火童 ーひのわらわー
文字数 1,999文字
「嬢ちゃん、あんた一人かい?」
「ん? たぶん」
チッ、けったいなガキだぜ。
男の名は女衒の松、本当の名は、松太郎だとか松之助だとかそんな名前なのであろうが、そんなことはとうに忘れてしまった、悪名高き人買いである。
ここは墨田の土手、夕刻で人目もない。
さらっちまえば、いくらかにはなるか。
でもな。
「親は、どうしたい?」
「父ちゃんは遠くで母ちゃんは、きっと……」
少女はそう言うと、つまらなそうに、つぶやく。
「しんだ、かな」
「そうかい」
なにも、珍しいことじゃない。そして、そのまま飢えて死ぬこともおなじく。
とすれば。
「おじちゃんと、一緒に行くかい?」
廓に放り込んだほうが、まだ
たとえ苦界でも、生きていればこそ、感じる楽しさもある。
「ううん、母ちゃん待ってるから」
「死んだんじゃねぇのかい」
「わからないけど、きっと。だから、ね」
その謎掛けのような少女の言葉に、松は首をひねってその姿を見る。
きっと、十に届くかどうかの童だ。粗末な絣に雪袴のようなへんてこな袴をはいて、足元は素足。そして、きづいた。
「おめぇ、焼け出されたのかい」
短く切りそろえられた髪が、縮れている。
服の所々に、焼け焦げがある。
「わかんない、ただ」
「ただ?」
「空からたくさん、火が降ってきたんだ」
「はぁ、じゃぁちげぇねえ」
実は松も、その火事に出会ったばかりだった。
松は覚えていた、たしかに、盛大に火の粉が舞っていた。
そうか、あれで焼け出されたのか。つくづく運のねぇガキだな。
心でそうつぶやいて、松が哀れにその娘を見つめたその時、娘は奇妙なことを言いだした。
「たくさん降ってきたんだ、ヒューヒューって笛みたいな音がして」
「おと?」
「うん、おじちゃん花火好き?」
「ああ、江戸っ子だからな、嫌いなわけねぇな」
「ちょうど、あんな音だよ」
そう言うと、少女は悲しそうな瞳で空を見つめた。
「お空の天井が、燃えて落ちてきたみたいだった」
なんだ、そりゃ。
うつろな表情で空を見つめる少女に、松は寒気を感じてぶるりと身を震わせる。
「沢山の人が逃げてて、沢山の人が燃えてて、お家が、橋が、色んなものがみんな燃えてて。そんな中で、母ちゃんも燃えてて」
少女は、言いながらゆっくりと松に近づく。
そして、ゆっくりと松の手を、その小さな、しかし、燃えるように熱い手のひらでつかんだ。
そして、真っ赤な瞳でこちらを見つめて、つぶやいた。
「こんなかんじだったよ」
そのときだ。
松の脳裏に、少女の話す光景が一気に浮かび上がった。
空から降り注ぐ、幾筋もの雨のような火炎。
その天の火が地べたを焦がし、そこいらにあるすべて、人も町も、何もかもを巻き込んでなめ尽くし、膨れ上がり、巻き上がって、竜のごとくに天へと帰っていく。
人がたくさんいた、たくさん燃えていた。
声にならない叫びを上げて、声にならない悲鳴を上げて。
そんな真っ赤に燃え上がる人間が、真っ黒に焦がれた人間が、雪崩を打って松に迫る。助けてくれと、救ってくれと、熱い熱いと、口々にもらしながら、にじり寄り、這いずり寄ってくる。そして、燃える手で、焦がれて崩れ落ちる手で、松の裾をつかんで引き倒す。
「うああああ、な、なんでぇ! や、やめ、やめろ!!」
松の悲鳴に、少女がそっと手を離す。
途端に消える、炎の光景。
そしてそこには、母親と仲良く手をつないだ少女がいた。
「母ちゃんきたから、いくね」
「だ、だれだよ、な、なんなんだよ、おめぇは!」
その場に尻餅をついて怯える松。
しかし、少女は松の言葉には答えずに、ただ一言そっとつぶやいた。
「おじさん、まだ、川をこえちゃいけないみたいだね」
「な、なに?」
「あたいは、いくね」
少女はそう言うと、母に手を引かれて川の方へと歩いていく。
「またいつか、ね、バイバイ」
そしてそのまま、みたことのない渡し船に乗り込むと、川の向こうへと消えていった。
「ぐはっ!」
「おお、松、気付いたか!」
目を開けると、そこには見慣れた悪党どもが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「あ、あ、あ、あ」
声が出ない、喉が張り付くようだ。
「無理するねぇ、おめえは煙 にまかれて死にかかってたんだ」
そんな、俺は墨田にひとりで……。
言いかけるも、身体が動かない。
「無理するなって、医者が言うにはよ、ねてりゃ治るそうだが、まだいけねぇや」
てことは、ありゃ、夢か。
そりゃそうだ、ありゃ夢だ。
もしくは。
地獄だ。
あんなもの、人の世に起こることじゃねぇ。
あんな、あんな酷 いこと、人が起こせることじゃねぇ。
そうだ、ありゃ地獄だ、三途で迷っていた俺に観音様が見せた戒めだ。
人の世にあんな光景があっちゃいけねぇ。あっちゃいけねぇよ。
ただ、アレが地獄ってんなら。
俺は、まっとうに生きよう。
松はそう決心して、そのまま静かに眠りについた。
「ん? たぶん」
チッ、けったいなガキだぜ。
男の名は女衒の松、本当の名は、松太郎だとか松之助だとかそんな名前なのであろうが、そんなことはとうに忘れてしまった、悪名高き人買いである。
ここは墨田の土手、夕刻で人目もない。
さらっちまえば、いくらかにはなるか。
でもな。
「親は、どうしたい?」
「父ちゃんは遠くで母ちゃんは、きっと……」
少女はそう言うと、つまらなそうに、つぶやく。
「しんだ、かな」
「そうかい」
なにも、珍しいことじゃない。そして、そのまま飢えて死ぬこともおなじく。
とすれば。
「おじちゃんと、一緒に行くかい?」
廓に放り込んだほうが、まだ
まし
だ。松はそう思う。たとえ苦界でも、生きていればこそ、感じる楽しさもある。
「ううん、母ちゃん待ってるから」
「死んだんじゃねぇのかい」
「わからないけど、きっと。だから、ね」
その謎掛けのような少女の言葉に、松は首をひねってその姿を見る。
きっと、十に届くかどうかの童だ。粗末な絣に雪袴のようなへんてこな袴をはいて、足元は素足。そして、きづいた。
「おめぇ、焼け出されたのかい」
短く切りそろえられた髪が、縮れている。
服の所々に、焼け焦げがある。
「わかんない、ただ」
「ただ?」
「空からたくさん、火が降ってきたんだ」
「はぁ、じゃぁちげぇねえ」
実は松も、その火事に出会ったばかりだった。
松は覚えていた、たしかに、盛大に火の粉が舞っていた。
そうか、あれで焼け出されたのか。つくづく運のねぇガキだな。
心でそうつぶやいて、松が哀れにその娘を見つめたその時、娘は奇妙なことを言いだした。
「たくさん降ってきたんだ、ヒューヒューって笛みたいな音がして」
「おと?」
「うん、おじちゃん花火好き?」
「ああ、江戸っ子だからな、嫌いなわけねぇな」
「ちょうど、あんな音だよ」
そう言うと、少女は悲しそうな瞳で空を見つめた。
「お空の天井が、燃えて落ちてきたみたいだった」
なんだ、そりゃ。
うつろな表情で空を見つめる少女に、松は寒気を感じてぶるりと身を震わせる。
「沢山の人が逃げてて、沢山の人が燃えてて、お家が、橋が、色んなものがみんな燃えてて。そんな中で、母ちゃんも燃えてて」
少女は、言いながらゆっくりと松に近づく。
そして、ゆっくりと松の手を、その小さな、しかし、燃えるように熱い手のひらでつかんだ。
そして、真っ赤な瞳でこちらを見つめて、つぶやいた。
「こんなかんじだったよ」
そのときだ。
松の脳裏に、少女の話す光景が一気に浮かび上がった。
空から降り注ぐ、幾筋もの雨のような火炎。
その天の火が地べたを焦がし、そこいらにあるすべて、人も町も、何もかもを巻き込んでなめ尽くし、膨れ上がり、巻き上がって、竜のごとくに天へと帰っていく。
人がたくさんいた、たくさん燃えていた。
声にならない叫びを上げて、声にならない悲鳴を上げて。
そんな真っ赤に燃え上がる人間が、真っ黒に焦がれた人間が、雪崩を打って松に迫る。助けてくれと、救ってくれと、熱い熱いと、口々にもらしながら、にじり寄り、這いずり寄ってくる。そして、燃える手で、焦がれて崩れ落ちる手で、松の裾をつかんで引き倒す。
「うああああ、な、なんでぇ! や、やめ、やめろ!!」
松の悲鳴に、少女がそっと手を離す。
途端に消える、炎の光景。
そしてそこには、母親と仲良く手をつないだ少女がいた。
「母ちゃんきたから、いくね」
「だ、だれだよ、な、なんなんだよ、おめぇは!」
その場に尻餅をついて怯える松。
しかし、少女は松の言葉には答えずに、ただ一言そっとつぶやいた。
「おじさん、まだ、川をこえちゃいけないみたいだね」
「な、なに?」
「あたいは、いくね」
少女はそう言うと、母に手を引かれて川の方へと歩いていく。
「またいつか、ね、バイバイ」
そしてそのまま、みたことのない渡し船に乗り込むと、川の向こうへと消えていった。
「ぐはっ!」
「おお、松、気付いたか!」
目を開けると、そこには見慣れた悪党どもが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「あ、あ、あ、あ」
声が出ない、喉が張り付くようだ。
「無理するねぇ、おめえは
そんな、俺は墨田にひとりで……。
言いかけるも、身体が動かない。
「無理するなって、医者が言うにはよ、ねてりゃ治るそうだが、まだいけねぇや」
てことは、ありゃ、夢か。
そりゃそうだ、ありゃ夢だ。
もしくは。
地獄だ。
あんなもの、人の世に起こることじゃねぇ。
あんな、あんな
そうだ、ありゃ地獄だ、三途で迷っていた俺に観音様が見せた戒めだ。
人の世にあんな光景があっちゃいけねぇ。あっちゃいけねぇよ。
ただ、アレが地獄ってんなら。
俺は、まっとうに生きよう。
松はそう決心して、そのまま静かに眠りについた。