第1話

文字数 2,717文字

苗字を変えたくないのです。



苗字を変えたくないのですね、と、ぼくは聞いた。

ぼくはボランティアで人の話を聞いてあげている。ボランティアといえば聞こえはいいが、書き物のネタを拾うためというのが本当のところである。

そういう不純な動機のわりには、いや、逆にそんな動機だから、なのか、なんとなくやっている受け答えが意外に的を射ているらしく、口コミの繋がりで結構な相談者が来るようになった。

しかし、わざわざ知らない人間と会ってまでそんな相談をするかな。
とても真剣な顔をして、いかにも身持ちの固そうなOLさんが言うものだから、ぼくも真面目に聞かないわけにもいくまい。

今度結婚をするのですが、婚約者との間で苗字をどうするか、意見が合わないのです。

夫婦別姓というやつですかね。すると、やはりあなたが変えたくないのですか。

まあ、そうなります。なんで男性の苗字にしなければいけないのか、やはり納得がいかないのです。わたしだって、これまでこの名前でキャリアを積んできたわけですし、苗字を変えたらいろいろ支障が出ますよ。

最近は、仕事上は旧姓を使うことも多いと聞きますが?  

だから、それだけじゃないんです。
戸籍も免許もパスポートも実印も。全て、女性側が変えなければいけないというのは、なんだか公平ではないと思いませんか。これまでの人生を否定されたような、そんな悲しい気持ちになります。

でも、たしか今日本では法律で別姓は認められてませんよね?

その通りです。

では、新世帯はあなたの苗字にしたいということですか?

いや、別にはっきり決めているわけではないですが、そうしたい気持ちはあります。

それで婚約者の方はなんと?

当たり前に自分の苗字になると思っています。この前、わたしが苗字の話をしたいと打ち明けたら、目が点になってましたから。

全く議論にならなかったと。

そうです。たぶんどこに問題があるのかすらわかっていないのです。そんな苗字のことなんて気にしないでいいだろうって。なんでいまさらそんなこと気にするんだよって。

はあ、なるほど。それはイマドキなかなかですね。

それで、わたし、カーッとなっちゃって、家を飛び出して来たんです。

ああ、もう一緒に住まわれているんですね。

わたし、あんなこと言われると思っていなかったのでショックで…。

うん、そうですね。そういうことも話し合える相手だと思って結婚を決められたのでしょうから。

そうなんです。結婚そのものにも自信がなくなってきたというか。

ええ、苗字を変えたくないというよりも、この問題を通じてもちゃんと向き合いたいということですよね。おそらく。

そうなんです。それがわかってくれてないっていうか。

うんうん。 

それならばいっそのこと、結婚を機にまったく新しい苗字にできないかって思いまして、家庭裁判所にも聞きに行ってみたんです。

それはなかなか行動力がおありだ。

それで、最初は窓口の方も、とっても親身になって改名の話を聞いてくださったんですけれど、苗字を変えたいという話だとわかったら急に態度がよそよそしくなってしまって。名前じゃなくて、苗字なんですか!?なんて驚かれて。なんだか噛み合わなかったんですけど、結局それは難しいですねって言われて。

まあ、たしかに苗字を変えるってあんまり聞いたことないですもんね。手続きとしてはあるんでしょうが、濫用を防ぐ運用も必要でしょうし。やはり結婚を機に、というのは理由にはならないかもしれませんね。

だから、やっぱり当事者で話し合って決めていくしかないんです。

そうなんでしょうね。そうでなくとも苗字と名前の組み合わせなんていうプリミティブな話もありますから。ジェンダー的な観点じゃなくても苗字が変わると気になることもあるでしょう。
ぼくの友人に、結婚したら寒井夏子さんになってしまった人がいましてねえ。彼女は、厚井とかの方がまだよかったわよ、なんて言ってましたよ。

へえ、そんなことがあるんですね。
幸い、うちはそういう心配はないです。でも、たしかに、フフフ。彼の苗字が寒井さんだったら、ちょっと面白かったかも。

あれ、そうなんですか。フフ。

聞く人次第かもしれませんけどね。寒井タクマカランなんて、えっ?って思いますもんね。

えっ?

フフ、そうですよねえ。寒いタクマカランなんて、変ですよねえ。

いや、そこではなく。

え?

そういえば、苗字だけでお名前の方は、伺ってませんでしたね。

あ、そうでしたね。申し遅れました、わたし、佐藤タクマカランと申します。 

…。

ああ、変わった名前なのは自覚してますよ。ちなみに同姓同名の人に会ったことないです。

いや、それはそうでしょうね。

父が若い頃タクマカラン砂漠を横断したことがあって、その広さと厳しさに世界を感じたとか。

なるほど横断されたのですか。

ふむ。因みに彼氏さんのお名前は?

中村オカバンゴ・デルタです。

サラッと来ましたね。

変わった名前なのは彼も自覚しています。

いやいや、自覚していればいいというものでも、、、ある、のかな。だいたい中ポツは人名には使えないのでは。

中ポツは通称ですね。アントニオ猪木元議員みたいなものだと思ってください。

説明のこなれ具合がすごいですね。

そうでしょうか。彼のお父さんが若い頃オカバンゴ・デルタを横断したことがあって、その雄大さに感動したとか。

そういう場所があるのですね。それで、お二人共お名前の方には、特に問題を感じていないと。

珍しいことは自覚していますが、問題はないです。

いや、あのですね、そうであれば、彼氏さんの言うことはわかりますよ。苗字なんて小さいことを気にすることはない。

いや、でもこの男女平等の時代にですね…。

わかりました、わかりました。
田嶋陽子先生に聞いてみてください。紹介します、紹介しますから。

7日ほどして、明るい声の彼女から電話が来た。

ご紹介頂いた田嶋先生も、最初はいろいろ教えてくださいましたけれど、途中からお地蔵様のようなお顔になって、もうそれは気にしなくてもいいわよと、おっしゃりました。

そうですか。

それで気を取り直して彼ともう一度話しをしてみたら、別に俺は佐藤オカバンゴ・デルタでも、いいんだよって。苗字にこだわる君の意図がわからなくて、なんならちょっと怖くて、ああいったんだっていってくれて…。それで、わたし、うれしくって!

そうですか、うん。そうですね。よかったですね。

それっきり、彼女からの連絡は途絶えた。
悩みは解決したのだ。

豊かな現代日本には、端から見ると、そこではないのに、という形而上学的悩みのための悩みに悩む人がいる。物理的に暗い場所が少なくなった現代社会に住まう怪しいものは、そういう暗がりにいるものなのだろう。
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