雪怪

文字数 3,271文字

 道の突き当たりにひときわ大きな平屋がぼとりと建っている。どこか異国の匂いがする花緑青(はなろくしょう)の瓦屋根。この静かな邸宅に千住(せんじゅ)は暮らしている。
「やれやれ、今朝は庭が静かだな。花の香りもしないときた」
 彼は道楽者の優男(やさおとこ)で二十半ばになるというのに、ついぞ働いたこともない。家の主は長いこと姿をみせず広い屋敷には千住の身の回りの世話をしている娘だけが、いつも変わりなく働いている。
「つまらないから外でも歩いてくるよ、初名(はつな)
「はい、千住さま。早くお帰りになってくださいまし」
 初名の頬はあまり化粧もしていないのに、ほんのり(あか)く染まっている。それがなにかの花弁によく似ていて、爪で引っ掻いただけで傷から枯れてしまいそうだ。
「あのう、あたしの顔になんぞついておりましょうか?」
「いや、おまえの肌は人まねをした花のようだね」
「まあ。うまく化けられてますかしら」
「なんの道楽息子に見破られるようではまだまだ。女中のふりをするなら、もう少し荒らすがよかろう」
 では参考にいたしますと、娘はぷくりとした小さな(つぼみ)に指を当てて笑った。

 どうも、うすらぼんやりした朝だ。空はひやりと(かすみ)色で、千住の(なま)(ちろ)い体を覆う片貝木綿(かたかいもめん)はあまりに物足りない。
「はて、どうしてこんな恰好で出てきてしまったのやら」
 生来の怠けぐせが災いして、つい今しがたの記憶をたどるのも億劫になる。うんざりとついた溜め息が白く凍って道に散じ、彼の破片はしんと静まり返った家々の土塀に吸われるように失せた。
 まったく土塀も道も無愛想で不愉快である。家々の庭の植木もいまは枝ばかりで面白くもない。腹が立つので、これよりましと上を向いてみる。
「あ」
 色彩に(とぼ)しい空からフワリと一滴、鼻の頭へ冷たいものが落ちた。小さな粒が迷いながら、あっちへこっちへ。やがてひとつ、またひとつと地上に降りて来る。
「……はつゆきか」
 このあたりではもう長いこと見ることがなかった冬が、天から綿々(めんめん)と降っていた。
「おや?」
 ふいと異様な雰囲気を感じて立ち止まる。ここは袋小路になっていたろうか。たしか曲がる道が左右ともあったはずである。顎に手を当ててまじまじと眺めたが、壁が溶けるわけもない。やれ、どこかで間違えたに違いない。見慣れた道だからおかしなことだが、事実、通れないものは仕方ないと(きびす)を返す。
 すると下駄の裏からサクリと音がたった。片栗粉を踏んだような感覚がある。続いて刺すような冷えが、足から体を貫いた。ひっと身を(こご)めて顔をあげ、千住は我が目を疑った。そこには上下左右の区別もわからないような、雪、雪、雪。いまの一瞬で道を喰ったばかりの雪の壁が、四方から寄りかかってこようと(ふく)らんだ。
「うわああっ!」
 自分の喉から出てるとは思えないほどの声が出る。千住は無我夢中で駆けだした。それからどこをどう走ったかわからない。
 這々(ほうほう)(てい)でようやく家に辿りついたときには、半分ほどけた帯が道につくほどとなっていた。
「まあ! どうなすったんです」
 ちょうど門の前を掃除していた初名に見つかり、抱えられるように屋敷に入りこむ。
「雪だ、雪に襲われた」
「なにをおっしゃいますか、こんな天気のいい日に」
「そんなはずはなかろう、特別ひどいのがあったはずだ」
 しかし引きずられながら見遣った庭は積雪どころか濡れた跡ひとつない。そればかりか空には、気を失いそうなほど穏やかな日差しすらあるのだった。
 千住はぽかんと立ち止まる。
「今は春だったか?」
「春ですよ、まもなく」
 庭の梅の木も、蕾がほころんでいる。(そば)で初名も微笑む。
「……なんだか、前はずうっと春だったみたいな気がするが」
 (なか)ば独り言のようなつぶやきが、唇からとろりとこぼれた。雪を見たあの瞬間だけが当たり前のように真冬で、あとは前も後ろもいつでも春のような、いや春を待つ穏やかな日和ばかりだったように思えてならない。千住の記憶は(かすみ)がかかったようで、ぼうとして要領を得なかった。
「どうだねお前。道楽者が怠けっすぎて、脳までとろけちまったと思うかい?」
 呆けたようにつぶやくと、初名は優しく腕をさすった。
「千住さまが嘘をおっしゃる人でないことは、ようく存じておりますよ。それでは夜になりましたら、一緒に雪見にゆきましょうか」
 雪は降っていないが話を信じて雪見に行くという初名の心を測りかねたが、このままではあの恐ろしい真冬から逃れられない気がして、結局、千住は出かけることにした。

 月明かりを頼りに寄り添いながら二人は歩き、道を曲がって袋小路に入ったところで、その光景は唐突に現れた。
 見渡す限り、一面の無垢——。
「ごらん、初名。雪だ、雪が降っている」
 おもい綿の粒が(はや)りながらひらひらと舞って屋根や地面に落ちて(ほど)ける。
「どうだ私の言ったとおりだろう」
 興奮ぎみに千住が振り向くと、凍てつく寒さの中で初名の吐息だけが白く濁っていなかった。
「いいえ、千住さま。雪は降ってはおりません」
 厚みのある睫毛(まつげ)の下から、彼女は静かな眼差しを空に向けた。
「何を、あれが——」
「あれは雪の亡霊でございます」
 ぴんと伸ばしていた千住の指と腕がくらりと下がった。
「……馬鹿なことを。雪が亡者になるものか」
「なぜです? 人だって死ねば亡者になります」
「だってお前、人には魂があろう」
 すると初名は、ほんのいっとき唇をきつく噛んだ。
「魂があるのが人だけだと、どうしてお思いになるのです。山の木にも庭の木にも命があります、ならば魂があります。生まれるときと終わるときがあるのですから、雪にだって魂もありましょう」
 そういうものなのだろうか。人ならざるものの魂のことなど、考えたこともなかった。この世の命あるものにすべて魂があって、いずれにも死にきれない想いが宿ることがある。それが当たり前なのだとしたら、なんと此岸(しがん)は残酷なのだ。
「でも大丈夫です。亡霊なんぞになにもできやしません」
「そうなのかな」
「ええ、心配いりません。千住さまは初名が守っておりますから。そもそも生きてるものから横取りしようなんて、厚かましいことです」
 落ち着いた初名の聞きなれた声が千住の胸を撫でさする。千住は息を吐き出す代わりに、おそるおそる天を見上げた。
 雪は千住の知ってる町の風景を断りなく覆って消して、透きとおる光の色に染め変える。次から次へと絶え間なく降り注ぎ、視界のすべてを塗りこめていく。
 これは誰の夢だ。いまや世界はあまりにも静謐(せいひつ)に過ぎて、自身の姿さえ指先からおぼつかなくなってゆく気がした。
「この雪は、なんで亡霊になったんだろうか」
「そりゃあ、未練があるか……さびしいんでしょうね」
 雪見をする初名の横顔が神仏の像のような表情をしてみえた。なんだか千住にとっては、あまりにも遠すぎる横顔だった。
 やがて粛々とした闇が訪れた。やおら雪がしゅらしゅらと成仏する。そのさまはえもいわれず美しく、おそらくこれを誰にも伝える(すべ)がないことだけが、千住にはただただ物悲しかった。
 そして衣擦(きぬず)れの音もなく初名がまろやかに立ち上がり、花脈(かみゃく)の透けそうな白い手を伸ばした。
「さあ、帰りましょう。花緑青(はなろくしょう)の屋敷は、まもなく春です」
「はる?」
「はい。いつだってそうですから」
 千住に触れる初名の身体から、やけに馴染んだ甘い香りがする。
「そうかい。でもそれは、おかしな話じゃないのかね」
「いいじゃありませんか、少しばかりおかしくったって。だって春は暖かいし、……なんといっても花が咲きますもの」
 彼女の言うことはなんだか奇妙だったが、頭がぼうとしてくるので面倒になって頷いた。背中をやさしく押す掌がじんわり温かい。千住は思う。さあ、梅の香のするあの屋敷に帰らなければ。あそこでまた永遠のような自堕落な時を過ごすのだ。
 千住はもう振り返ることもなく袋小路を後にする。雪解(ゆきど)けの水が気化して昇るときも、きっとほのかな梅の香りが立つだろう。
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