海と憂鬱(3)

文字数 2,300文字

「ただいま……」

 マンションの部屋に戻ると、引っ越し業者はおろか、母親の気配すらない。リビングのソファで寝転がっている父親を起こすのもかわいそうなので、私は母の帰りを待つことにした。

 母親はやや困惑した様子で土産物の袋のからをもって帰って来た。

「山本さんのところ、にぎやかでね。お上品なお母さんと、それから綺麗な女の子、それ元気な男の子」
「へー」

 あの二人のことだとすぐに気づく。

「差し入れに渡した東京ばな奈、すっごく気に入ってくれたわ」
「よかったじゃん」
「東京だと、近所の挨拶なんて物騒でできないものね。楽しかったわ」

 挨拶をしに行っただけで、楽しかったとまで言わしめるほど、きょうだいは騒いでいたのだろうか。楽しい家庭だろうな、と思った。

 ひとりっ子の私には、分からないことだ。

「さて、そろそろ俺は帰ろうか」

 いつの間にか起きだしていた父親が、くるくると車のキーのストラップを回して言った。私たちは車に乗ってまた峠を越え帰っていく父親を見送るために外に出た。

 まだ午後四時だった。辺りは明るく、まだまだ太陽が赤みがかる気配はない。

 残務処理、というのだろうか。私と母親をアパートにおいて、もう少しだけ東京で頑張るために帰るというのは、どういう気分だろうと考えた。ひとりで東京の、おびただしい人の群れに帰っていく父親が、どうにも頼りなく見えた。ひょろりとしていてもともと力がなさそうではあるが、家族を置いて行く背中に、まるで活力を感じなかった。

「さて、晩御飯の支度をしなくちゃね。山本さん親切でね、近くの安いスーパーまで教えてくれて」
「よかったね」

 外に出たその足で母親が買い出しに行ったのち、私は部屋に戻る。完全にひとりになった。

 ひとりになって、自分に与えられた部屋の段ボールから少しずつ荷物を取り出し、部屋の雑貨類の配置を考えながら、ふいに押し寄せる感情と戦っていた。父親が家に帰ったのち、することを想像すると、どうしても思いついてしまう。よせばいいのに、車の中で父親に同情したこと。

 自分を痛めつけることは、楽しい。自分に殴られている自分が無力で滑稽で、そうして何の取りえもない自分を強く思い知ることがたまらない快感をもたらした。自らが非力な人間であることが、気持ちよかった。そこで私は――自分を殴るためにこぶしを握っていたことにようやく気付く。

 それは――その行為は、私にとって許せなかった。海に対して無様なあざだらけの体を見せることは、失礼に値すると思った。気持ちを抑え、私はふと思い出してスマートフォンを見る。

 唯奈からのメッセージが届いていた。

『学校変わって、環境が変わって、澄香がそれについていけないことはもう予測済み(笑)
 だから、いつでも頼ってね。学校でうまくやっていく方法なら、私に任せて。どうしてもなじめなかったら、会お。いつでも待ってるからね!』

 私は唯奈と会ったころを思い出していた。

 中学校では、人とのつながりがあまりにいやで不登校になった。全員が、思春期に入る時期。誰が誰を好きだとか、嫌いだとか、そういった話がとにかく苦手だった。何より、誰の素行が悪いという『噂』に踊らされて、なにも知らない第三者もその人を避けるというのが許せなかった。

 私は中学校一年の冬から不登校になり、そのまま中二を迎えた。中二の終わりごろ、私を学校に引きずり出したのが、唯奈だった。唯奈は学級委員長を務めており、正義感が強い子だった。私がずっと学校に来ないのを、何とかしたかったのか、二学期のはじめごろからたまにうちのインターホンを鳴らしてきた。唯奈は周りを巻き込む力があり、クラスで存在感があった。私が好きな科学に関するノンフィクション映画などを、趣味でもないのに一緒に見に来てくれ、それでも的確な感想を述べる子だった。私が好む答えを知っていたのかもしれない。唯奈に生来宿っている洞察力には、よく驚かされた。彼女との思い出に、しばらく浸った。高校でも男女から人気のある唯奈のことだ、私一人おさらばしたところで、彼女は寂しがることはないだろう。

 仲は、かなり良かったけど。そう信じたいけど。

 中三の一学期から、急に登校しだした私に浴びせられる好奇の視線から、かばってくれた唯奈。同じ高校に合格しようと、不登校の遅れを取り戻すために毎週勉強会を開いてくれた唯奈。

 私は唯奈にたくさんの感謝をしなければならない。それをせずに、東京を去ってしまったことは心残りだ。

 けれど。唯奈が私に送ってくるメッセージには、悲しい雰囲気はない。私が一方的に、恩義を感じているだけかもしれなかった。彼女はただ、中三でも引き続き与えられた学級委員の仕事をしただけ。クラス全員が楽しい環境を作っただけ。

 寂しい気持ちを共有できないのであれば、私も嘆くことはしない。

 いつの間にやら日が赤くなっていて、窓にはっきりと自分の姿が映るようになった。私は唯奈を一番の友達と思っている。けれど、唯奈にとってはそうではないはずだ。だって私は、かわいくない。そんなにきれいじゃないから。

『ありがとう、でも、できるだけ一人で頑張ってみる』

 私は窓から海の写真を取り、画像を送信しておいた。

 そこで考え事を切り上げることにする。これ以上は、憂鬱のドツボにはまっていくだけだ。海を眺めながら物憂げな表情を見せた怜美さんが脳裏によぎる。そう、ああいう美人さんにこそ、物思いはよく似合う。

 部屋の整理の続きを始める。しばらく夢中になってやっていると、母親が晩御飯の支度ができたと呼びに来た。私は素直に応じ、魚の刺身などをおいしく食べた。
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