強い人

文字数 4,213文字

 車が絶え間なく行き交う道路の側に「Aの園」という小規模な高齢者施設があった。忙しなく働く人々の食欲をそそるように、香ばしい匂いが施設の厨房換気扇から流れ出ている。

「サトウさん、魚焼きあがりました。確認お願いします!」
と言う声にAの園調理長のサトウ氏が反応する。彼女は50代半ばで、声が大きく、少々気の強い一面があった。
「わかった!今行く!」とサトウ氏は声を張り上げた。
すると、そこへ栄養士がやって来た。この栄養士は調理部のトップだ。しかし力関係はサトウ氏の方が上であった。つまり表面上、トップということだ。
「丁度良かった。あんたも魚確認して。」
「あ、はい。」
力なく栄養士は返事をし、魚の仕上がり具合を確認していた。そして、オーケーを出すとそそくさと自分の仕事へ戻る。彼女は冷蔵庫の中をゴソゴソと見ているので、在庫チェックでもしているのだろう。
「何あれ。感じわるっ。」
サトウ氏がそう言うと、続けてイシイという調理員が言った。
「関わりづらい人ですよね~。」
サトウ氏とイシイ氏は栄養士のことで意気投合だ。
 
 この栄養士は、サトウ調理長を始めとする調理部の人達に嫌われていた。なぜなら、気難しくて関わりづらかったからである。または、調理以外の仕事も担当していて、フレンドリーに話す機会が少なく分かり合えなかったことも原因かもしれない。
 厨房の切り盛りは実質、調理長サトウ氏が行っていた。

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 ある日、朝食の後片付け中だった。一人の介護士が調理部伝達用の窓を開けた。この窓は常に開け閉め可能で、いつでも調理部と介護士がコミュニケーションをとれるように設置されている窓である。
 介護士が言う。
「M様の食事がドロドロすぎるので改善できないでしょうか。」
すると、奥の方からサトウ氏がやって来て声を張り上げて答える。
「M様は入れ歯をしたがらないと聞いたけどね。私達はこの食事で良いと思ってるんだよ。あとうちらは人手不足なの、あまり細かい注文はご遠慮頂きたいね!」
すると、介護士は真顔で「わかりました。」とだけ言い、さっさと引き返して行った。
「一番大事なのは働く人が働きやすい職場であること。そうでないと、良い食事なんか出せやしない!こっちが人手不足で大変なの分からないのかねぇ。」
サトウ氏が不満を出していると、タナカという調理員が称賛した。
「サトウさんが説明してくれるとすぐ解決するから仕事がスムーズにいくわ。いつもありがと。」
タナカ氏は60代後半の女性で、調理部の中で一番の年長者だった。タナカ氏に続いて、同じく調理員のイシイ氏も言う。
「本当にそうですよね!私もいつもサトウさんに助けてもらっていますよ。あ、そうだ!昨日親戚の人からカップケーキもらったので持ってきました。休憩時間に食べましょう。サトウさん、洋菓子好きですよね!」
イシイ氏は元気で笑顔の素敵な30代後半の女性である。
「あら、すごく嬉しいわぁ~!楽しみね。」
サトウ氏は嬉しそうに答えた。厨房内には今日も頑張ろうという気合の入った空気が漂っていた。

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 ある日、栄養士から話があった。
「調理部に新しくスズキさんが入ります。皆さんスズキさんに仕事を教えてあげてください。」
Aの園調理部に新しい人が入ったのである。
 スズキ氏は30代前半くらいの女性。現在子育て中だが、夫の収入だけでは生活がギリギリなので仕事をすることにしたらしい。
「前職は製造の仕事をしていました。しっかり仕事を覚えて早く皆さんの役に立てるよう頑張ります。よろしくお願いします。」
スズキ氏は控えめなおとなしい声音で挨拶した。
「サトウさん、スズキさんの教育係よろしくお願いします。」栄養士はそう言うと、彼女はさっさと厨房を出て行った。
(あいつ、本当に気に入らない。厨房内でろくに仕事しないくせに。)
サトウ氏は心に中で栄養士の愚痴を言う。そのあと満面の笑みを作りスズキ氏に向かって挨拶した。
「調理長のサトウです。独り立ちするまで私が教育係だから、よろしくお願いね。」
張り上げた大きな声で、スズキ氏だけでなく周りにいた調理員もその声は充分すぎる程聞こえた。

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 厨房内にずっといると、自分が醤油や油の匂いまみれになっていることに気づきにくい。外に出て初めて気づくことがある。

「カットの大きさはこれでいいわ!でも野菜カットの速さが遅いわね。もっとスピードあげてーーー!」
厨房内外にサトウ氏の語尾が伸びた大声が響き渡っている。換気扇の音がうるさいせいか、それとも教育係に熱を込めて取り組んでいるのか、サトウ氏の声はいつもより一回り大きかった。
 スズキ氏が働き始めてから一か月が経とうとしている。スズキ氏は仕事の流れを覚えてスムーズに動けるようになっていたが、サトウ氏の指導はまだ終わっていなかった。
「流れは大丈夫よ。でも細かいところがまだね!スズキさん、昨日のごみ袋の掛け方雑だったわよ。」と誰にでも聞こえる大声を出している。
(この人、ちゃんとわかっているのかな。一緒に働き始めた時から思っていたけど、声小さいのよね。理解しているのかどうかわからないじゃない。)
サトウ氏はそう思うと、次はもっと声を張り上げて大きな声で強くこう言ってみた。
「スズキさん!声聞こえないわよ!本当にわかったの?」
「はい、わかりました。気を付けます、すみません。」
スズキ氏も彼女自身ができる精一杯の大きな声で答えた。だがサトウ氏には届かなかったようだ。

「あなた子どももいるんでしょ!もっとシャキっとしなさい!今の若い人は本当に…!そんな感じだと育てられないわよ!」
サトウ氏の声は厨房の壁や天井に突き刺さるように響いた。

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 それから三か月が経った頃、異変が起きた。スズキ氏が体調不良を訴えたのである。スズキ氏の左顔から首にかけて蕁麻疹が出て、さらには手の痺れが酷く、出勤したものの仕事ができなくて早退することになった。サトウ氏が休みだったのでタナカ氏が対応し、栄養士に報告した。それから、スズキ氏は体調不良が続き仕事を休むことが多くなった。

 ある日の休憩時間、タナカ氏とイシイ氏が話していると、サトウ氏が入ってきた。サトウ氏が通った後は油の匂いがふわりと舞う。
「お疲れ様です、サトウさん。スズキさん今日も休みですね。」
とイシイ氏が言った。
「そうね~。真面目に働いていたと思っていたのだけど。ここで働くのが嫌になったのかな?まさかねぇ!うちらはいつも通り仕事して教えていただけ。スズキさんが何を考えていたのかは分からないからね~。結局は本人の問題かな。」
ただ教えていただけで本人の問題なのだ。それだけの話。そう思いながら、サトウ氏は有志でおいてある休憩室のお菓子箱の中からビスケットを取り、厨房の油の匂いを身体からぷんぷんさせながら、バリバリと音を立ててビスケットを食べた。

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 ほどなくして、スズキ氏が職場に姿を見せた。それはタナカ氏がちょうど休憩室に入った時だった。
「どうしたの?今日はスズキさん休みでしょう。体調は大丈夫なの?」
「はい、体調は落ち着いてきました。お気遣いありがとうございます。私、休んでばかりなので、今日はお詫びをしに来たんです。」
スズキさんは穏やかな口調で続けて話した。
「これほんの気持ちですが、皆さんで食べてください。体調には気を付けていきます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
「いいのよ、いいのよ、気にしないで。まずは自分の体調を最優先にしてね。」
タナカ氏は優しく気遣った。すると、話し声を耳にしたイシイ氏もやって来て「大丈夫?」と心配そうな顔をしてスズキ氏に歩み寄る。気遣ってくれた二人に対して込み上げてきた思いがあったのだろう、スズキ氏は涙を浮かべながら感謝を伝えた。
 
 タナカ氏とイシイ氏が仕事に戻った後、サトウ氏が入れ替わりで休憩室に入った。スズキ氏はサトウ氏にもお詫びの挨拶を丁寧にした。そしてこう付け加えた。
「サトウさんにはいつもご指導頂きまして感謝しています。でも期待に応えられず、休んでばかりになってしまって申し訳ありません。サトウさんのご指導についていけるよう努力して参ります。」
この時、スズキ氏の声は少し震えていたかもしれない。サトウ氏はいつものように大きな声で言う。
「本当に期待に応えていないわよね。」
こう言ったのはちょっとしたいたずら心だった。楽しい会話をしようといういたずら心。でも人として少しばかりの気遣いはみせなくてはならない。
「まあ、体調回復するまでゆっくり休めばいいじゃない。うち人手不足なんだから、スズキさんの力も必要なのよ。」
サトウ氏はにっと笑ってみせた。
スズキ氏は緊張した顔つきで「お菓子も持ってきたのでほんの気持ちですが」と言った。スズキ氏の声を聞き、サトウ氏はちょっと空気がピリついてしまったと直感で感じたのでスズキ氏の持ってきたお菓子に話題を変えようとお菓子を見る。そのお菓子はどら焼きだった。
「ねぇ、今度は洋菓子持ってきてよ。カップケーキとかさ。私そっちの方が好きなのよ。」
いつもの大きな声で、表情は何も悪気のない笑顔で。

 それから間もなくして退職の意がスズキ氏から栄養士の元に届けられた。

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 休憩時間、調理員専用の休憩室でタナカ氏とイシイ氏が話をしている。食事を取る利用者の傍らで、介護士が片付けをしながらテーブルを消毒しているのだろう。食事と消毒の混ざったような施設独特の匂いが調理員専用の休憩室まで漂っていた。今日はサトウ氏の休みの日だ。
「スズキさんやめてしまいましたね。せっかく私と年近い人来て嬉しかったのに~。絶対サトウさんの口調が強すぎるせいですよ!」
イシイ氏がぷりぷりとした口調で言った。
「イシイさん、今日はサトウさんいないから言うね~。」
タナカ氏はおもしろがるように言う。
「何笑ってるんですかぁ。タナカさんだってそう思っているでしょう。今日はサトウさんいないからタナカさんも羽伸ばしたらどうです?」
とイシイ氏がからかうように言うと、タナカ氏は笑いを堪えきれないといった様子で言う。
「あぁー、可笑しい!笑うしかないでしょ、だってスズキさんで…、」

 Aの園調理部で短期間の間に、退職や長期休暇となった者はスズキ氏で20人目である。
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