第1話

文字数 3,482文字

 言葉が配慮で変わると、差別も変わるものなのか。例えば、具体例をあげてみる。
「俺いま調子悪くて、精神病院にかかってるんだ」
 精神病院という言葉で、一瞬にして場の空気が凍りつく。
 では、これならどう世間は反応するか。
「私ずっと心療内科に通院してて、今度メンタルクリニックに変わろうと思うの」
 これだと、「へー、そうなんだ。大変だな。一人で深く悩むなよ」と心配してくれ、軽く流してもらえそうだ。
 実際、どちらの病院も精神科医が診察しているし、心療内科でも統合失調症は余程重症でなければ、診てもらえる。
 精神分裂病という名称だった頃は、精神科への差別と敷居が遙かに高く、その人の社会的死を意味していた。まさに精神病夜明け前だ。だからひたすら隠した。世間の視線は、分裂病の代名詞、「きちがいに刃物」と「人の不幸は蜜の味」に還元される。
 分裂病のイメージは、鉄格子に監禁される。絶叫し、保護室のドアを蹴飛ばして暴れる。何をするかわからない犯罪者予備軍扱い。近所のこころない噂話のたねにされてきた。居場所なんてどこにもなかった。カーテンを閉め切り、心を閉じた。
 危険人物が地域から随分といなくなったと世間は錯覚した。精神障害者の法整備が進んで社会で患者たちが働き出したのだ。その陰には劇的な効果がある新薬がどんどん開発され、精神科医の治療効果が上がり、ほとんど働くことができなかった人たちが、病院に月に一、二回通いながら、支援者とともに統合失調症患者が働いているのだ。勿論私も働いている。
 ハローワークに行けば、一般企業の障害者枠で、働きたい会社を調べ、面接を受け採用され、統合失調症患者が健常者とともに働いている。当事者としては素晴らしく差別が解消されたと痛感する次第である。無職で狂人の代名詞だった精神分裂病の名称変更は統合失調症によって成功したと一連の流れを俯瞰すると納得できる。まだまだ世間の目は冷たいが・・・。
 ただ、同じ人間とは思えない扱いもあるはある。精神が分裂するのだからやむを得ないだろう。どこかで殺人事件があれば、必ず、精神科の入院歴、通院歴があるかを警察を通して、マスコミは発表することになっている。そう精神障害者は危険らしい。
 しかも、統合失調症という名称に変わっても、保守的差別主義者は、相変わらず口をすべらしたふりをして面白がる。悲しいが現実だ。笑われ、からかわれるのが、障害者の仕事である。
 ある作家で政治家の有名人や、テレビによくでる精神科医は、差別される者の精神的苦痛を無視する。「きちがいに刃物」といって、統合失調症の患者をさも恐ろしいから世間から排除しようと大々的なプロバガンダで煽り、優生思想を助長しようと、つばをとばして宣伝した。言ったご本人が無神経ではないから、なおさら罪が重い。計算づく故看過できない。自分や家族が罹患したらどう思うのだろうか。他人の不幸は蜜の味なんだろう。自分をモニタリングできないのだ。人を肩書きでみるのはやめたほうがいい。人間性を深く洞察して人を判断しよう。
 もちろん差別がゼロにはならないくらい百も承知している。差別は、生きていることそれ自体に根源的に刷り込まれている。だから差別を減らすにも限界がある。他の差別でも同じか似たような事情だ。
 だからといって、黙って静観しているわけにはいかない。好戦的な差別主義者たちのおもうツボだ。黙って、うつむいて下をみて歩いていたら、もっと理不尽な目に遭遇するかもしれない。冤罪とたたかわねばならない可能性もある。いきなり警察手帳をみせられて三白眼で睨まれて、
「おい、そこの頭のおかしい奴、中本慎司(仮名)。婦女暴行の容疑で逮捕する。おまえの写真みせたら叫んで、被害女性は失神したんだぞ。この人でなしめ」
「なぜだ。俺はなにもやってない。精神病というだけで、レイプ犯か。証拠はどこにある。俺を第二の袴田巌さんにする気か。冤罪だ」
「うるさいこのやろう。中本(仮名)。詳しいことは、署にいってからだ。乗れ。二十年近くぶちこんでやるからな。このきちがい野郎」
 こんな場面が冗談じゃなく、実社会でも現実に起こりうる。袴田さんは、プロボクサーというだけで、凶暴だとして逮捕の遠因のひとつになっている。松本サリン事件の河野義行さんともどもむごい取り調べが行われた。警察署内の取調室内ではすごい追い込みをかけられ耐えきれず自白を強要されるそうだ。
 私が遭遇した場面ではこんなこともあった。差別は面白いという根深い例だ。
 冬にサウナに入っていたときだ。男が二人入ってきた。私は泳いだ後だから、体が芯から冷えきって、サウナは熱くて気持ちよかった。男たちは、会話をしだした。本来、私語禁止のフィットネスクラブである。
「最近、めきめき寒くなってきたな」
「そうだな。車のバッテリーも朝は注意しないと、上がっちゃうよ。こないだ熱いラーメン食ったらよ、鼻水が止まらなくなって、まるで、精神障害者だよ」
「今時、鼻水たらしてたら、ほんと、精神障害者に間違われるぞ。幼稚園児でも、ちゃんと鼻かむのにな。ああ、知恵遅れも青っぱなたらしてるな。気持ち悪いよ、ほんとに」
「そうそう。俺たちまともな人間が刺されたら、たまったもんじゃない」
「その通り。奴らは、鉄格子の中にぶちこんでおけばいいんだ」
「そうだ。そうだ。あいつらは、暴れて何するかわからないからな。害虫だよ。社会のゴミだ」 二人のリアルな会話を黙って聞いていて私はくじけそうになった。子供でも鼻水たらしているなんて差別しない。男たちは、私のことを健常者だと見た目で思い込んでいたに違いない。悪気があっていったのではないのらしい。。逆に、私なんかより正直者なのかもしれない。
 彼らは多分差別されたことがないのだろう。だから脳天気でいられるのだ。根深いなあと肌で感じた。忘れもしない、北海道の寒い冬の日だった。以後私は、心理帳をつけるようになった。負けそうになったこと。挫折。逆に、人から励まされたことなど、ペンの力であらがっている。
 繰り返すが、昔からみたら、差別は軽くなった。差別を煽動する言葉は、以前より使われなくなったし、精神医療は、政治や行政、精神科医の先生の力と努力で、現代では遙かに改善されてきた。閉鎖病棟と開放病棟を区分しない病院も増えてきている。
「わたし、ウツかもしれない」「そうかも。最近、陽子(仮名)元気ないもん」なんて、山手線の電車にのって、同僚と会話するOLがいる。会社でも、心病むひとが多くなり社員のメンタルケアに躍起になっている。
 また、作家や著名人が、「私は統合失調症です」と、いとも簡単にカミングアウトする時代になった。まるで、『破戒』だ。
 驚くべきことに、診察やカウンセリングも、精神科医だけではなく、臨床心理士、公認心理師などが広く行えるような動きをみせている。メンタルケアは、これから理解が深まっていく開かれた分野だと私は期待をしている。どうにか閉じずに世間の差別意識を解消してもらいたい。
 ここで、私の大胆な独断と偏見による患者側からの提案をしたい。お付き合い下さい。
 精神科を心理科に書き換える。精神科医を心理科医に変更する。統合失調症を心理複雑症と、もう一度名称変更する。うつ病は、気分病とする。
 皆さんどうでしょう。この言葉なら、もっと障害者差別も軽減できると思いませんか。
 なるべく、障害という言葉を避けたほうが、差別は減らせます。障害の害は、害虫をイメージさせる。つまりゴキブリ。精神障害者一般を蔑視することに繋がる危険性がある。
 精神障害者の差別に一石を投じようと、ペンの力を借りてエッセイを書いてみた。当事者は勿論のこと、貧困や人権問題に悩んでいる皆さんにぜひ読んで元気を取り戻してほしい。皆さん笑顔になれるように深く祈る。特に、この短い文章は次の二冊に触発されてできた。
『精神科医はいらない』下田治美著(角川書店)と『我が家の母はビョーキです』中村ユキ著(サンマーク出版)。
 精神科医の無知と傲慢ぶりを勇気をもって告発している前者の下田さんの度胸と熱意に感謝したい。自分の勉強不足を痛感し、深く学ぶ原動力と闘う力にもなった。
 後者は、中村さんが、病気の母を見捨てることなく、献身的に看病する姿に感動する。
 闘病記を読むと勇気と元気がわいてくる。理屈抜きに精神病の世話は、重労働である。
 私は倒れてもう立てないくらい力つきるまで、言葉を変えて差別を減らす私のスタイルを貫き啓蒙活動を続ける覚悟でいる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み