第1話

文字数 2,644文字

それにしても未だに連絡がない。だが、こちらから連絡するわけにもいかない。この思想は古代から言い伝えられる"返事はすぐすべきではない"という固定概念故なのか、はたまた茉莉花のプライド故なのか本人にも分からない。

確かに隼人はすぐ連絡するとつい昨日言っていたのだ。実際には隼人からの連絡はあるにはある。ただ内容は茉莉花が欲しいものではなく、むしろその対極だ。今日の夕飯はカレーにしたとか、仕事中にスーツのポケットが破けたとか。

茉莉花が欲していたのは次の"約束"だ。約束に辿り着くための途中課題として隼人は茉莉花に希望休を取ると伝えていた。しかし、それがいつなのかを報告してくれなかった。

茉莉花の方ではデートコースと久々の二人で過ごす連休のイメージトレーニングを何よりも完璧にしていた。それに、隼人と会う前には美容院とエステサロンに行きたいので、その予約をしなければならない。よって早く隼人の予定が知りたいのだ。といっても後者は後付けであり、茉莉花としては何としても早く隼人に会いたいのだった。というのも隼人の仕事は激務であり、それに加えて茉莉花には大阪と新潟の遠距離恋愛という試練を与えられていたからだ。もう2ヶ月ほど隼人に会っていない。

「もしもし、まりちゃーん!今仕事終わったよ。今日さ、先輩と昼食ったんだけど、俺何食べたか当てて!」
「チキン南蛮でしょ?隼のことだからどうせチキン南蛮にご飯大盛り!おかわりは、うーん、どうだろう。昼だし一回かな?」
「さすがだ。全部当たりだ。」
「そんなのすぐに分かるよ。」

夜の20:00に嬉しそうに鳴る電話。といってもこれは週に一度か二度の頻度だが。
その中でも隼人の希望休の話題は出ない。茉莉花の方でもどうでもいい話はすぐに思い浮かぶし伝えられるのだ。例えば今見てるドラマがもう終わりそうとか。今日はゆで卵を茹ですぎたこととか。だが、本音は隼人の予定が知りたくてたまらない。そしてその話題がいつ出るのかと24時間体制で期待していたのだ。

次の日の夜、茉莉花はさすがに痺れを切らしていた。が、なぜか「希望休とれた?」が言えない。言ってしまえば後悔することが9割9分分かっていた。なぜならば「ごめん、まだ希望休の申請してない。」という最悪の回答が来た場合、茉莉花は立ちれないと自覚しており、そのための保険もなかったからだ。そして次第に悲しくなった。こんなにも会いたいと思うのは自分だけなのだろうか?住む地域が遠く離れてしまったのだから心だけは少しでも近くにいたいと、せめて同じ気持ちでいたいと、同じものを見て同じものを食べ、同じように歳を重ねたいと強く願い、実行しようとしているのは自分だけなのだと落ち込んだ。結局のところ、隼人は「まりちゃんに会いたい。」と言うものの、あれは口だけなのだ。ついに今日も茉莉花は本題を切り出せなかった。

2日後の20:00、携帯が踊り出しそうなほど元気よく鳴る。すぐに隼人だと分かる。あえて3回ほど呼び出し音を聞いた後、茉莉花は通話ボタンを押す。

「もしもし、仕事終わった!はあ、疲れた。もう今日はだめ。コンビニで弁当買う。」
「お疲れさま!忙しかった?」
「うん、なんかさ、発注書が紛失したとか何とかいろいろトラブル続きだよ。」

こんな風に疲弊した隼人の声を聞いては茉莉花は余計に希望休の話などできなくなった。

「ねーねー、今ねセブンにいるんだけどのり弁と麻婆豆腐どっちがいいと思う?」
痺れを切らして不安に陥っている茉莉花に隼人は相変わらず呑気に尋ねる。
「ん?麻婆豆腐かなあ。私なら。」
「じゃあチキンカツにする。」
「なにそれ、なんで聞いたのよ。」
「何となく聞いただけ!!」
そんな他愛もない会話は隼人が家に着いてしまえば終わる。電話も切れる。分かっていても茉莉花はどうにもできなかった。存在しない"約束"に未来の全てを賭けていることに淋しくなり、思わず口をつぐんだ。そんなことはなにも分からない隼人の方は相変わらず、最近ハマっているバラエティ番組の話をしている。

「んで、その企画がくだんないけど本当に面白いわけね。次の放送が明日なんだけど今朝も録画したやつ見たんだよ。」

こんな話を聞いていると心底どうでもいいという気持ちと茉莉花との予定より毎週放送されるバラエティにご執心な隼人を疎ましくさえ思った。その後も隼人の方からはどうでもいい話ばかりが流れる。次第に茉莉花の方もどうでもいい話を隼人に垂れ流した。二人でそんな話をしては笑い合っていた。自然と茉莉花は笑っていた。電話を切った後、ふと希望休のことを思い出した。

「あ、また今日も言えずじまいか、、、。」

その夜、茉莉花は布団にくるまりながら淋しさに襲われ、ふと隼人に電話をかけた。もう半分は寝ている隼人が気怠げな低い声で「なに」と呟いた。
「ねえ、隼、おやすみ。」
「ん、おやすみ。」
「ねえ。」
「なに。」
「好きだよ。」
「そんなん俺も好きだよ。」
もう溶けてしまいそうな声で睡眠に落ちる限界を維持しながら隼人は言った。その後すぐに隼人の寝息が電話の向こうでゆっくり流れた。
その声を聞いた時、その一言を聞いた時、その寝息を聞いている今この瞬間に茉莉花は今までの苦悩がどうでもよくなった。思えば、隼人から来る電話のあの"どうでもいい話"を聞けるのはきっとこの世で茉莉花ただ一人だけなのだ。隼人の身の回りで起こる一切合切を、こんなにも知っているのは茉莉花だけだろう。茉莉花が今日の楽しかったことを、嬉しかったことを、面白かったことを、辛かったことを、一番に伝えたいのは隼人だ。茉莉花が隼人に伝えたいように、隼人も茉莉花にそれを言う。その詰め合わせが茉莉花と隼人のあの"どうでもいい話"の電話だ。それに気がつくと、今までの隼人との他愛もない話と電話の向こうで寝息を立てる隼人をこの上なく愛おしいと思った。もう完全に眠ってしまった隼人に茉莉花は小さな声で話しかけた。
「私、隼に期待してずっと待ってたの。でも全然連絡くれないじゃん。ちょっと悲しくなったよ。別に我儘言ってるわけじゃない。ただ隼は同じ気持ちじゃないんだって悲しかったの。でもね、私少し先を間過ぎてたみたい。だって私、何でもかんでも一番に隼に言いたいもん。隼もそう思ってて、その相手が私だったんだって、今ちゃんと分かった。それがどれだけ幸せなことか気付いたよ。だから希望休はいつでもいいよ、あと少し待っててあげる。おやすみ。」
茉莉花はゆっくり目を閉じた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み