第1話
文字数 1,979文字
ももが産まれた日。
柴犬のみかんがやってきた。
赤ちゃんが誕生したお祝いにと、親戚のおばさんからの贈り物だった。
『もも』と、『みかん』。
つまりは『桃』と『蜜柑』の、缶詰コンビ。
ももたちは、「ヨーグルトに入れたら美味しい組み合わせだね。」とかいう風に、家族に何度もからかわれた。具体的に言うと、たとえば一人と一匹で白いもふもふの布団に潜っている時、お父さんが「あ、フルーツヨーグルト!」、お母さんが「お、甘すぎヨーグルト!」と言いながらカメラを持ってきてパシャパシャ写真を撮った。
みかんは穏やかな犬だった。
どんな凶暴な犬が喧嘩をふっかけてもワンワン吠えることがなかった。きっと、喧嘩に興味がなかったのだろう。それよりも……そう、エサを食べる時間や、家族が料理をする時間。そういう平和な時間に、みかんは幸せそうな表情をしてブンブンしっぽを振っていた。
たとえばももが台所に立っていると、みかんは決まって足元に寄ってきてくるくる纏わりついてきた。
ゼリーや、フルーツジュースや、タルト、チーズケーキ。趣味でそんなお菓子ばかり作っていたももは、いつもみかんと一緒だった。みかんは犬に備わった鋭い嗅覚で、甘いお菓子の香りをくんくん嗅いで楽しんでいたのかもしれない。
十二歳の夏。
パティシエになりたいな、なんて。ふと、ももが思ったのは。きっとみかんと一緒に台所に立つ時間が、嫌いじゃないなと思ったからなのだろう。
本格的にお菓子の勉強をしようと、ももは決めた。
将来的にはお店で自分のお菓子を作って売りたい。そして、そのためにまずは専門学校に進学することが第一目標だ。そう決心して、中学生になったももは、近所の製菓教室に通い始めた。
そこで『松くん』という男の子に出会った。
一緒にお菓子作りの勉強をするうちに仲良くなって、ふとしたきっかけで付き合い始めた。
初めてのデートは、カフェだった。その次は、和菓子が出てくる不思議な雰囲気のお店だった。そうして、お互いの家に上がるようになってからは、二人でお互いにお菓子を披露することも多かった。
……そうして。
十六歳の冬。————クリスマスが、やってきた。
十二月の二十五日。
松くんとももは、美味しいケーキ屋さんがあるから、二人で食べに行こうと約束していた。
高校生。十六歳。
今は、人生で一番いい時期。お花ならば最も美しく咲き、お星ならば最も綺麗に輝く、そんな風に眩い若者の特別特権期間だと、もものおばあちゃんが言っていた。
ももはずっと楽しみにしていた。松くんも、今日という日を大事に大事に待っていたに違いない。
……でも。
「……ねえ。松くん。」
電話を、かける。
『どうしたの、ももちゃん?』と応える松くんの声は、いつも通りでのんびり優しかった。
……ごめん。松くん。
ももは、胸の中で松くんに謝る。謝りながら、小さな声で松くんに喋りかけた。
「あのね……昨日、うちの犬が、死んじゃったの。」
しばしの間。松くんが無言になった。そして、静かな声がももの電話口に届く。
『………そういえば。ももちゃんの犬……おじいちゃん犬だったね。』
「うん。十六歳。」
『僕たちと、同じだね。』
「……うん。」
涙が出そうになる。
ももは、息を吸って、吐いて。そして、囁くように、けれどしっかりと……自分が言うべきことを言った。
「松くん。今日のおやつ……私の家で食べてくれない?」
『……ももちゃんの?』
「うん。……出せるもの、ただのヨーグルトだけしかないんだけど。」
松くんが、一瞬驚いたように沈黙した。
拒否されるだろうか……と、ももが不安になりかけた時。松くんの返事があっさり聞こえてきた。
『いいよ。』
その声は、やっぱりいつも通りだった。
いつも通りの、穏やかな松くん。気負いも、不満も、あらゆる負の感情をとっぱらって、「ああ、松くんだな。」と思うような声。
辛い時に優しい人がいるっていうのは、なんて素晴らしいことだろう。そう思えば思うほど、ももは泣きそうだった。泣きそうなのをこらえながら、ももは松くんに言葉を返した。
「……ごめん。ケーキ、楽しみにしてたよね。」
『ううん。ももちゃんの手が加われば、何でも魔法みたいに美味しくなるよ。もちろん、ただのヨーグルトでもね。』
松くんの電話越しの声が、じんわりと胸に染み込んでくる。
ついに涙が滲む。
ももは、目を閉じた。
……桃缶と蜜柑缶を買ってこよう。
………そして松くんと二人で、甘ったるいヨーグルトを食べるんだ。
「ありがとう。松くん。」
ももは、噛み締めるように決意した。
食べよう。
そうして、クリスマスを静かにお祝いしよう。
フルーツヨーグルトでお祝いしよう。
享年十六歳のみかんおじいちゃんも、青春真っ盛りの十六歳の私たちも、関係ない。
同じ小さな松のテーブルを囲んで、スプーンで白いヨーグルトを掬って。
……そうして。
特別やさしい、冬のひとときを味わおう。
柴犬のみかんがやってきた。
赤ちゃんが誕生したお祝いにと、親戚のおばさんからの贈り物だった。
『もも』と、『みかん』。
つまりは『桃』と『蜜柑』の、缶詰コンビ。
ももたちは、「ヨーグルトに入れたら美味しい組み合わせだね。」とかいう風に、家族に何度もからかわれた。具体的に言うと、たとえば一人と一匹で白いもふもふの布団に潜っている時、お父さんが「あ、フルーツヨーグルト!」、お母さんが「お、甘すぎヨーグルト!」と言いながらカメラを持ってきてパシャパシャ写真を撮った。
みかんは穏やかな犬だった。
どんな凶暴な犬が喧嘩をふっかけてもワンワン吠えることがなかった。きっと、喧嘩に興味がなかったのだろう。それよりも……そう、エサを食べる時間や、家族が料理をする時間。そういう平和な時間に、みかんは幸せそうな表情をしてブンブンしっぽを振っていた。
たとえばももが台所に立っていると、みかんは決まって足元に寄ってきてくるくる纏わりついてきた。
ゼリーや、フルーツジュースや、タルト、チーズケーキ。趣味でそんなお菓子ばかり作っていたももは、いつもみかんと一緒だった。みかんは犬に備わった鋭い嗅覚で、甘いお菓子の香りをくんくん嗅いで楽しんでいたのかもしれない。
十二歳の夏。
パティシエになりたいな、なんて。ふと、ももが思ったのは。きっとみかんと一緒に台所に立つ時間が、嫌いじゃないなと思ったからなのだろう。
本格的にお菓子の勉強をしようと、ももは決めた。
将来的にはお店で自分のお菓子を作って売りたい。そして、そのためにまずは専門学校に進学することが第一目標だ。そう決心して、中学生になったももは、近所の製菓教室に通い始めた。
そこで『松くん』という男の子に出会った。
一緒にお菓子作りの勉強をするうちに仲良くなって、ふとしたきっかけで付き合い始めた。
初めてのデートは、カフェだった。その次は、和菓子が出てくる不思議な雰囲気のお店だった。そうして、お互いの家に上がるようになってからは、二人でお互いにお菓子を披露することも多かった。
……そうして。
十六歳の冬。————クリスマスが、やってきた。
十二月の二十五日。
松くんとももは、美味しいケーキ屋さんがあるから、二人で食べに行こうと約束していた。
高校生。十六歳。
今は、人生で一番いい時期。お花ならば最も美しく咲き、お星ならば最も綺麗に輝く、そんな風に眩い若者の特別特権期間だと、もものおばあちゃんが言っていた。
ももはずっと楽しみにしていた。松くんも、今日という日を大事に大事に待っていたに違いない。
……でも。
「……ねえ。松くん。」
電話を、かける。
『どうしたの、ももちゃん?』と応える松くんの声は、いつも通りでのんびり優しかった。
……ごめん。松くん。
ももは、胸の中で松くんに謝る。謝りながら、小さな声で松くんに喋りかけた。
「あのね……昨日、うちの犬が、死んじゃったの。」
しばしの間。松くんが無言になった。そして、静かな声がももの電話口に届く。
『………そういえば。ももちゃんの犬……おじいちゃん犬だったね。』
「うん。十六歳。」
『僕たちと、同じだね。』
「……うん。」
涙が出そうになる。
ももは、息を吸って、吐いて。そして、囁くように、けれどしっかりと……自分が言うべきことを言った。
「松くん。今日のおやつ……私の家で食べてくれない?」
『……ももちゃんの?』
「うん。……出せるもの、ただのヨーグルトだけしかないんだけど。」
松くんが、一瞬驚いたように沈黙した。
拒否されるだろうか……と、ももが不安になりかけた時。松くんの返事があっさり聞こえてきた。
『いいよ。』
その声は、やっぱりいつも通りだった。
いつも通りの、穏やかな松くん。気負いも、不満も、あらゆる負の感情をとっぱらって、「ああ、松くんだな。」と思うような声。
辛い時に優しい人がいるっていうのは、なんて素晴らしいことだろう。そう思えば思うほど、ももは泣きそうだった。泣きそうなのをこらえながら、ももは松くんに言葉を返した。
「……ごめん。ケーキ、楽しみにしてたよね。」
『ううん。ももちゃんの手が加われば、何でも魔法みたいに美味しくなるよ。もちろん、ただのヨーグルトでもね。』
松くんの電話越しの声が、じんわりと胸に染み込んでくる。
ついに涙が滲む。
ももは、目を閉じた。
……桃缶と蜜柑缶を買ってこよう。
………そして松くんと二人で、甘ったるいヨーグルトを食べるんだ。
「ありがとう。松くん。」
ももは、噛み締めるように決意した。
食べよう。
そうして、クリスマスを静かにお祝いしよう。
フルーツヨーグルトでお祝いしよう。
享年十六歳のみかんおじいちゃんも、青春真っ盛りの十六歳の私たちも、関係ない。
同じ小さな松のテーブルを囲んで、スプーンで白いヨーグルトを掬って。
……そうして。
特別やさしい、冬のひとときを味わおう。