第1話

文字数 2,226文字

 見知らぬ女に胸ぐらを掴まれて、「あんた、智也のなんなのさ」とすごまれた。なんなのもなにも私は智也の彼女である。されど見知らぬ、出会い頭にひとの胸ぐらを掴むようなこの失礼な女に対して、名乗る義理もない私は黙っていた。
 女は鏡の前で練習してきた通り、といった目つきで私のことを睨みつけていたが、向こうから智也がやって来るのを認めると、ぱっと手を離してうわあああと叫びながら去って行った。
 気の毒ではあるが、私にとってはとんだ災難だった。これはメンヘラ製造機の智也のなせる技だ。彼には人をかきたてる、狂おしいほどの魅力があった。手加減なしにどの女に対しても誠心誠意で接するものだから、勘違いした女がひっきりなしに彼に体当たりしては砕けていくのだ。智也のことしか視界に入っていなかった、なにしろ智也と私は三十センチ以上身長差があるのだ、彼を見上げてばかりいた女たちは、粉々の欠片となって地面に這いつくばり、そこで初めて智也のでかい靴の隣に私の左右非対称のカンペールの靴が並んでいることに気づく。その存在を認識する。智也の世界を隙間なくみっちり満たしている、私という存在を。
 つくづく不思議に思うのは、目当ての男に意中の人がいたとして、その女に、嫉妬するのはどういう作用が働いているのか。全く意味がわからない。相手にされていないとわかったのなら、諦めるか、もしくは自分磨きに励むまでだ。諦めたのなら、さっさと次の男を探せばよいだけの話、何しろ世の中半数は男なのだ。諦めたくないのなら、その女より自分がいい女になって、目当ての男に振り向いてもらえる可能性を高めればよいだけだ。対抗意識を燃やして女に嫌がらせをしてくる暇などがあるなら、顔ヨガでもして、その性格が表れて口元がひん曲がっていくのを阻止する努力でもすればいいのに。とばっちりをくらう私はいつもいい迷惑だった。
 私はもてる男が好きだったので、智也がもてることに関しては一向に構わなかった。これもつくづく不思議なのだが、彼氏が他の女から一方的に告白されたり、追いかけ回されたりすることにいちいち腹を立てる女がいるが、それのどこがいけないことなのか、まったくもって理解に苦しむ。どうなることを望んでいるのだろう。放っておいても後から後から取り巻きが沸くことのどこに、彼の落ち度があるというのか。他の女が惹き寄せられるのと同じ部分、彼の引力こそ、自分が彼のことを好きになった最たる部分なのではないのか。そこがあるからこそ彼は魅力的なのであり、他の女を寄せ付けたくないがため、それを自分の男から抹消せんとするなど、正気の沙汰ではない。ただ他の女が欲しくてたまらない彼の寵愛を自分は一身に受けている、その事実を喜んでいればよいではないか。誰からも色目を使われない男になど、私は魅力を感じないのだ。
 ところで私はと言えば、恥ずかしさにより隠れるのに全力を注ぐゆえ、いつも低く見積もられた。いるのに存在をないものにさえされた。いいことを教えてやるが、いい男はそういう女が好きなのだ。何につけても私私私私私を見て見て見て見て、とやかましい女には辟易こそすれ、魅力を感じることはない。なぜなら、望む、望むまいとに関わらず、表に引っ張り出され続けた彼らは休息を求めており、ありとあらゆる手段を用いてその視界に入って認知されようと躍起になる女たちには、ほとほと疲れ果てているのだ。
 智也も男である限り、女好きであるのは当然なのだったが、私という彼女を得てからは一途になった。だからといって、他の者を無下に扱うというわけではなく、相変わらず誰に対しても同等に丁寧に接し続けるのだったが、ある時智也がいないとしぬと智也に脅す女が表れた。例によって私の存在は認識されもしなかったので、実際智也が私と過ごしている間に、身の程もわきまえず、その女は様々な方法を用いてじさつを試みては一命を取り留める、ということを繰り返した。
 こういった場合、どうすれば正解なのだろうか。結果として、智也は私と別れ、その女の元へと行った。死なれてはかなわないとのことだった。よっぽど死にたいのは私の方だったが、私は智也のことが好きだったのだ。私のやりたいことは好きな男が好きなようにすることだったので、私は智也に従った。
 別れたからといって、気持ちが変わるわけではない。好きな気持ちに変わりはなかった。それは彼としても同じだったようで、智也の心の中には私が居続けたのだ。奪うことができたのに、身体はすぐ隣にいるというのに、いつまでも前の女を想い続ける男といるというのはどれほどの苦痛をもたらすことなのか。わからぬでもないが、その女はいよいよ耐えられなくなったか、結局じししてしまうのだ。
 私はひとごろしにあたるのだろうか。また次に同じようなことが起こったとして、私は自分の取るべき態度がわからない。嫌だ嫌だと駄々をこね、そもそも別れない方がよかったのか、嘘でももう嫌いです、と智也を突き放せばよかったのか、あなたはあの女を選んだのだから、もう私のことを好きでい続けてはいけません、と、智也に諭すべきだったのか、それともこの件と私とは一切関係がないので、そんなことを思い煩う必要はないのか。
 別れてしまった私がどこかの女に「あんた、智也のなんなのさ」と胸ぐらを掴まれることはもうない。にも関わらず、次に備えてあれやこれやといまだに私は考えてしまうのだった。
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