恋路の邪魔は許されない

文字数 5,901文字

 機械部品製造工場で働く男・田中大吉は、ある時身体の異変を覚えた。
 左手の小指が動かないのだ。
 右手で掴んで曲げようと思えば曲げることはできる。
 だが、自分の意思では左小指はピクリとも反応しないのだ。
 痛みはなかった。
 当初は重量物を持つ為の筋肉が衰えただけだろうと思っていた。
 居酒屋で仲間内と飲み会をやった。
 大吉が心から許せる2人の友人、いや仲間たちだった。
 大吉がビールのコップを掴む左手を見て笑った。
「大吉。お前、何小指立てているんだよ」
 仲間の一人・長谷川洋介に言われて説明しなければと思った。
「これなんだが、最近指が動かなくなってきたんだ」
 大吉の言葉を聞いて、2人の仲間は驚いた顔をした。
 そして、大吉の手を取り、まじまじと見つめる。
 そして、あることに気付いた。
 大吉の指先が黒ずんでいることに。
「何かの病気じゃねえのか?」
 心配そうに大吉の顔を見るもう一人の仲間・吉川英樹は冗談めいて笑った。
 大吉は今年で38歳になるが、20代の頃は運送会社で働いていた。
 体力には自信があったし、今でも肉体労働をしている。
 だから大丈夫だと言ったのだが……。
 数日後、その日はやってきた。
 仕事中に部品を足元に落としてしまったのだ。
 安全靴を履いていたのでケガはなかったが、見れば、左薬指まで動かなくなっていた。
 大吉は医者に行った。
 脳卒中、てんかん、末梢(まっしょう)神経障害などの原因ではないかと精密検査を受けるが異常はなかった。
 次に仲間と会った時、二人共渋い顔をしていた。
「どうした?」
 大吉が訊くと、洋介は答えた。
「実はな……。前に飲みをやってから、右足の親指が動かなくなっちまったんだ」
 英樹は右手の親指が動かなくなったという。
 三人共同じ病を患っているようだった。
「病院には行ったのか?」
 大吉が訊くと、二人は首を縦に振った。
「ああ。だけど原因が分かんないらしいぜ」
 英樹が言う。
 三人とも動かなくなった部位は違えど、症状は同じだった。
 動かなくなった部位には黒ずみがあった。
 この先、一体どうなるのだろうか? 3人は不安を抱えることになった。
「それより、次の仕事はどうする?」
 洋介が言う。
「やるさ。今はスイカが売れているんだろ?」
 大吉が答える。
「当たり前だろ。売り時を逃してたまるか」
 英樹が声を上げる。
 その通りだ。作物というものは旬がある。
 今はスイカが一番売れる時期なのだ。
 だが、収穫に行けなくなった。
 運転手役の洋介が事故を起こしたからだ。
 原因は右足首の麻痺だった。
 自損事故の為に、他人を巻き込むことはなかったが、軽トラックの修理代が高くついた。
 おかげで、3人の懐事情はかなり厳しいものになった。
 その頃には、大吉は左手が手首から先が動かなくなり、英樹は右手首から先が動かなくなっていた。
 洋介は右足が膝下まで麻痺してしまっていた。
 仕事どころではなくなった。
 ありとあらゆる病院へ行き、原因を調べてもらったが、どれも同じ結果が出ただけだった。
 手足の麻痺。
 それは次第に進行していった。
 恐ろしかった。
 大吉は、忍び寄る死の影を感じていた。
 夜中に目が覚めてトイレに行くが、ケツを拭いていた左手が動かないことで恐怖を感じた。当たり前にできていたことができなくなるというのは、こんなにも恐ろしいことだったとは……。
 目覚めた時には、寝汗でびっしょりになっていた。
 左手が動かせないことで着替えもままならない。
「クソ……」
 思わず悪態をつく。
 風呂場に行き熱いシャワーを浴びる。右手でシャワーヘッドを掴み、全身に湯を浴びる。
 全身の嫌な脂が流れていくような気がした。
 だが、頭皮だけは違った。
 髪がべっとりとして気持ち悪い。
 左手で髪をかきあげることもできないのだ。
 身体を洗うのも一苦労だ。
 風呂場にある鏡を見ると、自分の顔にギョッとした。
 右目だけが見えていた。
 左目は閉じられていた。
 そして、左頬の肉が垂れ下がり始めていた。
 口元が歪み、顎のラインが崩れ始めている。
 大吉は自分の顔が変わり始めたことに戦慄を覚えた。
 ふと、鏡に影のような物が映っているのに気がついた。
 人のようなシルエット。
 そこに目のような物が光る。
 2つ。
 いや、4つ。
 大吉は目を擦ってみた。
 だが、やはりそこには4つの瞳らしきものがあった。
 そして、その視線を感じる。
 シャワーで温まったハズの背筋が寒くなる。
 これは一体何なんだ!?  4つ目の瞳は大吉を見つめていた。
 まるで獲物を狙う肉食獣のように。
 喉の奥が締め上げられる。
 息苦しさを覚える。
 呼吸ができないのだ。
 苦しい……! 助けてくれ!!
 声にならない叫びを上げたその時だった。
 突然、大吉は我を取り戻したのだ。
 ハッとすると同時に、激しい咳き込みに襲われた。
 胸を押さえて前屈みになる。
 しばらくそうしていた。
 背後を振り返るが、何もいなかった。
 心臓が早鐘を打っていた。
 冷や汗をかいている。
 今のは夢だったのか? いや、違う。
 確かに感じた。
 あれは現実に起きたことなのだ。

 ◆

 ファミレス店に大吉の姿があった。
 いつもなら仕事に出かけている時間だったが、今は休職中だ。
 工場に行っても、働けないのだから仕方がない。
 顔の左半分を包帯で隠し、今はこの身体を直さなければ工場に行くことも、仲間と仕事をすることもできない。
 大吉は考えた。
 どうすればいいのだろうかと……。
 このまま一生治らないのではないかと思うと不安に押し潰されそうになる。
 だから、藁にでもすがる思いで相談したのだ。
 目の前に座る若者に。
 男性が、一人居た。
 一見して、頼りなさそうな童顔の若者。
 ヨレヨレになった白いジャケットに、所々がほつれたジーンズを履いている。
 肩のあたりまで伸びた髪を束ねていたが、オシャレを狙って伸ばしている印象はなく、単に散髪に行くのが面倒で伸びた髪を邪魔にならない方法で対処しているといった様子だ。束ねているのも輪ゴムという有様だ。
 だが、薄汚れていても若者には、さわやかさがあった。
 快晴ではないが、雲と青空が作り出すさわやかな風。
 目には見えなくとも、気持ちで感じるものが若者にはあった。
 年齢にして、20歳前後。
 名前を、飛鳥(あすか)孔音(くおん)と言った。
「貴方が、飛鳥さんですか?」
 大吉は訊ねた。
 すると、飛鳥はニコリと微笑んだ。
 笑った時の顔は子供っぽい。
「はい」
 だが、大吉は彼がただの若者ではないことを聞いていた。
「神通力が、使えるんですか?」
 大吉の言葉に、孔音は一瞬、きょとんとした顔をしたがすぐにクスっと笑う。
「はは。そんな関係で、神通師なんて呼ばれてますけど。神通力なんて大した力じゃないんですよ」
 彼は言った。

【神通力】
 それは、仏が持つ人智を超えた無礙自在な能力のこと。霊妙で計り知れず、自由自在にどんなこともなしうる働きや力。
 仏教の開祖・釈迦は、仏は何も特別な存在ではなく、人間には誰でも仏になる力がある。人間には誰でも仏性があると説いた。
 仏性とは、悟りに至る力。
 仏とは、悟った人のこと。
 つまり、仏性は仏になる可能力。人間は、仏になるのを待っている種子ということだ。
 仏性は、すべての人間に存在している。どんな人間でも仏になる種を持って生まれており、発芽を待つ種のように、仏になる可能力が眠っている。
 その潜在している人智を超えた自由自在な能力が、神通力だ。
 神通力は、禅定などの修行によって得ることができる。
 禅定とは、心静かに坐禅し真理を観察すること。瞑想し意識を深く持ち、自我の念がとれてくると、おのずと五感が研ぎ澄まされ、人智を超えた《力》が覚醒する。
 すなわち、
 天眼通(てんがんつう)
 天耳通(てんにつう)
 他心通(たしんつう)
 宿命通(しゅくみょうつう)
 神足通(じんそくつう)
 の五つの能力で、これを五神通と呼ぶ。

 大吉は拝み屋である孔音のところに、藁にもすがる思いでやってきたのだ。
 大吉が、孔音に相談した時には、左腕が肩から先の麻痺が進んでいて、もうじき死ぬのではないかと怖くなったからだ。
 自分の身に何が起きているのか知りたかった。
 だから、拝み屋の孔音に頼んでみたのだ。
「それで身体が徐々に麻痺していくと。それも、田中さん。貴方だけでなく、友人の二人も同じように身体が動かなくなっていくということですね?」
 大吉はうなずく。
 孔音は大吉の話を聞いてくれた。
 大吉の身体に起きた異変について話を聞くと、最初は冗談半分で聞いていたが、次第に深刻な表情になっていった。
 大吉は右手で左手を持ち上げ、テーブルの上に置く。
 症状出ている左手には黒ずみが侵食していた。
 指先から始まり、手の甲、腕へと広がっていく。
 そして、肘まで来ていた。
 大吉は、その黒いシミのような物を触って見せた。
 まるで炭のようなザラつきを感じる。
 だが、痛みはないらしい。
 大吉は、自分がこうなった経緯を話した。
 孔音は黙って聞いてくれていた。
 そして、一通り話し終える。
 大吉は、孔音を見た。
 孔音は神妙な面持ちで、手を大吉の左手に当てていた。
 まるで、何かを探るように目を閉じている。
 孔音はしばらくそうしていたが、やがて目を開けると、ゆっくりと口を開いた。
 そして、孔音は衝撃的な言葉を告げた。
「呪い。ですね」
 大吉は、息を呑む。
「呪……い……?」
 大吉の身体に起きた異変は、呪いによるものだと。
 孔音は説明してくれた。
 そもそも呪いというのは、人を憎んだり恨んだりする負の感情が生み出すものなのだそうだ。
 それは、時に相手を不幸に陥れるために使われる。
「心当たりは?」
 孔音が訊ねてきた。
 大吉は首を横に振る。
 すると孔音は目を閉じ、左手のみで拝むような仕草をする。
 瞼の下で眼球が激しく動く。
 レム睡眠時は、身体は眠っているのに、脳は覚醒に近い状態で 活動し、この状態の時に急速眼球運動が起こる。
 いわゆる夢を見る状態だ。
 孔音は今、夢の中に入っているのだろうか。
 孔音は、夢の中で過去を見ている。
 過去の記憶を。
 思い出す。
 大吉の知る記憶を。
 孔音は、見たものを見ているのではなく、相手の心に潜んでいる《闇》を覗いているのだ。
 《闇》とは、心の奥底にある《負》の感情だ。
 その《闇》に潜むモノ。
 それが、大吉に呪いをかけた張本人だ。
 孔音は、その《闇》に棲まうモノの正体を突き止めた。大吉の心の奥底に巣食う《闇》を垣間見た。
 孔音は目を開けた。
 どうやら、終わったようだ。
 大吉は、ゴクリと唾を飲み込む。
 心臓がドキドキした。
 孔音は言った。
「……もう一度、聞きます。本当に心当たりはないんですね」
 大吉はうなずいた。
 それを見て、孔音は言った。それは、とても信じられない言葉だった。大吉は自分の耳を疑った。
「あなたは、ウソをついていますね」
 孔音の口から放たれたのは、予想外すぎるものだったからだ。
「僕は他心通を使いました。これは、自己や他人の過去のありさまを知る能力です。その上で、お聞きしましたが、言えないのでしたら僕が言いましょう。あなた達は畑で何をしたんですか?」
 大吉は驚いた。
 どうして、そんなことを?
 孔音は、さらに言った。
 その声には、軽蔑があった。
 その顔には、怒りがあった。
 その瞳には、憎しみがあった。
 孔音は、静かに言う。
 静かな口調で、だが、はっきりと。
「そう。最近で言えば7月7日の七夕の夜と言えばいいでしょうか?」
 大吉は、何も言えなかった。
 なぜ、そんなことが分かるのか。
 大吉の背中に冷や汗が流れた。
 大吉の動揺が、手に取るように分かったのだろう。
「……知らん。俺は収穫をしていただけだ」
 大吉が言い終わる前に、孔音は席を立つ。
「そうですか。では、僕はこれで失礼するだけです」
 孔音は冷たく言い放つと、ファミレスの出口に向かって歩き出した。
 大吉は、慌てて呼び止める。
 孔音は立ち止まった。
 大吉は人目もはばからず、大声で叫び、その場で土下座をした。
 大声を出したことで、店内にいた客たちが一斉に振り向く。
 それでもかまわず、大吉は孔音にすがるように叫んだ。
「す、すみません。俺は、仲間と一緒に畑泥棒を働いていました。でも、悪いことだって分かっていながら、止められなかったんです。
 あの日も、本当はいけないことだとわかっていました。だけど、俺達はどうしても金が欲しかった。だから、つい……。お願いします。助けてください。このままじゃ、俺達全員、死んでしまいます!」
 大吉は必死で謝りながら懇願するが、孔音の表情に変化はなかった。

【七夕の禁忌】
 七夕には犯してはならない、いくつかの禁忌が各地にある。
 特に田畑に関するものが多いのが特徴だ。
 最近は作られることは少なくなったが、笹飾りと共に織姫、彦星が巡りあう時、その背に乗せて天の川を運ぶ七夕馬が各地で作られてきた。
 関東地方を中心に、真菰、藁、菅などで男女一対の馬を作ってお供えし、二人の再会を祈る。二人は、その馬に乗って一日限定の逢引をするという。
 多くの地域では、七夕に田畑に入るのを禁じられている。
 埼玉県では、七夕の夜には七夕の神様(織姫と彦星)を乗せた馬が畑を歩くので、人間は入ってはいけないとされる。入ると驚いた馬の脚がツルに捕まり、神様を怒らせてしまうのだ。
 ウリ畑では、七夕様が裸で寝ている。
 また七夕様はササゲ(マメ科の一年草)の畑で逢うので、この日にササゲを収穫してはならないなどの禁忌もあり、それに反すると、その年の秋は凶作になると言われている。

 大吉を含めた三人は、警察に連行され、取り調べを受けることになった。
 そこで、大吉はこれまでの悪事をすべて自白した。
 これまで、どんなことをしてきたのか。それを包み隠さず、すべて話したのだ。
 そして、大吉の供述により、農作物窃盗事件が次々と明るみになった。
 大吉たちは逮捕された。
 だが、それでも大吉達の麻痺は解けなかった。呪いは大吉達の身体を蝕むように広がっていく。
「どうして治らねえんだよ!」
 大吉は留置所で叫んでいた。

 ◆

 孔音は連続畑泥棒をしていた三人組逮捕の報道を見て、呟く。
「因果応報。人間が作った法律で、捕まっただけで罪を償った訳ではない。七夕様を怒らせた罪とは別物だよ」
 孔音は、ため息をつく。
「アンラッキーな七夕でしたね」
 孔音は、同情していた。
 それは、彼らが可哀想だとか、そういう意味ではない。
 一日しか出会えないにも関わらず、畑泥棒によってデートを邪魔されてしまった織姫、彦星にだった。
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