最終話 あなただけは許せない

文字数 5,000文字

 バランス釜から伸びた蛇口は、ほとんど錆び付いていた。ぽたぽたと水が滴り落ちて、波紋は、新田(にった)逢瀬(おうせ)の膝をすり抜けて消えた。
 彼女は今、狭い浴槽のぬるま湯の中に浸かったまま、細い腕をだらりと外に出し、白い顔を天井に向けているのである。
 既に泣き腫らした目には何も浮かんでおらず、焦点も合っていない。
 天井には清掃業者でも消しきれなかった黴の痕跡が無数に散っており、ごつごつしているように見えなくもなかった。
 そして、正面にある小窓へと押し寄せ逃げるような模様を描く黒ずみは、彼女から這い出でる(くら)き者のようだった。
 逢瀬の手首から流れる血。それは浴槽の側面に、極めて細い線を描いている。
 彼女は虚ろな表情のまま今日のレコーディングでの出来事を頭の中で反芻した。自分だけが他のメンバーよりも多くリテイクさせられて、しまいには呆れられた。少なくとも彼女はそのように感じた。そのことで、再び彼女が泣くことはなかった。ただ絶望し、矮小な自分自身を、大井川にされたみたいに馬鹿にして、自虐の悦に浸ったのである。
 バスタブの角に置いていたスマホが、通知を受けて振動した。すぐにでも取らねばならないと思ったが、無気力に苛まれ、手を伸ばせない。動けないことに嫌悪を抱き、呼吸を荒くした。
 彼女は左手首を上げたまま、顔を後頭部まで浴槽に沈めると、顎先が大きな胸の肉に挟まった。息を吐き続けて、空気がなくなっても、口を閉じることをやめなかった。
 体が発する酸素への欲求に負けて、勢いよく顔を上げる。
 彼女はすかさず壁に右手を擦り付けて水を拭うと、腕を伸ばしてスマホを手に取った。
『一件の新着メッセージがあります』
 タップしてディープリンクで開かれたのは、大井川とのトークルームだった。
『こちらこそ。今日は僕の要求を越えたな! 喉の調子は大丈夫? 次のライブはきっといいものになる』
「大井川め……」逢瀬が憎たらしげに言う。「絶対嘘!」
 しばらく目を泳がせて、とりあえずスタンプを送りつける。それから、短く『うちにきて』と送信した。
『ちょっと今行けない』
 彼女は苛立ちに任せて唸りながらスマホを振り上げたが、すぐに思い直した。時刻の下に表示されているピメレス・大井川・ルヴァリエというふざけた名前が憎たらしく、そして忘れられなかった。
『ヤバい、死ぬかも』
『え、何?』と大井川。
 彼女は、おどけたみたいなスタンプを送信して、スマホの右横にある電源ボタンを押した。もう何も見ないつもりで、バスタブの角に伏せて置いた。
 切りつけた手首はすっかり冷え切っていた。既に血は止まっており、傷口は痛むのではなく、ぴりぴりしていて、はっか油を塗ったみたいだった。
 彼女は浴室から出て、バスマットの上でタオルを押し付けるようにしながら水気を拭った。
 洗面台の前で、全身を丁寧に保湿していく。血みたいに赤いジェルは塗ると色が消える。苺の甘い香りも付いている。洗濯機の上に投げられていた下着を付けて、タオル地のパジャマを着、スマホはお腹のポケットに入れた。
 居間に戻ると、彼女は古い畳の湿気た匂いにうんざりしながら、洗濯物にアイロンをかけようかと考えた。
 部屋奥にある穴だらけの襖を開けて、下からアイロン台を引っ張り出す。本体をコンセントに繋いで、つまみを全開に回したまま台の上に置いた。オレンジ色のランプが点灯して、加熱中であることを知らせてくる。
 待っている間、彼女は自分の両手首を見比べていた。左は、無数の肉の筋の中に、一本の情けない赤の線が引かれている。反して、右は傷ひとつない。
 彼女はうっとりと傷跡に見惚れていたが、やがて大事そうに右手で左手首を持ち上げて、鼻先から右目にかけて押し付けた。鼻から息を吸うと、保湿ジェルの甘ったるさの中に、少し血の匂いが混じっていた。
 スマホを取り上げて、大井川とのトークを開いた。カメラを起動して手首の写真を四枚撮り、そのうち最も赤の映えた写真を選んで送信する。
 次いで、手のひらを返すようにしてパジャマの胸元を引っ張って、胸の谷間と傷が一緒に映るように撮影した。
 そうやって、次々と送りつけていったのである。
『めちゃ綺麗にいったっしょ』
『痛いよ〜』
『忙しい?』
『見て』
『というか見ろ』
 彼女はお腹の上にスマホを置き、右手を添えたままじっと返信を待った。
『治った』
『嘘』
『暇』
『眠いんだけど』
『ねむ』
『喉乾いた』
 早く返信が欲しいと思ったが、いくら待てども返ってこない。
「既読無視かよ。許せねえ……」
 彼女が言うや否や、アイロンがカチッと音を立てて消灯した。
 それは、逢瀬が奮い立つに相応しい号砲となったのである。

 逢瀬はアイドルを辞めたいと常々思っていたが、グループから抜けられないのは、全て大井川のせいだと考えていた。
 彼女は荻窪まで出て中央線に乗り、新宿で山手線に乗り換えて五反田で降りた。東急池上線は始発なので、端の席に座ることはできたものの、少しの時間待たされることになった。古めの車両は不潔に感じられ、苛立ちは貧乏ゆすりとして顕れた。SNSで自分への褒め言葉を探したが、どれも一度は目を通したものばかりだったので、溜飲を下げられなかった。なので、こういう時の為にカメラロールに保存してある#000の完全なる暗黒画像を、自らのプロフィール画像に設定したのである。
 電車が目黒川を越えても大井川からのメッセージはなく、嫌がらせみたいに短文をいくつも送信していたら、すぐ戸越銀座に到着してしまった。
 彼女は車両を出て、改札を抜けた。
 大井川のマンションは戸越から少し大崎側に出たところにある。近くに幼稚園があって、それが目印だった。
 逢瀬は道中、大井川との甘いひとときを思い出した。彼の腕枕に安心して寝てしまい、翌朝早く起きてシャワーを浴びたら、彼は寝ぼけ眼のままドライヤーで髪を乾かしてくれたものだ。
 もう、三ヶ月以上も前のことになる。
「三ヶ月!」
 逢瀬は眉間に皺を寄せ、歯ぎしりをした。走り出した姿はもはや怒髪天を衝く執金剛神の如きであり、すれ違う少年は泣き出して、婦女は身を伏せた。暗雲が商店街を覆い、雷鳴が轟き、コロッケ屋には火災がもたらされた。彼女は殺意に満ち溢れていた。頬を切り裂いたような笑みを浮かべながら、白眼を剥いて車道を走り抜け、スライディングでマンションのセキュリティを突破すると、前転から飛びかかるみたいにエレベーターのボタンを押したのだが、そのじれったい挙動に我慢できるはずもなく、素早く非常階段へと切り替えた。普通、一二階まで足で上がるのは容易なことではないが、迸るアドレナリンによって、今の彼女は疲れを知らないのである。
 一二〇三号室の前で止まり、一度チャイムを押す。反応がなかったのでドアノブをがちゃがちゃやってみるが、開かない。
「大井川コラァッ! ダンマリか死ね! 出てこい!」
 逢瀬は自身が何を言っているのか全く理解していなかった。思考よりも速く言葉が出ている状態なのである。
 彼女はドアの隣にある窓ガラスへと目を向けた。靴を脱いで、何度も叩きつけていると徐々にヒビが大きくなり、やがて穴が空いた。そこから手を突っ込んで鍵を外すと、無事に窓を開けて侵入することができたのである。
 入ったのは洗面所で、アメカジっぽい服が脱ぎ散らかしてあった。まず洗面台を見て、カップに立てかけてある歯ブラシを全て叩き折った。そのうち一本は明らかなる女の痕跡であり、折られて当然のことである。下の戸棚を開くと、綺麗に並べられたトイレットペーパーと、未開封のコンドームの箱があったので、それらを全て放り出して踏み潰した。
 響き渡る逢瀬の奇声。
 目にした洋服を全部引きちぎり、浴室へのドアを蹴りまくって破壊する。
 大井川宅は2Kであり、まだ手をつけるべき領域は広々と残っていた。
 台所は整然としていた。物がほとんど無く、自炊をしている気配は無い。流しからコンロまでじっくりと見渡し、女の痕跡を探したが、見つけることはできなかった。
 だから、とりあえず冷蔵庫を開けて、中に入っているコンビニの惣菜やら、ビール缶やらを手当たり次第に放り投げた。上に置かれた電子レンジを持ち上げて、力任せに叩き落とす。蛇口を引っこ抜こうとしてみたが、人の力でどうにかなるものではなかった。
 コンロの下にある引き出しは全部開けてみたものの、何も入っていない。
 壁を蹴りながら、奥へ。
 左右二つの扉があって、左側は仕事部屋、右側は寝室を兼ねた居間であることを彼女は知っていた。
 大井川は逢瀬に対し、仕事部屋に入ることを固く禁じていた。伝説的な彼のファーストアルバム『リナレス/セーヌ川/シュヴァリエ』を生み出した宅録スタジオは神聖な場所なのである。その命令は逢瀬の心の奥深くに錨となって沈んでおり、鬼へと変貌した現在(いま)でさえ、彼女の侵入を阻んでいた。
 ためらいなく右の扉を開けた逢瀬は、中に入るや、まず飲みさしのコーヒーが置かれている、ガラス製のちゃぶ台をひっくり返した。
 それから、クローゼットの前に立てかけてあったフローリングワイパーを手に取り、とにかく振り回す。
 それは部屋に置いてある液晶などの平べったいものに次々とヒットした。あるものはヘコみ、あるものはひび割れ、あるものは穴が空いた。
 逢瀬は多幸感に満ちていた。小さなリモコンを棒で叩きまくって壊してみたり、棚という棚を開いて中身をぶちまけるたびに、爽快感で天にも昇りそうな気持ちになる。大井川の反応を想像し、それによって精神的な繋がりを感じることさえできた。
 しかし、ふとした瞬間に人は冷静になってしまうものである。
 彼女は振り上げたタブレットを床に叩きつけようと振りかぶったところで動きを止め、さめざめと泣き始めた。
 辺りを見回せば、惨憺たる光景が広がっているのである。全ては自分がやったことなのだと、罪の意識がどんどん大きくなり、彼女はその場にへたり込んでしまった。
 多くの涙が頬を伝った。無傷なベッドを見、助けを求めるように這い寄って突っ伏した。
 そして、大井川のことを想った。彼の部屋を壊すのはこれで何度目か。もはや数えてすらいなかった。ちょっとしたことでこうした襲撃を繰り返し、彼に謝らせる。そんなことをしているから疎遠になるのだと、分かっているのにやめられないのだった。
 お守り代わりに握っていたスマホが振動し、逢瀬は震える手で確認した。真っ黒なロック画面に映った自分は、泣き腫らしてひどい顔をしている。
 通知は大井川からのメッセージを知らせるものだった。
 開けば、『またやったね笑』との言葉。
 振り返ってみると、無表情の大井川が散らかったものを避けながら近寄ってきている。
「こりゃひどい」
 逢瀬は再び顔を突っ伏して、今度は声を上げて泣いた。
「今日も俺のせい?」
 彼はヘラヘラと笑いながらベッドの上に飛び乗ってきて、隣に座った。
「ほら、顔をあげろよ」
 逢瀬は無視して泣き続ける。
 すると彼は「俺の言うことを聞きな?」と言って髪の毛を掴み、無理矢理持ち上げてきたのである。
 さらに顎を指で押されてしまったため、逢瀬は彼の方を向かざるを得ず、思わず「ごめんなさい」と言葉を漏らした。
「珍しいな、謝るとか」大井川は、逢瀬の右手を自らの股のほうに誘導しながら続けた。「辛かったな。俺も忙しくて、返信できなくて悪かったよ」
 逢瀬はじっと黙ったまま、袖で涙を拭った。受け取った憐憫に応じて、手を動かした。しかし、押し倒され、覆いかぶさられると、顔を背けてしまう。
「俺の仕事場は?」
「開けるなって、前……」と言って、逢瀬は逃げるように固く目を閉じた。押さえつけられた左手首に、軽い痛みが走った。
「そうだよな。開けちゃいけないよな。お前、汚いからさ」
 逢瀬は何も言い返さなかった。
 アイドルである自分と、少数のファンのことを案じながら、この男に身を任せて、この男を憎めば憎むほど、後で大きな解放感が得られるのだから。
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