日記

文字数 1,547文字

 杏子は県の中心駅近くに所在する市立図書館へ来ていた。毎週末の休日を図書館で過ごすことが彼女の慣習の一つだった。そう言いつつも、彼女は鮮明な目的を持ってこの場に来ていない。というのも、彼女は自身の直感と興味にえらく正直な女だった。理性が乏しい訳ではない。ただ、先週は文豪の文庫本を読み終えたかと思えば、以前から気に留めていたワインの入門書も手に取った。また読み終えれば、入館の際に見かけた女性誌のことを思い返して半ば急ぎ足で図書館中を練り歩くのである。
 こうした徒然なる読書生活を彼女は学生の頃から続けている。今日ここに来たのもまた同様の為であり、たった今、和色事典を読み漁ったばかりだった。

 杏子は本を返すついでに訪れようと心に決めていた場所があった。そこは一ヶ所の本棚である。元は先週に読んだワインの入門書を棚に戻す際に横切っただけなのだが、彼女はその棚と棚の空間が妙に好奇心をくすぐられたのだ。
 何故かと言うと、図書館の中央にある柱がその棚の近くに大きな影を落としていた。
 杏子はここにはエキゾチックな本が必ずあると根拠のない確信を持っていた。いつもであれば暗がりには少々たじろぐであろう彼女も、昼間の図書館という空間と己の溢れんばかりの興味関心が些細な恐怖心を既に払い除けていたである。

 棚の周囲を見渡してみるものの、幸い、柱と棚の間には人一人は通れる空間があり、本の背表紙が読めないというわけではない。ここにあるのは、どうやら近現代の小説家やあるいは和歌集や小説の研究・解説に分類された棚らしい。
 しかし、彼女の目に留まったのは、夏目漱石の「明暗」の続きを論じた本でも、和歌から中古時代の生活様式を考察した本でもない。たった一冊の背表紙に名前が載っていない本である。
その本には蔵書なら必ずあるはずのラベルがなかった。それどころか、表紙にも表題紙にもタイトルがない。となればとページを捲るが、奥付けもない。題名どころか、筆者も分からない本だった。

 杏子は確固たる違和感に導かれるまま、その本を開いた。書かれていたのは、日付と曜日。そしてその日に過ごした事柄。それらが活字でなく手書きで書かれているではないか。
 杏子はこれが日記であることに気付くまでそう時間がかからなかった。きっと(持ち主であろう)誰かが本と誤って棚に入れてしまったのだ。杏子は大体このようなことを考えていた。

(これ、人の日記だ。流石に読んだら駄目だよね)

 しかし、彼女は自身の興味に従順な女である。この棚が陰に隠れていることを良いことに、彼女はこの日記を始めからその場で読み始めたのである。

 序盤の日記の日付はおよそ半年前。
 いつもぺちゃくちゃうるさい女子高生の群れ。喋りたいならよそに行け

 書かれていたことは殆どこのようなことである。

 中盤は約三ヶ月前。
 あのじじい、ここに菓子だジュースだ持ち込んで口にするだなんて頭湧いてんじゃねえの。子供でもしねえよ

 杏子は日記を読み進める。掻い摘んだ箇所に限らない。中身は誰かへの不満や愚痴ばかりである。どれも攻撃的な内容に杏子は次第に眉を顰めていた。

 そうしているうちに最後のページに行きついた。その瞬間、杏子はこれまでに感じていた憤怒に近い感慨が上塗りされたように、所感の数々が足から抜け落ちた。胸中にあるのは驚愕と恐怖。杏子は思わずスマートフォンを手に取った。日記に乗っていた日付は紛うことなく今日だった。そのページには、大きく書き殴った文字で

『人の日記を勝手に見るな』
 と書かれていた。

 杏子は次第に気味が悪くなり、日記を閉じようとした。その途端へ割り込むように、
「お前のことだよ」
 柱の裏から声がした。杏子は棚の影が次第に光を飲み込むように黒く、濃くなるのを感じた。
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