対価

文字数 4,036文字

 夜の砂漠は賑やかなものだ。老若男女、そこかしこに人がいて、ある人は砂に寝転がり、ある人はカメラを構える。共通していることといえば、皆々、空を多いつくさんばかりの星の海を見上げていることか。
 かくいう俺も冷たくてやや硬い砂に寝そべり空を仰ぎ、来るべきその時を密かに心躍らせ待っていた。
 今宵は数十年に一度の流星群の日なのだ。懸念されていた雨雲は運良く流されて、今ではとてもいい見晴らしである。それにここは砂漠で人工的な明かりなどほとんどない。広大な特等席というわけで、人出が多くなったということだ。
 人が多いのはまあいい。星の撮影に静寂は必要ない。それに砂漠で迷子なんて事態にならないだろう。
 しかし、そいつは広大な砂漠という撮影場所でわざわざ俺の隣に来た。
「写真が好きなのか?」
 そいつは俺の大事なカメラを手にして、過去の作品を漁っていた。
「好き、というか仕事」
 液晶の画面の光に浮かぶそいつの顔は精悍なんだが、茶色っぽい瞳は優しげで無邪気。顔立ちから現地民かとも思ったけど、肌の色が白いような気がする。
「請われればなんでも撮りに行く」
「今回も仕事なのか?」
「いや、俺の趣味」
 そいつは自分から聞いておきながら、あまり興味がないといった感じの返事をする。
 そし、寝そべる俺の胸にカメラを置くと、俺を見下ろして、
「じゃあ、一枚、写真を頼みたい」
そう依頼してきた。
「……俺への依頼料は高いぞ?」
 今夜はオフなのだ。仕事を入れる気なの毛頭ない。
 断る時の常套句を口にすれば、そいつは声を殺して心底おかしそうに笑った。
「いいのか、断って」
「本当のことだ」
 そいつはもっと笑う。
 俺は自分が馬鹿にされているようでムッとした。
「払えないなら黙っててくれ。もうすぐ時間なんだ」
 視界からそいつを外して空を見る。地上を押し潰さんばかりの星の眩さに目を細くする。
「まだ時間はあるだろ。聞いてくれよ。報酬は払うから」
 面倒臭い。
「本当に高額だぞ。こう見えてもいっぱしに有名なんだ」
 嘘ではない。都会ではなく地方で、もっといえば地元界隈で。しかし、それで飯を食っていけるほどには有名だから、嘘ではない。
「払ってやるよ。お前が請うならば、命の重さ分まで払ってやる」
 命の重さとは何を言っているのやら。
 そいつは相変わらず笑っているし。なんならその笑いが、断られてもいいと言っているようで、それはそれでムッとする。
 俺はカメラを手にして起き上がった。
「何を撮ってほしいんだ」
「やる気になったか?」
「いいから、さっさと言え」
 そいつはひとしきり笑い、長く息を吐くと、後ろに手をつき、夜空を見上げた。
 流星群でもご所望なのかと思ったが、そいつは意外なことを言った。
「水の中を見てみたい」
「……あー、写真を送ればいいのか?」
「いや、今見たい」
 オアシスが近くにあるわけでもなく、まして海岸付近でもない。砂漠でどうしろというのだろうか。
 まだ俺のことを馬鹿にしているのかと、そいつを睨みつけようとした。しかし、そいつはもう笑ってはいなかった。真剣な顔で夜空を見つめていた。
「見たことがないんだ。俺は水が苦手だから」
 今度は俺が吹き出した。真面目な顔で何をカミングアウトするのやら。しかし、親近感が湧く。
 そいつは半眼になって俺を見る。肘で俺の脇腹をこづいてもくる。
「悪いって。しかし、どうするかな。ここは砂漠で水がない。オアシスもない」
 そいつは拗ねたのか砂漠に寝転がった。
「たとえあったとしても、俺はお前と同じで泳げないから、水中撮影なんてやったことがないしなあ」
「俺を笑ったわりにはやっぱりお前もかよ。あーあ、見れないのかあ……」
 そいつは悪態をつき、どこか寂し気な表情で溜め息をつき、頭の下で腕を組んだ。
 少し考える。そしてふと思い立ち、リュックの蓋を開けた。暗くてリュックの中は見えずらいが、探し物は固いものだから適当に手を突っ込んで動かしていればすぐに見つかる。
「何をしているんだ?」
 そいつが俺を見て問う。
「失敗するかもしれないけど、」
 目的のものをを掴み引っ張り出す。それを見てそいつは目を丸くした。
「試してみようと思って。水中撮影、もどき」
「はあ?」
 そいつは上体を起こした。そして俺に突き出された水筒を手にして、軽く振る。たぷんったぷんっと鈍い水音がする。予備の水で手をつけていないから、満タンに入っている。
「これで?」
 怪訝そうにするそいつに頷き、
「勝負は一瞬だ。失敗しても怒るなよ」
 初めての試みだからどういう設定にすればいいのか分からない。日頃の経験や、人よりちょっと豊富な想像力を駆使して、カメラの撮影設定をいじっていく。
 設定を整えたら膝を付いて一度ファインダーを覗く。暗い砂漠からレンズを上向かせて夜空へ。数多の星々を画面に納め、ピントと明るさの微調整を行う。――うん、いい感じだ。
 レンズから目を離し、そいつに顔を向ける。そいつは手持ち無沙汰に水筒を派手に振っていた。
「よーし、俺がこうカメラを構えるから、お前はカメラの下から水筒の水を上に向かって、いい感じに撒いてくれ」
「……そのカメラは濡れても大丈夫なものなのか?」
「違う。カメラを濡らすな。カメラから少し離れた場所で水を撒くんだよ」
 そいつは首を傾げながらも俺から少し離れた場所にしゃがんだ。キュッと水筒の開く音が砂漠のしじまに響く。
「いくぞ」
「おう。高く撒いてくれよ」
 ファインダーから目をそらすことはできない。そいつの声だけが頼りだ。
 上手くいくだろうか。想像した通りの画は撮れるだろうか。俺自身も見たことのない水の中を、収めることはできるだろうか。
 胸が少しだけ高鳴った。
「せーのっ!」
 掛け声と一緒に水の塊が夜空に飛び出した。広がらないかと考え、咄嗟にズームにする。ピントを素早く合わせて、シャッターを切る。カメラは何度もシャッター音を鳴らす。
 シャッター音が鳴りやんだ、最後の一瞬、思い立ち水の落下地点に滑り込み、最後の一枚を収めた。
 撮れたか。
 ただのおふざけ。たわむれ。そうであるのに、心臓はバクバクしている。息も上がっている。得も言われない高揚感が押し寄せる。
 火照る顔にぬるくなった水が容赦なく落ちてきた。
「ぶはっ」
 職業病のなせる業で、カメラは瞬時に庇うことはできたが、顔面はずぶ濡れだ。
「撮れたか?」
 そいつは俺の心配よりも写真が心配な様子。さすが依頼主である。
「ちょっと待て」
 俺は体を起こし、左右に頭を振って水気を飛ばすと、カメラのメモリを開く。そいつも横からぐいと顔を突っ込んできて、小さな液晶画面を二人で押し合いへし合いしながら確認することになった。
「…………うーん、やっぱりダメかな」
「ぼやけてるな」
 水の塊と星空、何が何やら分からないもの、ピンボケしてふにゃふにゃになっているもの、連写機能を使った弊害か、どれもこれも似たような失敗作が続く。
 やはり突発的な思いつきではダメか。写真を語るものは、ベストな場所を見つけ出し、じっと機を待つもの。自分からベストショットの状況を作り、撮るなど言語道断ということなのだろうか。
 いつもの癖で写真を流していく。隣の奴の顔をちらりと盗み見て、人知れず肩を落とした。
 ほんの少し、それこそひとつまみの砂くらいの気持ちで、隣の奴に水中の写真を見せたかったと思った。
「お。おい、これ。これって! これが水の中なのか!?
 興奮したそいつが俺の肩を力任せに叩いてくる。その力強いこと。見た目は細い腕であるのに、レスラーに叩かれているようだ。
「叩くな! 肩が外れる!」
「だってさ!」
 文句を言おうともそいつは興奮冷めやらぬ様子で、しきりに液晶画面をつつく。
 顔をしかめ、促されるままに画面を見下ろして——、目をみはった。
 ピンボケとも違う強弱のついた揺らめく暗い画面。その中で揺らぎながらもはっきりと光を誇示する小さな星々。星の光を受けたところは少しだけ暗闇を退け、にじむように白く透け、海面に向かう泡のように見えた。
「すごいな! これが水の中か!」
 そいつは俺からカメラを奪い、画面を見ながらぴょんぴょんとはしゃぎ回る。
 俺はそいつからカメラを取り返す気力もなかった。
「もう少しちゃんと撮りたかったな」
 想像よりも綺麗ではなかった作品に愚痴がこぼれる。
「潜れないのによく言う」
 はしゃぎながらもそいつはよく聞いていた。悪態をつきながら跳ねている。そして、ひときわ高く跳んで、跳び上がって、俺が見上げなければならないほどまで跳んで、
「ありがとう! 楽しかった!」
にいっと笑うと、夜空の星屑のように、さらさらとその姿が砂にさらわれていった。

 気付くと俺はびしょ濡れだった。頭から体、足先まで、見事な濡れネズミとなっていた。雨が降っている。さっきまで晴れていたのに、体を打ち付けるように激しい雨が夜の砂漠を覆っている。
 どこかで雨宿りをと荷物を探るが傍にあったはずのリュックが消えている。盗まれたかと思い、立ち上がろうとして足に力が入らないことに気付く。全身に倦怠感を覚える。
 何も分からず頭を横に緩く振った時、初めて耳が激しい水の流れをとらえた。
 近くだ。すぐ近くだ。顔を上げ、目を凝らす。これは——。
 目の前には何匹もの黒い大蛇が暴れながら進むかのごとき、大きな川が砂漠に流れていた。
 俺はその岸辺にいたのだ。
「おーい! 早くこっちまでこーい!」
 俺がいるところよりも高いところから誰かが呼んでいる。川の流れる音に混じってかすかに人々の騒めき、悲鳴が耳に届く。
 俺も周囲の音に気おされて立ち上がろうとし、わずかに後ろへ傾いだ。落ちると目をぎゅっとつぶった時、背中を何かに押され、俺は前に倒れた。
——おまけだ。
 川から声が聞こえたような気がして振り返る。けれどそこには誰もいなく、
「……カメラ、持ってかれたなあ……」
黒い川が激しく流れているばかりであった。
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