第1話

文字数 1,732文字

 どこまでも鈍感になること。

 それが寝室から足を踏み出すときの掟。

 残したいと思ってしまうような瞬間に出会ってはならない。決して。

 五感を鈍らせ、心を中空に浮かせる。身体を自動操縦モードにして、何も感じないまま電車に揺られて出社し、仕事をこなす。

 縁までいっぱいに水が入ったコップを扱うみたいに、慎重に心の水平を保つ。傾きそうになれば逆方向に力を加えればいい。虹が出たらただの光の屈折現象だと考え、褒め言葉はどうせお世辞だと受け取る。そんな風に。

 不覚にも心に波が立ってしまったら、ポケットに忍ばせた小型のデジタルカメラを取り出し、胸の内側の水に触れたそれを一枚だけ撮影する。例えば濃紺の空に浮かぶ、黒猫の瞳のような黄色い満月を。




「何してるんですか? ——あら、可愛い黒猫ちゃん。飼ってるんですか?」

 昼休みに自席でカメラの写真を見返していたら、最近異動してきた同僚に後ろから声をかけられた。

「いえ。動物は嫌いなんですよ」

 カメラの電源を落とし、ポケットに仕舞う。近くにいた社員が目を逸らす。

「あら、そうなんですか。確かに、動物がいると散らかっちゃいますもんね」

 同僚は紙コップ一つしか私物が置かれていない俺の机の上を見て言った。今はなるべく物を所有しないようにしているし、どうしても必要なものは替えが利くようなシンプルなデザインを選んでいる。

「そうですね」

 何かを思い出してしまう前に俺は笑顔を作った。




 翌朝、目を開くと天井が回っていた。おそらくストレスが原因の、目眩と吐き気。止まらない回転の中、やっとの思いでスマホから会社に電話をかけた。

 電話に出たのは例の同僚だった。

「大丈夫ですか? 帰りに何か差し入れますよ」

 そういえば彼女と俺の家が近いと何かの折に話題になったことがある。俺は断ろうとしたが、吐き気に喉が詰まって呻き声しか出せず、そのまま電話は切れてしまった。




 玄関のチャイムが鳴った。重い瞼を開く。視界はもう回っていない。

 よろよろと出て鍵を開けると、同僚がスポーツドリンクとゼリー飲料の入った袋をちょっと持ち上げた。

 礼を述べてそのまま帰ってもらおうとしたが、立ち眩みがして倒れかけた。

 心配した同僚が失礼しますねと言って靴を脱ぐ。本当に大丈夫だからと押し返そうとするが力が入らない。

 俺の肩を支えて部屋に入った同僚が、寝室を一目見て身体を強張らせたのがわかった。

 四方の壁を埋め尽くすように貼った写真。ほころびた毛布。割れたマグカップ。耳の取れたネズミ型のおもちゃ。俺のすべて。

「あ、あの……、ちょっと、換気しましょうか」

 俺をベッドに下ろした同僚はあたふたと奥の窓辺へ向かった。長く締め切っていた窓が軋みを上げて開き、春の強風が吹き込んできた。

 風に煽られた写真が何枚か剥がれ、舞う。散りゆく花弁のように。

 黒い写真を拾い上げようとした同僚の腕を、気付くと俺は掴んでいた。

「触るな! 帰れ!」

 体中のエネルギーを吐き出すように、俺は叫んでいた。

 振り向いた同僚の顔が恐怖に歪む。構わず俺は写真に覆い被さり、抱きしめる。やがて玄関が閉まる音がして、侵入者は去った。




 ドアを閉じ、窓を閉じ、カーテンを隙間なく閉めて、俺のユートピアを完結させる。

 結界の内側では時間が消える。失われたはずのあらゆる時間が、写真の表面から匂い立っている。

 大半の写真は美しい金眼の黒猫の姿を留めている。うちに来た頃の無邪気な遊びも、成熟したしなやかな身体の艶も、老いた穏やかな寝顔も。

 月を映した写真を元の場所に貼り直し、この聖域からは何も失われていないことを確認する。

 もう何一つ失わないために、失いたくないものは聖域に閉じ込めておかなければならない。じわじわと増え続ける写真を半ば重なるように貼り続けた壁は、鱗の生えた龍の背中のようにゆったりと呼吸しながら夢の領域を囲み、守っている。

 狭くなってしまった聖域に、新たなものを受け入れる余裕はない。抱えるものを増やしたら、俺は本当に窒息してしまう。

 カーテンをわずかにめくると、俯き加減に歩く同僚の後ろ姿が見えた。俺はカメラを手に取ると、その背中を一枚だけ撮った。

 彼女のことも嫌いだ。過ぎ去ってしまうものは全部。
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