豚しゃぶと僕と女の子

文字数 15,772文字

 春原桜太というクラスメイトがいる。名前も見た目も何から何まで主人公っぽい男だと思っていたが、まさか同じクラスに幼馴染の女の子がいるなんて。更には入学から半年後に転校してきた冬野原雪が、子供の頃春原と結婚の約束をしていたことを知った時は思わず笑ってしまった。
 月曜日の朝、教室に入ると春原桜太と夏田花火と冬野原雪がギャーギャーと言い争っていた。クラスメイトは興味津々で様子を見守っている。
 そんな中、言い争いの原因である春原桜太は2人の間に挟まれうろたえていた。
「おはよう!今日もやってるね」
「おはよう……そうだね」
 登校してきた隣の席の女子はやけに面白そうに春原達を見ているが、僕は今そんなことを気にしている余裕は一切無く、一つの出来事が頭の中を埋め尽くしていた。
 
 先週の土曜日のこと。
 午前中は朝早く起きてバードウオッチングに出かけた。寒さが身に応える季節になってきた。昼はクラスメイトの藤谷村慎之介とマクナドルドを食べ、その後に図書館で課題を済ませ夕方頃帰宅。
「なんかいた?」
「ルリビタキが来てた」
「あら!写真撮れた」
「ばっちり」
 そんな会話を母親と交わしながら夕食を食べ、リビングでだらだらしながらその日見た鳥のことをイツッターで呟いていた。
「お父さん今日結婚式だっけ?」
「そう。もうそろそろ帰ってくるって」
 夕食の片づけを終えた母親は、ビールを飲みながらお気に入りの音楽を聴いている。前に何もしないでただ音楽を聴く感覚がよく分からないと聞いてみたら、「あんたもバードウオッチング好きでしょ」と指摘され確かにそうだなと思い反省したことがあった。人には人の楽しみがある。
「ただいまー」
「おかえり」
「おかえりなさい」
 意気揚々とリビングに入ってきた父親は、手に大きな紙袋を持っていた。これはと高まる期待。
「もしかして!」
 すかさず反応したのが母親で、音楽をこれから紙袋から出てくる物への期待感を煽るような曲に変えたが、父親は溜めることなくサラリと口にした。
「PPS4とPPSVR」
「えー」
「やったぁぁ!」
 前から欲しいと思っていたけど高いので中々手に入らなかったゲームを、結婚式の景品でもらってくる父親を僕は人生で一番尊敬した。神。
「ほれ」
「めっちゃ嬉しい!ってカセットコンロじゃん!」
 紙袋を似て持った瞬間ちょっと違和感を感じたけども、それでも信じていたこの気持ちを返してほしい。サラリと騙した父親を僕は人生で一番軽蔑した。悪魔。
「そんなもん当たったら直ぐ連絡するわ」
「……ぬか喜び辛い」
「愛する息子の顔を見たらつい嘘が」
「今後は控えてほしい……」
 溜息を吐きながら僕は紙袋から渋々カセットコンロを取り出した。
「あれ。それうちにあるやつじゃん」
 母親はよいしょと立ち上がり、台所の下から取り出したカセットコンロは父親が貰ってきた物と全く同じだった。
「同じ物あってもねー」
「メカルリで売る?」
 二束三文だろーと父親と母親はソファーに座りながらわいわいまた飲み始めた。
「つかなんでカセットコンロが景品なの?」
「新郎新婦がキャンプ好きでさ。これで鍋するのが好きなんだよ」
「ふーん」
「持ち運びも便利だし。見た目も中々かっこいい」
「だからこれ買ったのよね」
 そうやって父親と母親はまたわいわいしながら飲み始めた。その時僕はふとあることが思浮かんだ。
「これさ、ご自由にどうぞにしていい?」
「まじか」
「そういうのって食器とか謎の雑貨とかじゃないの?」
 母親が指摘した通り、ご自由にどうぞで振舞われる物は大体食器か謎の雑貨。しかしその常識を覆すカセットコンロ。ご自由にどうぞ界に激震が走る予感。
「ご自由にどうぞとはいえ、新品のカセットコンロが家の前に置かれているの怪しくない?」
 父親は飄々としているが意外と心配性。
 僕はひとまずその言葉を無視して適当な紙に文章を書き、それを二人に見せた。
『結婚式の景品で当たりましたが、我が家に同じものがあるのでご自由にどうぞ』
 父親と母親はゲラゲラと笑いながら、いいんじゃないと許可を出した。
 翌日の日曜日の朝。僕は家の前に小さな箱を置き、その中に例のカセットコンロを入れ、昨晩書いた紙をテープで貼り付けた。
「よし」
 僕は2階の部屋に戻り、窓から様子を見ることにした。一体誰がカセットコンロを持ち帰るのか?それを見届けたい。今までにない興奮が体を走り、なんだか変態的な気持ちになってきて、少しだけ後ろめたさも感じた。そんな興奮をよそに、父親と母親は誰も拾っていかないと割とドライな反応。ご自由にどうぞにするにしてはあまりにも高級品だからだと。でも僕は直ぐに誰かが拾ってリサイクルショップとか、メカルリで転売したりする人がいると反論した。
 結果はいかに?
 カセットコンロを置いたのは早朝だったので、ジョギングや犬の散歩をする人達が多く通ったが、ほとんど誰も気にしておらず、ちらりと視線を向けた人が数人いただけで、立ち止まる人は0人だった。ただでさえ家の前は人通りが少なく、しかも日曜日だったので、出だしとしては最悪のスタートだった。
 案の定人は全然通らなかった。
 家族連れが2~3組通り、毎回子供が反応しているが、お父さんやお母さんは興味が無いようで手を引っ張り直ぐに立ち去ってしまう。やはり新品のカセットコンロは怪しいのか?
 次に若い男性が2~3人通ったが、こちらは全く視線を向けなかった。
 結局午前中は誰も持ち帰らなかった。
「全然駄目だ」
「そりゃそうでしょ」
 昼食中母親に報告すると、ほらみたことかという不敵な笑みを浮かべられた。
「お父さんは?」
「友達の家に遊び行ってる。私もこれから映画見てくるから片付けよろしくねー」
「はーい。行ってらっしゃい」
 母親が出かけた後、僕はのんびりと昼ご飯を食べ、その間に考えた。新品のカセットコンロがご自由にどうぞと書かれた紙と共に置かれている。自分だったらどうするだろう。ちらりと見るかもしれない。なんでカセットコンロなんだ?怪しいぞ。
 でも同じ物がある上にちゃんと理由を書いているのだから、そんなに怪しくないと思う。いやまてよ。もしかしたら何金持ちぶってんだとと思われているのかもしれない。
 普通同じ物が2つあったらメカルリかヤオフクで売り飛ばすだろう。それをご自由にどうぞって。いやだねぇーこの家は。燃やせ燃やせ!
 脳内で暴動が始まったところで僕は箸を置きいた。食器を洗い、外に出てカセットコンロを確認してみたが、まだあった。風で揺れる紙を見て、急に捨て猫を見ているのような気持ちになったので、最悪父親と母親に「この子も飼う!」と駄々をこねくりまわしてみようかと考えながら部屋に戻り、ベッドの上に寝転んだ。
「別に……そんなムキにならなくてもいいか……」
 気が付くとウトウトしていて、気が付いたらおやつの時間直前だった。
「あ、カセットコンロ」
 あくびをしながら起き上がり、窓の外を見た。
 僕は大声を上げそうになるのを我慢する為に両手で口を抑えた。
 外には、カセットコンロを両手に持ち、満面の笑みを浮かべた人がいて、辺りを見回し、とても大切な物であるかのように抱きしめた後、リュックサックに入れてその場を立ち去った。スキップをしながら。
「嘘だろ」
 カセットコンロをお持ち帰りしたのは、僕の隣の席に座る女子、大鷲空子だった。
 
「おーい兎田」
「ひぃっ」
 大鷲の声で意識が現実へと戻ってきた。
「ひぃってなによ」
「い、いや」
「兎田。なにか大きな問題を抱えている顔してるよ?」
「どんな顔だよ。というか分かるのかよ」
 大鷲。お前のことだよ、という言葉が喉から出かかったが飲み込んだ。危ない。
 僕は正直よく分からなかった。ご自由にどうぞした物を持っていたのが同級生でしかも隣の女子。しかも食器や雑貨ではなくカセットコンロ。この事を直接本人に聞いてしまっていいのだろうか。プライバシーというものがあるし、聞き方によってはハラスメント的なことにならないだろうか?
 それに今このタイミングで教室で聞くことだろうか?
『昨日さ、カセットコンロ持っていったでしょ?あれ俺ん家でさー。まさか大鷲が持って行くとは思わなかったよー。ははは』
 これはちょっとあまりにもデリカシーが無い気がした。年頃の女子高生がカセットコンロを嬉しそうに持っていくというのは、かわいいグッズを店で買ったんだよ~という次元ではなく、特殊な何かがある。僕はそう判断した。
 教室ではなく、帰りに聞いてみよう。どうしても気になってしまう。この気持ちわがままかもしれないけど。
「お、大鷲」
「はぁ。兎田だけだよ?クラスで下の名前で呼んでくれないの。苗字で呼ばれるの嫌だっていってるのに」
 嫌とはいいつつも、大鷲はもの凄い機嫌がよく見える。いつもなら結構真顔で名前で呼んでよと注意されるのに。
「今日……。今日の帰りから呼ぶから」
「ん?帰り?どういうこと?」
 首をかしげる大鷲の目を真っ直ぐ見て、僕は心を決めた。
「今日、大事な話があるんだ。一緒に帰ってほしい……」
 そういった瞬間、キャアという真っ黄色な声が上がった。なんだなんだとそちらの方を見ると、冬野原が春原にキスをしていた。
「まじかよ」
 一体何がどうなって皆の前でキスをしてしまうのか。僕はただただ呆然と見ているしかなかった。春原も冬野原も顔が真っ赤。人ってこんなに顔が赤くなるのかというレベル。そして幼馴染の夏野の顔も真っ赤だけど、これは照れというより鬼。完全な鬼だった。
「うわ……痛そう」
 夏野は春原をビンタして教室を出て行ってしまった。夏野と仲が良い女子も一緒に出て行った。冬野原は倒れている春原を介抱している。
 教室の空気はすっかりめちゃくちゃになってしまったが、本来の目的を忘れてはいけない。
「ごめん。さっきの話だけど」
 途中で言葉が切れてしまったのは、大鷲も顔が真っ赤だったから。
 そりゃそそうだよなと僕は同情に似た感情を抱いた。朝っぱからいきなりクラスメイトが教室でキスするんだから。僕もちょっと顔が赤くなっているような気がする。
 でも今は、そんなことよりカセットコンロの方の謎が重要だ。
「今日……帰り平気?」
「よい」
「へ?」
「今日、よい」
 大鷲は小さく頷くと窓の外を見てしまい、それっきりこちらを向かなくなってしまった。
 よい、というのはいいよということなんだろうけど、いちいち確認するのも野暮な気がしたので、僕はおとなしく鞄から教科書を取り出した。

 放課後。チャイムが鳴ると大鷲はあっという間に教室から出て行ってしまった。
 待ってよと声をかける間もなかったので、僕も急いで帰り支度をして後を追った。
「ウサ帰ろうぜ」
「ごめん!今日予定があるんだ!」
 え~と慎之介の声に後ろ髪を引かれつつ教室を出て下駄箱に行くと大鷲がいたので、待ってよと声をかけようとしたが、僕の顔を見るなりダッシュで門の方に走っていってしまった。
「ちょ、ちょっと!」
 思わず後を追いかけようと思ったが、逃げたってことはやっぱり駄目だってことなんだろうか。
 それなら諦めて帰るかと思ったが、少し離れたところで大鷲がこちらを見て手招きしていた。駆け寄るとまた走って逃げてしまった。
「待ってよ!」
「待たない!」
 門を出てからも大鷲は僕がある程度近づくとまた離れるということを繰り返し、気が付いたら学校近くの川の土手にいた。
「大鷲……やっぱり今日よくなかったのか?」
「違う……」
「じゃあなんで」
「別になんでもいいでしょ!こういうことは恥ずかしいし!初めてだし!」
 早くしろ!と大鷲は顔を真っ赤にして叫んだ。
 僕はそれを見て急に申し訳ない気持ちになってしまった。
 大鷲とは入学以来ずっと席が隣だった。初めて隣の席に座った時、むこうからよろしくと気軽に声をかけてくれて嬉しかったし、たまたま好きなバンドと漫画が一緒で、それで意気投合してよく話すようになったし、クラスの女子の中で一番仲が良いと思っている。
 だから気軽に聞けるかななんて思ったけど、それは間違いだったんだ。人は色々なことを胸に秘めている。ちょっと仲良くなったからって、それを簡単に教えてくれだなんてデリカシーが無さすぎる。
「ごめん」
「いいから早くっ!覚悟はできてる!」
 大鷲は腕を組んで、叫んだ。
「……わかった」
 その覚悟、受け取ったよ。
 僕は心を決めた。
「あのっ」
「はいっ」
「昨日」
「……昨日?」
「大鷲さ、カセットコンロ持っていったでしょ?」
「……うん?」
「あれ置いてたの……俺ん家でさ」
「……」
「昼寝してて目が覚めたら大鷲がカセットコンロを抱きしめててさ」
「……」
「それでそのまま持って帰るからびっくりしてさー」
「……」
「なんでカセットコンロをあんなに嬉しそうに持って帰ったのかなーってちょっと気になっちゃって」
 いやーやっと言えた、なんてスッキリした気持ちで大鷲の方を見ると、顔がまた真っ赤に染まっていたが、それは見覚えのある感じだった。
 鬼のやつだ。
「兎田の変態!」
「うがぁっ!」
「ばーかばーか!最低!成金!」
「ちがっ……待っ」
 大鷲は叫びながら走って帰ってしまった。僕は春原と同じようにビンタされ、土手の道に座り込んだまま、その背中を見ていた。
「大鷲……怒ってたな」
 土手の斜面に寝転がりぼーっとしいてたら、気が付けば陽が沈みすっかり夜になっていた。
「……帰るか」
 僕はこれまでに無い程、暗い気持ちになった。あんなに怒らせてしまった。最低だ。
「……ただいま」
「遅かったわね。駆……あんた顔色悪いわよ?」
「うん今日はもう寝る……」
 家に帰り、僕はそのまま部屋に戻りベッドに入った。頭がぼーっとして何も考えられない。
「明日ちゃんと謝ろう」
 暗い部屋の中、自分の溜息がやけに大きく聞こえた。

 翌朝、目が覚めると昨日以上に頭がぼーっとしていて、何より体中が痛かった。
「駆?起きてる?」
「起きてる。風邪ひいた」
 部屋に入ってきた母親に体温計を渡されたので、測ってみると38度5分あった。完全に風邪だ。
「あらら。学校には連絡しておくから寝てなさい」
「うん」
「おかゆと薬はすぐ持ってくから」
「うん」
 母親が出て行った後、僕は布団に入った。また直ぐに寝てしまいそうだったので、スマホを手にとりLNIEを開き、大鷲にごめんと一言送ったところで、意識が途絶えた。
 結局僕は火、水曜日と風邪で休んでしまった。
 木曜日の朝。いつもより早く目が覚めた。
「うん。完全に治った」
 頭はかなりスッキリしていて、人生で一番な気がする。だからこそ気分はあまりスッキリしていなかった。
 スマホを見てみると、慎之介から心配するLNIEと、大鷲からも連絡が来ていた。急いで開いてみると、火曜の朝に僕から送ったごめんというメッセージの後に直ぐ返信がきていて、それは鬼のように怒った謎のキャラのスタンプだった。
「やっぱり怒ってるよな……」
 制服に着替え学校へ行く準備をして、溜息を吐きながら下に降りた。
「駆。プリントとノート持って来てくれた女の子名前なんていうの?」
 朝食を食べていると母親に聞かれ、一瞬大鷲の顔が過ったが、あんなに怒らせた直後でそんなことしてくれるわけない。だとすると委員長だろうか。
「え?いや俺……寝てたから分からないけど、多分委員長じゃないかな?どんな感じの人だった?」
「ショートカットだったわよ。パッとみ分からなかったけど、あの子ちょっとかりあげというかツーブロックっぽくなってて可愛かったなぁ」
「あ、じゃあ俺もその子だわ。確かに可愛かった」
「え、お父さん仕事じゃなかったの?」
「昨日は代休で朝から家にいたぞ。で、その子は彼女か?」
「違うよ。なんでそうなるんだよ。というか名前聞かないと誰だか分からないよ」
 僕はそっけなく答えたが、ショートカットでちょっとツーブロックっぽい髪型といったら大鷲以外の何者でもなかった。多分。きっと。他のクラスメイトが突然同じ髪型にしない限り。
「これプリントとノートのコピーです!兎田君にお大事にとお伝え下さい!それでは!って感じであっという間に帰っちゃったのよ」
「俺ん時は幽霊でも見たかのような顔して口ぱくぱくしてたな」
 母親と父親はそれにしても可愛かったねぇとわいわい話している。僕は色々な感情がもやもやと渦巻いてたが、最終的に非常に申し訳ない気持ちで胸が一杯になった。
 気が重いけど、そろそろ学校へ行かなくては。
「じゃあ……行ってきます」
「駆。コピーあんたの机の上に置いといたの気が付いた?」
「いや、気付いていない」
 僕は急いで部屋に戻り机の上を見た。そこには学校のプリントとコピーされたノートが何枚か置かれていた。
「あいつ……優しいな」
 僕だったら嫌なことされた相手にノートのコピーを持っていかないぞという考えが自然に浮かび、また少し気分が沈んだ。
 手に取ったノートのコピーをなんとなくめくってみたら、一番最後に『私は怒っているからね』と書かれていた。
 家を出ないと遅刻する時間だったので、僕は大慌てで下に降りコピーを鞄に入れて家を出た。
「ちゃんとお礼を言うのよー」
 母親の言葉は聞こえないふりをした。

 ぎりぎり間に合った僕は、教室の扉の前で一度深呼吸をした。休んだ後の登校ってなんでこんなにも気まずい感じがするのか。絶対誰も気にしていないのに。
「お、おはよう」
 教室に入ると、また空気がざわついていた。僕に気が付いた何人かがおはよう大丈夫と挨拶してくれたが、また直ぐにわいわいと話し始めていた。
 一体何があったのかと少し気になったが、それよりも今は大鷲に謝ることが大事。席の方を見ると、大鷲は肘をついて窓の外を見ていた。
「お、おはよう」
 僕の声を聞いた瞬間、大鷲は凄い勢いでこちらを向いたが、また直ぐに窓の外を向いてしまった。
「こ、この間はごめん。それとノートありがとう」
「私は怒っています」
「ご、ごめん。あ、お父さんとお母さんが大鷲のこと可愛い子だねって言ってたよ」
「わ、私は怒っています。話かけないでください」
 それっきり、大鷲はずっと窓の外を向いたままだった。
 やっぱり相当怒っている。
 このままずっと立っていても仕方がないので、僕は席に座り、鞄から教科書を取り出してると慎之介がやってきた。
「ウサ!心配したぜぇ!もう大丈夫なん?」
「うん。ばっちり」
「おまえがいない間さ凄かったんだぜぇ」
 慎之介はご丁寧に僕がいない間に起きたことを簡単に話してくれた。
 夏野が春原にキスをしたこと。
 冬野原が実はどこかの国の王女様だということ。
「慎之介ラリってんの?」
「ちげぇよ!皆が目の当たりにした事実だよ!」
「めちゃくちゃな話だな……」
「みんなその話題で持ち切りだよ。なぁ空子」
 慎之介が話しかけたタイミングで先生が教室に入ってきた。
 放課後。僕はもう一度謝ろうとしたが、大鷲は急いで教室から出て行ってしまった。さすがにまた追いかけるのは火に油な気がしたので、おとなしく慎之介と帰ることにした。
 金曜日。僕はこれならきっと大鷲も無視しないでくれるだろう秘策を練って登校した。
 それは僕達がよく話すきっかけとなったバンドのCDが昨日発売日だったこと。帰りに慎之介とCD屋によってそのバンドのCDを買った時、店員さんが特典でついてくるステッカーを2枚くれた。大鷲はサブスク派だったので、これは謝罪を受け入れてくれるきっかけになるのではと思い僕は小躍りした。
 決して物で釣るのではない。誠意の一片。
「お、おはよう」
「……」
 大鷲は少しだけこっちを向いた後、また直ぐに窓の外を向いてしまった。
 これは予想通り。無視されるだろうと思っていた。悲しいけど。
「そ……空子……さん」
「……いくじなし」
「くっ……」
 大鷲の一言に心が折れそうになるが、悪いの自分だ。ちゃんと謝って許してもらうんだ。
「こ、これさ。昨日CD買った時に2枚もらったから1枚上げるよ」
 僕は昨日もらったステッカーを大鷲の机に置いた。
「新しいアルバム最高だったよな」
 そして感想を述べた。これは事実なので、大鷲も賛同してくれるはず。本当に最高だったから。
 大鷲は僕の言葉を聞いて振り返った。瞳を輝かせ口を開こうとした瞬間、何かを思い出したかのように、また表情を曇らせた。
「これはありがたく頂戴いたします。私は怒っています」
 機械的な対応の大鷲はまたそっぽを向いてしまった。
 一体どうすればいいんだ。
 結局大鷲と仲直りすることなく、学校が終わってしまった。
 
 意気消沈で帰宅した金曜日の夕方。まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。土足でプライバシーを踏みにじった僕が悪い。この現代社会において、クラスメイトでも距離感を間違えればハラスメントなのだ。
「随分と暗いわね」
「ほーん。さてはあの娘のことか」
 夕食中、両親に見事に指摘されてしまった。
「……違うよ」
 否定はしたものの、どうしても暗い気持ちになってしまう。
「駆。おばあちゃんに連絡した?」
「おばあちゃん?」
「土日は私とお父さん温泉旅行に行ってくるから、おばあちゃん家に泊まったらって」
「あれ今週だっけ?」
「そうよ。おばあちゃんに連絡してあげな」
 夕食後おばあちゃんに電話すると、僕の大好きな豚しゃぶの為に良い豚肉を用意したから楽しみにしてなと言ってくれて、それがとても嬉しかった。
 大鷲も怒っているのに、俺の為にノートコピーしてくれて、それもとても嬉しかった。
 僕は人生において、人を喜ばせているのだろうか。
 そもそも人間とはと、布団の中で考えていたことが段々と壮大になり宇宙へと飛び出したところで眠気がやってきた。
 明日は早起きして鳥を見に行こう。

 土曜日の朝。5時に起きて鳥を見に行く予定だったが、気が付けばもう10時前だった。2時位に目が覚めただらだらとイツッターを見ていたら4時前になっていて、慌てて寝たらこのざま。既に両親も温泉へと旅立っていた。LNIEの未読が1になっていたので、大鷲かと期待したが慎之介からで、日曜日遊びに行こうという誘いだった。それにOKと返信し、ベッドから出て出かける準備をした。
「あ、もしもしおばあちゃん。うん。今から家出るわ。うん。昼食べる。その前に鳥見たいから。うん。じゃあまた。はいー」
 おばあちゃんに電話をして、僕は家を出た。
 おばあちゃんの家は駅の北口側に広がる丘陵地帯の一番高い所の麓にあって、僕の家は南口側の住宅地にある。大鷲がそこにいたということは、結構近くに住んでいるのだろうか。そういえばどこに住んでいるか聞いたことはなかったが、とてもじゃないが今聞ける質問ではなかった。
 駅に向かって歩いている途中、おばあちゃんから電話があり駅前のスーパーでポン酢とオレンジジュースを買ってきてくれと頼まれたので寄ろうとしたら、大鷲が満面の笑みを浮かべそのスーパーに入っていったので、思わず隠れてしまった。
「なんか……嬉しそうだな」
 どうしてそんなに嬉しそうなのか。
 カセットコンロといい、スーパーといい、一体何がどうなっているのかとても気になってしまうが、これが原因で大鷲を怒らせてしまっているのだから、あまり余計な事を考えないようにしよう。
 数分後、大鷲はスーパーから出てきて駅の方に向かっていった。小さめのアウトドア用のリュックを背負っていたので、これからどこか登山へ行くのだろうか。
「って何をこんなに気にしているのか!」
 とりあえず今は大鷲のことは忘れて、早くおばあちゃん家へ行き、鳥を見る。そして心を静めよう。
 僕はスーパーで買い物を済ませおばあちゃん家に向かった。
「おばーちゃん。来たよー」
「おー駆。いらっしゃい」
 家に入り台所に行くとおばあちゃんは野菜を切っていた。
「駆。これから鳥見に行くのか?」
「うん」
「お昼もしゃぶしゃぶでいい?作るの面倒だわ」
「いいよ。むしろ最高」
「じゃ昼はロースとももで、夜は肩ロースとうで肉な」
 僕は思わずよっしゃと声を上げた。
 おばあちゃんの親戚が北海道で牧場を経営していて、そこで飼育されている豚肉を送ってくれる。それが最高に美味しくて、今まで食べた食べ物中で一番美味しい。
 それが昼も夜も食べれるなんて。沈んでいた気持ちが浮き上がってきた。
「何時頃戻ってくる?」
「今11時前だっけ。午後も行くと思うから、12時過ぎには戻ってくるよ」
「12時ね?分かった。後イノシシに気をつけな」
「え、まじで。猿と狸はたまに見るけど、イノシシも出るようになったの?」
「見てはいないけど、この間山の上からガサガサって凄い速さで何かが下りてくる音が聞こえてね」
「いてもおかしくないもんね……」
 とにかく気をつけなというおばあちゃんの声を背に、僕は家を出て登山道を登り始めた。
 丘陵なので20分もあれば山頂に着いてしまう。その間にバードウオッチングを楽しむのが今の所人生最大の喜びだけど、今日は大鷲にどうやって許してもらおうかと考える為に来たようなものだった。
 ここの道はかなりの穴場で、ほとんど誰も通らないので考え事にはうってつけだし、頂上は少し開けていて街が一望できる。そこでぼーっと考え事するのも良い気分転換になる。
「どうしようか」
 考え事をしていたらあっという間に山頂近くに来ていた。
「とにかくもう一度謝ろう!」
 それしかねえと、少年漫画風な感じで僕は叫びながら最後の道を登り切り山頂へ出た。
 そこには広がる街並みと、小さいアウトドア用のテーブルと、その上に置いてあるカセットコンロと、その前に座る大鷲空子がいた。

 時が止まった。
 僕と大鷲はしばらく見つめ合ったままだったが、それは決していい雰囲気とかそういう類のものではなく、予想外の出来事による応答なしだった。
 この後どうしようと、頭の中で色々なことが渦巻いている中、大鷲の顔が見る見る内に赤く染まり、月曜日に見た以上に鬼の顔をしていた。
 まずい。このままだと信じられない位怒られる。どうする?どうすればいい?どうすればこの誤解を解ける?何か無いか?何か。
 僕は気が付いた。
 カセットコンロの上に置かれている小さな鍋に入っている昆布が浮かんでいるお湯と、
その周りには豚肉が入ったパック、タッパーに入った野菜。
 そして、お湯に浮かぶ一片の豚肉。きっと肩ロースだ。
 これだ。これしかない。
「お、大鷲!豚肉!硬くなるぞ!」
 僕は叫んだ。頼む。伝わってくれ。 
「あ!」
 大鷲は目にも止まらぬスピードで豚肉を箸でつかみ鍋から取り出して、手に持っていた器の中のポン酢につけて、それを口に入れた。美味しそうに、そしてゆっくりと豚肉を噛みしめていた。
 恍惚とした表情って、きっとこういうことをいんだろうなと、僕は大鷲の顔を見て思った。
 こいつも俺と同じ、豚しゃぶ大好き野郎だったんだ。
 などと1人で納得している場合ではなかった。
 豚肉を食べ終えた大鷲の表情が一瞬で恍惚から激怒に変わった。
「う、兎田ぁ!なんであんたがここにいるのよ?!」
「待てっ!落ち着け!理由がちゃーんとあるから!」
「なんなの?!ストーカーなの?!私を愛してるの?!」
「ストーカーじゃない!違う!おばあちゃん!」
「はぁ?おばあちゃん?!」
「ここの麓に家があっただろ?あれおばあちゃんの家!」
「え?あれ廃墟じゃないの?」
「廃墟じゃねぇよ!」
 鬼の様な顔をしていた大鷲の表情がようやくいつもの感じに戻ってきたが、それでもまだ疑いの眼差しを向けていたので、僕は両親が明日まで温泉旅行に行っていること、それでおばあちゃんの家に泊まりに来たことを説明した。
「本当にぃ?適当言ってるだけじゃないの?」
「だから違うってば」
 否定はしたものの、大鷲の立場に立ってみたら、確かにこうも偶然が重なれば疑いたくなるもの。
 ここは事実を見せてやればちゃんと疑いも晴れ、そして最終的に謝罪もできる。完璧だ。
「じゃあさ、これからおばあちゃん家で一緒に昼めし食べようよ」
「え」
「俺もさ、豚しゃぶ大好きなんだ」
「……」
「おばあちゃんの親戚でさ、北海道の牧場で豚を飼育している人がいて、そこの豚肉がめっちゃくちゃ美味くてさ」
「北海道……豚肉……」
「ここまで準備しているからあれだけど」
「行く。お邪魔させてください」
「大鷲が持ってきた肉とか野菜も一緒に食べればいいよ」
「そうさせて頂きます……」
「出汁は……どうする?」
 少量の水だったらその辺に撒いてしまえばいいけど、さすがに鍋に入った出汁を捨てるのはいくら人がいなくても駄目だ。
「これに入れるから」
 大鷲はリュックからステンレス製のボトルを取り出した。
 大鷲は出汁をボトルに入れ替え、小鍋をキッチンペーパーで拭いて、袋に入れてしまい、カセットコンロも箱にしまった。器に入っていたポン酢もキッチンペーパーで吸い取りプッジロックに入れていた。
 片付ける動作に一切の無駄が無く、気が付けばあっという間に全てリュックサックに収まっていた。
 この動き、一朝一夕でどうにかなるものじゃない。
「本当に大好きなんだな」
「……ごめんね」
「え?!い、いや俺の方こそごめん」
「……訳わからないでしょ」
 大鷲は悲しそうに呟いた後、腰を下ろした。
 僕もその隣に座り、大鷲の言葉を待った。
「そしてたいした話でもないの」
「……」
「話してもいい?」
「うん」
「お父さんとお母さんね、私が高校入学前に離婚してるの」
「……うん」
「お母さんは完璧主義なんだけど、お父さんは結構適当な人でね、家のこととかなんもやらなくて」
「うん」
「お互い仕事しているのにバランスが悪いってお母さんいつもいってた」
「うん」
「たまにお父さん家事するんだけど、食器をしまう場所が悪いとか、洗濯物の畳み方が悪いとか、最終的にいつもお母さんに怒られて」
「あー家もそうだわ……」
「でね、お父さんはそれで言い返したりせずごめんねっていつも申し訳なさそうにしてたんだけど……」
「うん」
「それが嫌になっちゃったのか、浮気しちゃったんだよね」
 お父さん駄目じゃんと、心の中で思ったが口にはしなかった。
「今お父さん最低って思ったでしょ?」
「うん」
「ふふ。素直だね」
 でもねと、大鷲は続けた。
「確かに家事もしないし浮気はするけど、お父さん優しかったし、面白かったし、私は好きだったんんだよ?」
「うん」
「お母さんが仕事で遅い時はお父さんが料理を作ってくれていたんだけど、何だと思う
?」
「まさか……」
「そう。そのまさか。豚しゃぶだったの」
 大鷲はあははと笑った。その横顔を見て、今まで感じたことのない気持ちが生まれた。
「野菜もお肉も美味しく食べれる最高の料理だって。お母さんいない時は必ず豚しゃぶ」
「いない時って、食べ過ぎて逆に嫌いになりそう……」
「正直またかよって思っていた時期もあったよ」
「うんうん」
「でもね、高校に入ってからはお父さんいないから、お母さんが仕事で遅くなる時は
大体コンビニかスーパーの総菜」
「うん」
「そうなると豚しゃぶが恋しくなっちゃって」
「うん」
「それに豚しゃぶは自分でも簡単に出来るし、高校に入ってからバイトも始めたし、300グラム500円位の豚肉ならなんとかなるでしょ?」
「うん」
「だからお母さんいない時に豚しゃぶを食べてたの。その時に丁度帰ってきたんだけど」
「うん」
「お母さん超怒ってさ」
「えぇ。なんで」
「お母さんお父さんの好きだった物全て超嫌いになったんだよ」
「あー……そういうものなのか」
「駄目みたい。で、私びっくりして泣いちゃって」
「そんなに怒られたの」
「やばいよ。怖かったもん」
「それでか」
「で、その後お母さんが帰ってくる前に一度だけ豚しゃぶしたことがあったの」
「チャレンジャーだな」
「爪が甘かった」
「ばれたの?」
「食べた後片付けして完璧と思ったんだけど、キッチンの排水溝のネットに豚肉の灰汁が溜まっていたのと、豚肉が入っていたトレイでね」
「えーそこまでする」
「お母さんを甘く見てた」
「にしても」
「それでまた超怒られて、今度は誓わされたのよ」
「まさか」
「豚しゃぶを二度と食べませんって」
「お母さん……ノイローゼなんじゃ」
「うん。今は凄い不安定なんだと思う。だから私誓ったのよ」
「うん」
「豚しゃぶを二度食べませんかっこただし家の中ではかっことじって」
「はは」
「さすがに一生食べれないの嫌だし」
「そうだね」
「だから、ね」
 大鷲は立ち上がり、横に置いていたアウトドア用のリュックに視線を向けた。
「バイト代で一式揃えて、念には念にをおして誰にも見つからない場所を探し当て、たまに1人で豚しゃぶを食べている女子高生。それが私」
「かっこいい」
「バカ。でも……変な奴って思ったでしょ」
「そんなことないよ」
 僕は立ち上がり大鷲の横に立った。
「好きな物を好きな場所で自分のお金で食う。最高じゃん」
「……ありがとう」
「これ、豚しゃぶの話だよな」
「そうだね」
 僕と大鷲は腹を抱えて笑った。
「結局カセットコンロは……」 
 ひとしきり笑った後、僕は最も気になっていることを聞いた。すると大鷲の表情がみるみる内に曇っていった。
「こないだねここで食べて片付けしている時にね、コンロを蹴飛ばしてそっちの斜面に落としちゃったの。最悪だよね。環境破壊だよねでも……拾うに拾えなくて」
 大鷲は最後の方はだんだんと声が小さくなり、顔が真っ青になった。
 僕は、その言葉で点と点が線で結ばれて、イノシシの絵が脳内に完成した。
「そうか。イノシシの正体は大鷲だったか」

「ごめんなざぁい」
「な、泣くなって」
 大鷲と僕はおばあちゃん家に向かって道を下っていた。大鷲はボロボロ涙をこぼし泣いていた。
 山頂にて全ての謎が解け、大鷲にここに来る前のことを説明した。そうしたら大鷲はおいおいと泣き始めてしまい、僕はただただうろたえるしかなかった。
「つ、着いたぞ」
「廃墟って言ってごめんなざぁい」
「お、おばあちゃーん!ただいまー!」
「おーおかえ……えっ?!駆っ!この女の子泣いてえっ?!どういうこと?!」
「色々事情がありまして……」
「説明しなっ!」
「はい」
 その後皆で居間へ行き、僕はおばあちゃんに説明した。
「というわけなんだけど……」
「そうかいそうかい」
「おばあちゃんごめんなさいぃぃ」
 大鷲はおばあちゃんに向かって土下座した。
「なーにしてんの。おばあちゃんぜーんぜん大丈夫だから。ね?豚肉食べよう」
「うぅ」
「ほら空子ちゃん。豚肉食べよう?駆っ!空子ちゃんの器と箸持ってきな!」
「当たりが強い!」
 大鷲が落ち着いたところで、ようやく食べることとなった。
「ほら空子ちゃん。このうで肉美味しいから」
「あ、うで肉出したんだ」
「3人いるんだから全部出したわよ。ほらお食べ」
「……美味しそう」
 大鷲は、皿に盛られた豚肉を見て、目を輝かせた。
 そして、それを出汁にくぐらせ、ポン酢につけて食べた。
「めっっっっっちゃ美味いぃぃ!」
 大鷲は再び泣き始めた。
「そうかいそうかい。そんなに美味しいかい」
「これ凄い美味しいです!おばあちゃん!」
「あーよかったよかった。ほらもっとお食べ。駆の分も食べていいから」
「ちょっと!残しておいてよ!」
 とはいったものの、本当に美味しそうに食べている大鷲を見ていたら、全部豚肉を上げていいかなという気持ちになった。母親から豚しゃぶを食べることを禁止されているというちょっと特殊な状況もあるし、こういう時位自由に食べてほしい。
「兎田は食べないの?」
「食べるよ。いただきまーす」
 それから3人で豚しゃぶを食べ、その後縁側でお茶を飲んだ。
「あ、ジョウビタキの雄」
「え?何?あの鳥?」
「そう」
「兎田鳥が好きなの?」
「……そうだけど」
「へぇ。いいね」
「いい?」
「うん。いい。兎田らしい」
「なんだそれ」
 そうやって夕方まで大鷲とダラダラ話し、おばあちゃんは黙ってそれを聞いていた。
嘘みたいに幸せな時間だなって思った。 

「空子ちゃんまた遊びおいで」
「うん。また来ます」
「駆っ!ちゃんと送っていってあげな」
「はいはい」
「それじゃあまた!豚肉ごちそうさまでした」
「またねぇ」
 おばあちゃんは大鷲と一生会えないかのように別れを惜しんだ。
 おばあちゃんの家を後にして歩き出した僕達は、しばらく何も喋らなかった。
 全てが夕日に染まり、大鷲の顔もそれに照らされていて、何かとても特別な物に見えた。
「大鷲……」
「ん?」
「その……ごめんな」
「兎田に怒っていたわけじゃないよ。この状況にちょっとストレスを感じていただけ」
「そうか。ならいいんだけど」
「というか、いい加減下の名前で呼んでよね」
「それをいうなら、大鷲だって俺のこと下の名前で呼べよ」
「いいよ」
「あっさり」
「兎田は?」
「……いいよ」
 じゃあせーのでねと、大鷲は嬉しそうにいった。
「せーの駆」
「空子」
 僕と空子はなぜかおかしくて、恥ずかしくて、笑い合った。
 それからまたしばらく無言で歩いた。駅が段々と近付いてきた。 
「駆」
「うん?」
「ここでいいよ」
「でも」
「いいから」
「わかった。……じゃあまた月曜日に」
「うん。またね!今日はありがとう!」
 手を振る空子は直ぐに曲がり角に消えた。
「さて。帰るか」
「駆」
「え?」
 声がしたので振り返ると、空子の顔が目の前にあり、唇が唇に触れた。
「また、ね」
 空子は走っていった。
 僕はしばらくそこから動けないでいた。
 スマホの振動で我に返り、ポケットから取り出してみると慎之介からのLNIEで、春原達に関する噂のことだった。
 僕は今そんなことを気にしている余裕は一切無く、もう何がなんだか分からないような感情に支配され、叫びながら走る以外のことはできなかった。
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