第1話

文字数 1,586文字

「先輩!コーヒー買ってきましたよー。」
「・・・・・・おー、そこ置いといて。」
 独特の匂いがこびりついたままこもった空気を新鮮にするために、できるかぎり元気な声をだしたつもりだ。けれど、先輩はいつも通り振り向かないし、部屋の中ではカチコチと時計が針を進める音だけがする。すっかり慣れたその空気に少し安心しながら、背を丸めて動かないままの先輩が指差す、少しだけ空いたスペースにまだ温かい缶コーヒーを置く。私が席に着くと、思い出したように先輩が「ありがと。」と言った。
 先輩の視線はずっと動かないから、まるで会話している気がしない。たぶん、先輩もそう思っているはずだ。
 先輩の机の上は初めて会った時から紙だらけ。一瞬でもつつけば、全て崩れてしまいそうだといつも思う。どこになにがあるのか、持ち主である先輩すらもよく分かっていなさそうな気がする。
 ここはどこにでもあるような大学の創作サークルで、部員は私と先輩だけだ。お互いに背を向けるように置かれた二つの机と壁一面の本棚しかない小さな部屋で、今日も先輩と私は小説を書いている。
 先輩は有名な賞の佳作を取ったことがあるすごい人で、私はまだ一作も書き上げたことがない情けない人だ。
 私はパソコンに打ち込んで小説を書くけれど、先輩は鉛筆で升目がたくさんある用紙に書きこんでいる。古いやり方のような気もするけれど、先輩はそれが一番やりやすい方法だと言う。
 先輩はこの部屋にいる間は本当に動かない。静止画をずっと見ているような気分になるほどに。私がなにをしても先輩は動かない。死んでいるんじゃないかと心配になるけれど、先輩はたまに私におつかいを頼む。
 缶コーヒー、ブラックのやつ。お願い。
 そう言う時も先輩は動かない。けれど、近付くと分かる。先輩はいつだって小説を書いている。頭の中に凡人じゃ考えつかないような素敵な世界を思い浮かべて、それを美しく瑞々しい言葉で表現する。できあがった小説を私は一番に読ませてもらえるけれど、読むたびに圧倒され感動している。
 私が小説を書く理由は先輩みたいになりたい、と思っているからだと本人に伝える気はさらさらない。そもそも、先輩は私にまったく興味を示さないのだから言う機会だってないのだ。私が小説を書き始めたのは、このサークルに入ってからだということさえ、先輩は知らない。
 買ってきた缶コーヒーの封を先輩が開けるのは、私がおつかいをしてから一時間ほど経った頃だ。ぬるくなっているはずなのに、先輩はなにも言わない。そして、一息ついた後すぐに鉛筆を持って背中を丸める。
 とても不健康な姿なはずなのに、私にはそんな先輩がとても輝いて見える。
 先輩は動かないから知らないだろう。私が一時間おきに振り返って、一時間前と変わらない姿勢で創作に励む先輩を見て、とても励まされていることを。
 私も先輩みたいになれるようにと、パソコンに向き合う。一生懸命キーボードを叩いて、数分後にはバックスペースキーを押す。書き始めて一年が経つのに、一作も完成していない。それでも私はキーボードを叩き続ける。いつか先輩みたいに人を感動させることができるような小説を書くために。今はただ頑張る時なのだ。

 どこにでもあるような大学の小さな部屋では、今日もサークル活動が行われている。窓の前には壁一面の大きな本棚が置かれ、太陽の光を遮っている。それぞれ壁に向けて置かれた机が二つ。片方にはパソコンと時計が、もう片方には今にも崩れ落ちてしまいそうな紙の山が。キーボードを叩く音とカチコチと時計の針が進む音が響き、時折鉛筆削り器がけたたましい音を立てる。
 飲み食いも忘れるほど創作に熱中していた、猫背の先輩が柔らかく低い声で時折言う。
 缶コーヒー、ブラックのやつ。お願い。
 なかなか進まない状況に疲れを感じていた後輩が、その言葉に笑顔で応える。
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