたみたいな声だ。緊張で手がふるえる。好きにしてなんて言われたが、どこからどうすればいいかわからない。情けないことに、この期に及んでもまだ躊躇している自分がいる。そうこうしているうちに、彼女の手が背中に回った。胸元のすぐそばに顔がきて、上目遣いに彼女が言う。
「かなえてあげる。きみの願い」
唇が触れそうな距離でみつめあう。星の光が閉じ込められたみたいな瞳だ。みつめ続けていると、頭のてっぺんからつま先まで、すべてを見通される。そんな気になる。
「違うんだね」
どれくらい、そうしていたのか。彼女の声でふと我に返った。
「きみぐらいの男の子が望むのって、こういうことばかりだと思ってたんだけど」
「えっと、望んでないことはないんだけど」
本心だ。たぶん、人並みにそうした欲求はある。はじめてで緊張してるし、あまりにできすぎたシチュエーションに多少不安にはなっているけど。
「わかるよ。したいことはしたいんだよね。でも、本当は好きな人としたいんだ。好き同士になって、その後もずっとふたりで生きていける人と」
彼女が腕の中から離れた。なくなってしまうと、失われたぬくもりが思った以上に大きかったことに気づく。
「ごめんね。残念だけど、それはわたしにはかなえてあげられない」
どうして謝るんだろう。どうして、謝られるんだろう。
「その代わり、わたしがきみのことを覚えていてあげる」
「覚えてくれる? きみが?」
「うん。この星のすべての人がいなくなった後も、きみのことをずっと覚えていてあげる」
突拍子もないことを言われて、少し驚いた。でも、不思議と自然に受け入れている自分がいた。想像してみる。人類が絶滅し、草木さえ生えなくなった地球上で、ひとり残された彼女がなつかしく自分のことを思い出してくれる。悪くはない。そう思う。
「すべての人がいなくなったら、きみだっていなくなるじゃん」
「だいじょうぶ。あと50億年はあるから」
彼女が小指を差し出した。指切りだ。50億年? なんのことかわからないが、とりあえず、自分も小指を立てる。今は細かいことはどうでもいい。
「約束。わたしはきみのことを忘れない」
「わかった。こっちも今日のことは忘れない」
自分の指と彼女の指が交差した。そこまでは覚えている。たぶん、小指を結びあったまま、自分たちは眠ってしまった。
*
翌朝、目覚めると、案の定、彼女の姿はなかった。まあ、そういうことだ。一宿一飯、まんまとせしめられた。いや、でも待てよ。昨夜のごはんは彼女のおごりだった。フロントに聞いてみたら、宿泊代もすでに支払われているという。けっこういいホテルだから、それなりの額になっただろう。連絡をとろうとスマホの着信履歴を見たが、非通知で折り返しもできない。二度と会えないのかと思うと、たまらない気持ちになった。窓のカーテンを開けても、まだ太陽は出ていない。このまま、ずっと日が昇らないんじゃないかという気がする。
着信音が鳴った。また非通知。
「ごめんね。もういかなきゃいけなかったから」
彼女だった。
「行くってどこへ?」
「わたしはひとつのところにとどまってられないから」
東の空に光が差す。
「もう会えないのかい」
「うん。もう会えない」
夜がしらじらと明けていく。
「最後にひとつだけ教えてあげる」
「なに?」
「きみたちは水たまりの水なの」
「水たまり?」
「日の光が強ければ、水は蒸発するでしょ。影だと、水のまま」
「うん」
「たぶん、きみたちの生きるっていうのは、水が蒸発することなの。それはわたしのせいでもあるんだけど」
相変わらずよくわからないが、そのまま聞き入れた。たぶん残された時間はあまりない。
「きみはいつか蒸発する。命あるものはみんなそう。どこでどう蒸発するかの違いでしかない。でも、きみがいるのはそこじゃない。喜んだり悲しんだりするところにきみがいる」
やっぱり意味がよくわからない。でも、彼女が一生懸命に伝えようとしてくれているのはわかる。
「ありがとう。覚えとくよ」
朝焼けが空を青く染め始めた。別れが近い。
「ねえ。きみはどこから来たの? さしつかえなければ、こっちから訪ねていきたいんだけど」
「うーん、それは無理だと思うなあ」
「そんなに遠いところなの?」
「だってわたしでも8分はかかるもの」
「8分? すぐそこじゃん」
「それがそうでもないのよ」
少しずつ、太陽が昇っていく。新しい一日がついにはじまる。
「大丈夫。さみしくなったら、空を見て。わたしは一日に一回は必ずあなたの真上にくるから」
「真上? なんだかなぞなぞみたいだね」
「そうかもね。元気でね」
電話は切れた。中空に躍り出た太陽の日差しがまぶしい。履歴の非通知の着信を眺める。もう二度とかかってくることはないだろう。でも、大丈夫だと思う。なんだかわからないけれど、少し気持ちが軽い。家も仕事もないのに、なんとかなりそうな気がした。目を閉じて、窓から差す日のぬくもりを感じる。ぽかぽかとした陽気のもとで、自分はのんびりと蒸発する。「また会えるかなあ」とつぶやくと、「それは無理かな」と彼女が答える。
「覚えていてくれたんだね」
「うん。ずっと覚えているよ」
「50億年?」
「うん、それぐらい」
目を開けて、空を見上げた。新しい年が始まる。
営業終了後の店舗の前に、ちらほらと段ボールのかたまりができ始めていた。大みそか、夜の8時。繁華街へ抜ける通りはまだ学生やカップルでごった返している。この大みそかの夜に、楽しそうな人々の足音を聞きながら、段ボールで区切られた暗闇に横たわるのはいったいどんな気分だろう。想像はしたくない。でも、考えざるをえない。いわゆる派遣切りにあって、専門学校を出て3年住んだ寮を追い出されたのが先月。ネットカフェにでも入りたかったのだが、手持ちが心もとなく、街をうろうろと歩きまわっていた。ビルの壁にもたれかかり、恐る恐る目を閉じてみる。雑踏のざわざわした音。知らない誰かの話し声。あちこちでスマホの着信音が鳴っている。混沌とした音の重なりの中で、その着信音だけが妙にクリアに聞こえた。遠くのどこかから、人を呼び出す音。
目をあけて、ポケットからスマホを取り出した。電話がかかっているが、非通知だ。たぶん、なにかの勧誘の電話。でも、出てしまう。
「Happy New year ! You've got a...」
まったく聞き覚えのない女の声。しかも英語みたいで、まったく聞き取れない。何を言われているのかさっぱりわからないが、とりあえず「もしもし」と言ってみた。
「……」
予想外の返答だったのか、相手はしばらく黙り込んだ。電話ごしに車のクラクションの音が聞こえる。
「あけましておめでとう!」
「え?」
「新年あけましておめでとう!」
時刻を確認する。まだ8時過ぎだ。
「まだ、あけてませんけど」
「え? なんで?」
「なんでって、まだ8時だし」
「夜の8時? 31日の?」
「ですね」
流暢な日本語だ。日本人? それとも日本語が上手な外国人?
「今しゃべってるのって、日本語だよね。ってことはあなた日本人?」
「そう。日本人」
なんか微妙におかしなやりとりだ。
「またやっちゃった。でもまあいっか、日本でも」
ん? 日本でもいい?
「どっかで会おうよ。日本のおいしいごはんが食べたい」
一瞬、頭がフリーズする。
「オークランドはもう終わっちゃったんだけど、そっちはまだこれからなんだよね? 今すぐ会えば、まだ間に合うから」
オークランドって、たしかニュージーランドだ。ニュージーランドから電話をかけてきて、今すぐ会いたいだって?
「あんまり日本は知らないんだけど、どこにいけばいい?」
なんだか気が遠くなる。違う世界の住人と話しているみたいだ。たぶん、たちの悪いいたずら。もしくは酔っ払いかなにかだろう。わかってはいるけれど、会話を止める気にはならない。雑踏の無数のざわめきの中で、自分に向けられた唯一の声を失いたくはなかった。
「じゃあ、新宿の歌舞伎町でどう? 大みそかにも眠らない日本で一番にぎやかな街だ」
「歌舞伎町だね。オッケー!」
そこで、電話は切れてしまった。思わずため息が出る。大みそかにいくらひとりで寂しいからって、こんなわけのわからないやりとりにさえ、すがりつこうとしてしまったのだ。なんていうか、もう終わってる。
「そっか。こっちは冬なんだ」
顔をあげると、目の前に女の子が立っていた。
「たった4時間の時差なのにね」
Tシャツ姿の日本人の女の子。見たところ若い。
「さ、行こ!」
「え?」
「言ったじゃん。さっき」
「へ?」
「ごはん!」
その子はそう言った。輝くような満面の笑みで。
*
金色に近いストレートのショートカット。背は低くきゃしゃなかんじだが、顔がとても小さくてスラっとした印象を受ける。スタイルもとてもいい。目がつんとつり上がったきついかんじなのだが、赤ん坊みたいなぽよんとしたほっぺたをしていて、全体的に幼く見える。実際に間近に見たことはないが、モデルとかアイドルとかの実物はきっとこんななのだろうと思う。
「うわー、おいしそー。食べていい?」
「あ、どうぞ」
とりあえず、近くのファミレスに入ったのだが、彼女のリクエストで、カツ丼に味噌ラーメンが並んだ。お腹がすいていたのだろうか。なかなか勢いのある食べっぷりだ。この季節に似つかわしくないノースリーブのTシャツにショートパンツ。ほっそりとした白い手足が目にまぶしい。明るい室内でよくみると、相当若い印象だ。下手すると未成年かも知れない。とりあえず、ニュージーランドから来たというのは嘘だろう。家出少女がカモをみつけて、ごはんをおごらせているというあたりが現実的な気がする。あまりにも可愛すぎるのと、カバンや上着すら持っていないのが気にはなったけど、あまり深く考えないことにした。世の中には、知らない方がいいことだってたくさんある。
「はー、おいしかった!」
キレイに完食した彼女が、再びメニューを開くのが見えた。
「デザートも食べたいなー。なんかオススメある?」
頭の中で所持金の残りを計算する。けっこうギリだ。大みそかに無銭飲食で捕まるなんてことはしたくない。それに、結局ここまでお互いの名前や歳も聞かず、会話らしい会話もないままきてしまった。彼女からすれば、自分はただの財布代わりなのだろうが、ここまであからさまだとむなしくなってくる。嘘でもいいから、もう少し夢を見させてほしかった。
「ごめん。もうお金ないから」
なけなしの5千円札を机に置いて、席を立った。こんなもんだ。世の中、こんなもん。
「これ、使えない?」
そういって、彼女はポケットから黒いカードを取り出した。クレジットカードだ。AMERICAN EXPRESSって書いてある。アメックスの黒いカードって、もしかして、あの戦車も買えるっていう?
「ドバイで作ってもらったやつなんだけど、日本でも使えるのかな?」
店員を呼んで聞いてみる。「もちろんです」と彼が言ったので、とりあえず、彼女に抹茶クリームパフェ、自分にはピザを追加した。
*
白状すると、女の子とホテルに入るのなんて初めてだ。それどころか、手すらつないだことがない。でも、どこでどうまちがったのか、モデルみたいにきれいな女の子と、ベッドでとなり合わせに腰かけている。うす暗い部屋の中でふたりきり。ひざの上の彼女の手がやたらを熱を帯びている。
「好きにしていいんだよ」
この子、こんな声出すんだと思った。目の前の彼女からではなく、時空を超えて異次元から響いてきたみたいな声だ。緊張で手がふるえる。好きにしてなんて言われたが、どこからどうすればいいかわからない。情けないことに、この期に及んでもまだ躊躇している自分がいる。そうこうしているうちに、彼女の手が背中に回った。胸元のすぐそばに顔がきて、上目遣いに彼女が言う。
「かなえてあげる。きみの願い」
唇が触れそうな距離でみつめあう。星の光が閉じ込められたみたいな瞳だ。みつめ続けていると、頭のてっぺんからつま先まで、すべてを見通される。そんな気になる。
「違うんだね」
どれくらい、そうしていたのか。彼女の声でふと我に返った。
「きみぐらいの男の子が望むのって、こういうことばかりだと思ってたんだけど」
「えっと、望んでないことはないんだけど」
本心だ。たぶん、人並みにそうした欲求はある。はじめてで緊張してるし、あまりにできすぎたシチュエーションに多少不安にはなっているけど。
「わかるよ。したいことはしたいんだよね。でも、本当は好きな人としたいんだ。好き同士になって、その後もずっとふたりで生きていける人と」
彼女が腕の中から離れた。なくなってしまうと、失われたぬくもりが思った以上に大きかったことに気づく。
「ごめんね。残念だけど、それはわたしにはかなえてあげられない」
どうして謝るんだろう。どうして、謝られるんだろう。
「その代わり、わたしがきみのことを覚えていてあげる」
「覚えてくれる? きみが?」
「うん。この星のすべての人がいなくなった後も、きみのことをずっと覚えていてあげる」
突拍子もないことを言われて、少し驚いた。でも、不思議と自然に受け入れている自分がいた。想像してみる。人類が絶滅し、草木さえ生えなくなった地球上で、ひとり残された彼女がなつかしく自分のことを思い出してくれる。悪くはない。そう思う。
「すべての人がいなくなったら、きみだっていなくなるじゃん」
「だいじょうぶ。あと50億年はあるから」
彼女が小指を差し出した。指切りだ。50億年? なんのことかわからないが、とりあえず、自分も小指を立てる。今は細かいことはどうでもいい。
「約束。わたしはきみのことを忘れない」
「わかった。こっちも今日のことは忘れない」
自分の指と彼女の指が交差した。そこまでは覚えている。たぶん、小指を結びあったまま、自分たちは眠ってしまった。
*
翌朝、目覚めると、案の定、彼女の姿はなかった。まあ、そういうことだ。一宿一飯、まんまとせしめられた。いや、でも待てよ。昨夜のごはんは彼女のおごりだった。フロントに聞いてみたら、宿泊代もすでに支払われているという。けっこういいホテルだから、それなりの額になっただろう。連絡をとろうとスマホの着信履歴を見たが、非通知で折り返しもできない。二度と会えないのかと思うと、たまらない気持ちになった。窓のカーテンを開けても、まだ太陽は出ていない。このまま、ずっと日が昇らないんじゃないかという気がする。
着信音が鳴った。また非通知。
「ごめんね。もういかなきゃいけなかったから」
彼女だった。
「行くってどこへ?」
「わたしはひとつのところにとどまってられないから」
東の空に光が差す。
「もう会えないのかい」
「うん。もう会えない」
夜がしらじらと明けていく。
「最後にひとつだけ教えてあげる」
「なに?」
「きみたちは水たまりの水なの」
「水たまり?」
「日の光が強ければ、水は蒸発するでしょ。影だと、水のまま」
「うん」
「たぶん、きみたちの生きるっていうのは、水が蒸発することなの。それはわたしのせいでもあるんだけど」
相変わらずよくわからないが、そのまま聞き入れた。たぶん残された時間はあまりない。
「きみはいつか蒸発する。命あるものはみんなそう。どこでどう蒸発するかの違いでしかない。でも、きみがいるのはそこじゃない。喜んだり悲しんだりするところにきみがいる」
やっぱり意味がよくわからない。でも、彼女が一生懸命に伝えようとしてくれているのはわかる。
「ありがとう。覚えとくよ」
朝焼けが空を青く染め始めた。別れが近い。
「ねえ。きみはどこから来たの? さしつかえなければ、こっちから訪ねていきたいんだけど」
「うーん、それは無理だと思うなあ」
「そんなに遠いところなの?」
「だってわたしでも8分はかかるもの」
「8分? すぐそこじゃん」
「それがそうでもないのよ」
少しずつ、太陽が昇っていく。新しい一日がついにはじまる。
「大丈夫。さみしくなったら、空を見て。わたしは一日に一回は必ずあなたの真上にくるから」
「真上? なんだかなぞなぞみたいだね」
「そうかもね。元気でね」
電話は切れた。中空に躍り出た太陽の日差しがまぶしい。履歴の非通知の着信を眺める。もう二度とかかってくることはないだろう。でも、大丈夫だと思う。なんだかわからないけれど、少し気持ちが軽い。家も仕事もないのに、なんとかなりそうな気がした。目を閉じて、窓から差す日のぬくもりを感じる。ぽかぽかとした陽気のもとで、自分はのんびりと蒸発する。「また会えるかなあ」とつぶやくと、「それは無理かな」と彼女が答える。
「覚えていてくれたんだね」
「うん。ずっと覚えているよ」
「50億年?」
「うん、それぐらい」
目を開けて、空を見上げた。新しい年が始まる。