第1話

文字数 1,955文字

 車が信号で止まって、ふと顔を上げて窓の外を見ると、オレンジ色の小さな花が目に飛び込んできた。立派な一本の金木犀。思わず窓を開けて、匂いを確かめようとするけれど、そこで信号は変わって、車は発進する。運転席に座る母の無言の背中を、後部座席から恨めしく見つめる。車のラジオからは男性の低く清らかな声が聞こえてくる。
「あなたのお悩みは何ですか」
一瞬私に問いかけられたのだと思い勝手に焦るけれど、すぐにそれが人生相談だと気付く。
「あの、私は今年43歳になりますが…」
躊躇いがちに発せられたその声に自然と耳を傾ける。
「まだ独身で結婚したいなとは思うのですが、中々男性に積極的になれずに、婚活も思うように進まず…」
大人の女性の落ち着いた声の中に、緊張と躊躇と照れが混じり合った少女のような可愛らしさがちらちらと顔を見せて、それが何とも言えない嫌悪感と、同時になぜか魅力的にも思えた。
 相談はまだ続いているけれど、もうどうでもよくなってしまった私は別の事を考えている。母と同世代の女性が、私と似たような悩みを抱えている。年齢による深刻度の問題を手放して考えれば、ほとんど同じ悩みだ。恋愛に消極的な自分は年月が解決してくれるわけではなさそうだ。それがショックでもあれば、なぜか安心もした。自分というものは大人になるにつれて、全て失われるわけではなさそうだ。
 大学四年生の私は最近ようやく就職活動を始めた。みんな大人になっちゃうし、と仕方なく少女の自分に区切りをつけた。いつまでも子供扱いされていたのに、20歳過ぎると途端に大人になることを急かされる。
 何にでもなれると信じて疑わなかった子供の頃、何を成し遂げるのかワクワクしていた。時間は無限にあって、いつまでも夢をみていられると思っていた。けれど、何も成し遂げられないかもしれないと気付くのに、そう時間はかからなかった。それでも生きていけるのだと気付いてしまってからは、自分がほとんど別の人間みたいだと思う。忙しさの中で、辛いのは、大変なのは当たり前だと言い聞かせているうちに、感覚はどんどん鈍くなって、気付けば何を食べても、何を聞いても身体を通過するだけになっていた。いつの間にか周りの大人みたいな人間に、私もなっていく。効率のことばかり気にして、大人のふりして何でも分かったような顔をすることと言葉遊びだけが巧みになっていく。  
 車の前方から壊れかけのラジオのノイズと曇った歌声が聞こえ始める。あれ?と思った次の瞬間、それは私の中に飛び込んできた。華麗にキャッチされたストライクボールみたいいに。キャッチャーが鳴らすあの良い音みたいな、気持ちのいい声。いつもただ通過するだけの音楽が私の中に留まって体内で木霊して、ちゃんと聞こえてくる。
「ヘッドセットで」
いつの間にか、口ずさんでいる。私の右足は無意識にリズムをとる。母は相変わらず正面を向いている。車はまた赤信号で停まった。フロントガラスの上を小さな蝶々が歩くみたいに飛んで横切っていく。その時、母の左手の人差し指がタンタンと一定のリズムを刻んでいるのを私は見た。ハンドルの上、小刻みに走る指先。よく耳を澄ませるとごく微かな声が聞こえる。
「全部真っ白に」
はっとして、瞬時に母の背中を見る。水色のカーデガンに若い頃の母の姿が映る。母は穏やかでいつも軽やかに生きていた。
 私が小学生になる頃、母は保険のセールスレディになった。母が働き始めた頃、父が家に居ることが多くなった。朝も夜も私が起きている時間は会社にいる父だったのに。父は仕事でミスをして、忙しい部署から左遷されたからだと知ったのは私が成人してからだった。母はいつも、私には何も言わなかった。
 若い頃バンドをしていた母はいつも何かしら歌を口ずさんでいた。母の声はマシュマロみたいにふわふわして優しくて大好きだった。いつのまにかその母は歌わなくなっていた。母はもともと少女のような人だった。少女が年月をかけて皺やシミが出来たり白髪が生えてきただけのことだった。
 雲みたいに身軽そうに見えた母は、緩く振る舞うことが上手だっただけだと、ふいに気付いた。
 高校時代、はちきれんばかりの苦悩と希望を持って友達と海へ行った。大好きなバンドの歌をハチャメチャな音程で叫びまくって、友達と顔が潰れるくらい笑った。いつものスニーカーで、いつもよりスピードをつけて走った。
「いつもと違う予感がする」
歌いながら母の背中を見つめる。そうして母と一緒にハミングをする。
「フフフ・フー」
空には円盤を横に伸ばしたような雲がどこまでも続いている。なんの迷いもない真っ白い直線。
 お母さん、海行こう。海に向かって目いっぱい大声を出して歌おう、一緒に。
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