第1話

文字数 1,873文字

 目覚し時計が鳴った。まだ二月なので寒い日が続く。エアコンを作動させると、電気代が高い。暖房器具はこたつで我慢している。あまりにも寒いから、保温のためにカーテンを替えた。
 コーヒーを飲みながら、カレンダーを眺めた。今日は二月十四日、バレンタインデーだ。学生時代に、女の子からチョコレートをもらえるだろうか? とひそかに期待したこともある。甘酸っぱい感傷だ。バレンタインデーなんて商業主義だろう。
 包装シートから薬を取り出し、ミネラルウォーターで飲み干す。医師から処方された抗不安薬だが、睡眠薬も常用しているし、すでに薬物依存症かもしれない。オーバードーズしてしまう可能性もある。
 診療所に定期的に通っており、精神科医に適応障害と診断されている。病名にはさして興味がない。精神科はうさんくさいし、病名など精神科医のさじ加減一つだろう。
 現在は公立図書館で働いている。司書の資格を持っており、本が好きだったからだ。あるとき司書になりたくなり、急に思い立って、すぐ行動に出た。大学の司書講習を受け、資格を取得することができた。後で気づいたが、もしかしたら資格ビジネスだったのかもしれない。
 図書館で働くのは本に囲まれているし、楽しかった。非正規雇用でしか働けないが、しょうがない。公立図書館で募集している職員採用は、東大、京大に入るくらい難しいらしい。
 私は二十代だが、大学卒業後、就職したい会社もなく、定職にはつかなかった。やむを得ずフリーターになった。親からは小言を言われたが、意に介さなかった。お金がたまると日本を脱出し、バックパッカーになり、東アジアを放浪した。インドは刺激的だし、限りなく楽しかった。
 始業時間が九時なので、間に合うように最寄りの駅まで向かう。歩道橋を歩いていると、野良猫が行儀よく座っている。歩みを止めてしまい、ついまじまじ眺めてしまう。外見至上主義の世の中だから、しょうがない。
 先週図書館でたまたまタウン誌を読み、公園で猫の死骸が数匹見つかった、という記事を読んだ。記事によると、猫の足が切断されていたらしい。サイコパスの仕業なのか分からないが、ひどいことをするものだ。かわいそうな姿になった猫がふびんだし、物騒な世の中だ。この猫も殺されないといいが、飼い主でもないし、心配してもどうしようもない。
 立ち止まり、野良猫を眺めていると、自由でいいなあ、と羨ましくなる。耳がカットされているから、地域猫なのだろう。おそらく世話をし続ける人がいて、キャットフードや水などを与えているのだろう。ふざけて野良猫を追っかけ回すと、野良猫も逃げ出した。
 改札口を通り抜け、プラットホームから満員電車に飛び乗る。電車には一駅乗るだけだが、満員電車は家畜運搬車のような気がする。思わず気分が悪くなる。
 午後五時を過ぎ、仕事がようやく終わり、自宅に帰ろうと思った。図書館の人間関係に神経をすり減らし、ストレスがたまる。特に館長が苦手だった。外に出ると寒くて、ダウンジャケットのファスナーを引き上げた。
 あるアイデアを思いついた。駅前にあるコンビニエンスストアでチョコレートを購入した。雑誌を立ち読みしながら、猫殺しの犯人について、勝手な想像を巡らせた。もしかしたらすでに猫殺しの犯人と擦れ違っている可能性もある。
 猫を殺した犯人の姿を想像すると、背中がぞくぞくした。野良猫を殺すのは本当に悪いことなのだろうか? 社会は嘘にまみれている。死を遠ざける社会に対して、違和感があるのかもしれない。平凡きわまりない日常だが、刺激を与えてくれる犯人に感謝しているのだろうか? 日本という国は崩壊する寸前だ。夢を見ることもできない。
 帰り際、歩道橋を歩いていると、再びあの野良猫に再会した。野良猫は雄なのか雌なのか不明だ。とりあえず雄ということにしておこう。猫にさっきコンビニエンスストアで購入した、チョコレートを差し入れることにした。今日はバレンタインデーだから、野良猫にプレゼントを贈るのも乙だろう。もちろん猫にチョコレートを食べさせてはいけない。最悪の場合、中毒死することもある。野良猫が一匹死んでもかまわない。自由を謳歌する野良猫に対して、内心やっかんでいるのかもしれない。手のこんだ復讐をしているのだろうか? 包装紙を破り取り、チョコレートをむき出しにした。
 チョコレートを地面に置くと、野良猫はチョコレートを不思議そうに見つめ、距離を縮め、チョコレートをなめている。動物愛護法違反になるのだろうか? 私は後ろを振り返らずに歩き出した。(了)
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