第1話

文字数 1,457文字


小説のかたわらには、いつも何かしらの飲み物を用意する。
マシュマロを浮かべたホットココアであったり、すっきりとしたジンジャーエールだったりする。
割とその日の気分でよく変えている。
研究室で卒論を書いている最中ではあるが、どうも筆が進まないので一旦休憩に勤しんでいた。
サボってはいない。けっして。


そして今日はコーヒーだった。
私はコーヒーに砂糖は入れない。人工的な甘さが嫌いだからだ。
ただし、コーヒー単体では苦すぎて飲めないのでミルクをたっぷりと入れる。
そういえば先輩もそうだったな。
苦くて飲めないくせに、後輩の私に見栄を張ってか、ブラックで飲んでいた。
むせていた時は面白かったな、なんて思いながら温くなったミルクコーヒーを一気にあおると卒論に取り掛かった。


先輩は学業のかたわらで小説を書く人だった。
授業もそつなく受けてテストでも赤点を取らず、なんなら成績優秀者として大学から表彰を受けていた。
私とは正反対だ。適当に授業を受けて、赤点ギリギリで、留年は何とか逃れたものの危なかった。
そんな先輩と同じ研究室に入れたのもまぐれだった。
研究室での先輩はすごくかっこよかった。
タイピングをしているときの先輩の横顔も、図書館で資料を見比べて吟味しているときの先輩も、ありありと思い出せる。
そして、研究室で卒論を書いていると思わせてこっそり小説を書いていた時も。
私にバレてしまった時の先輩の大慌てぶりときたら、今思い出しても笑ってしまう。
二人だけの秘密ができて嬉しかった。

先輩、今は何をしているのやら。
結局恥ずかしくて連絡先も聞きそびれちゃったものだから、私と先輩との交流は完全に切れてしまったんだ。
先輩が卒業してからというもの、私の日頃の出席率や成績が悪いせいもあって、私はだいぶピンチな状況だった。
教授から卒論の締め切りを数時間伸ばしてもらうというお情けを有難く頂戴して、こうして泣きながら卒論に取り掛かっている最中である。
それはそれとして、コーヒー飲み終わっちゃったし新しく淹れなおそうかな。もちろんミルクをたっぷり入れて。
甘いなかにもほんのりビターなこの味が、今の私にはちょうど良かった。


そうして無事に卒論も締め切りまでに提出できて、私は何とか卒業にこぎつけられた。
春からは地元のそれなりに大きな出版社に就職できた。
数週間に及ぶ新入社員研修やら業務内容の仕事やらを覚えているうちに、文芸小説作家の編集アシスタントへの配属が決まった。
私が担当する作家の先生はどんな人なんだろう。怖い人じゃないといいな。
今後お世話になるために挨拶がてら、ちょっとした菓子折りを持った。
事前に先生の好みを編集部で調査したところ、苦いものが苦手な甘党の方らしい。
会議室で菓子折りを片手に待っていると、扉が開いた。
入ってきた先生は、よく見知った顔だった。忘れもしない、あの研究室で幾度も見た顔だった。
向こうもハッとした顔で見つめてきた。もしかして覚えててくれたのかな。なんて。


「こんにちは先生。本日はよろしくお願い致します。さっそくコーヒーでも淹れましょうか。甘いものがお好きだと聞いたので、たっぷりミルクでも入れて。」
「こちらこそよろしくお願いします。それと、コーヒーはブラックで頼もうかな。」
私はたっぷりとミルクを入れたコーヒーを、先生にはブラックコーヒーを淹れた。
コーヒーをひとくち飲んだ先輩は、案の定むせた。
照れて笑った先輩の顔は、研究室で見た時と同じ顔をしていた。
ちびりと飲んだミルクコーヒーはあたたかくて、あの時よりも甘くて優しい味がした。
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