第1話

文字数 1,637文字

これは私が幼かった頃、親戚の集まりでの出来事だ。あの頃は祖父が存命で、叔母達との関係も、時折は不穏な気配を漂わせつつ、まだ長閑なものだった。
近所の―さん、首を吊ったらしいよ。と、酒が回ったらしい叔母が話しているのが聞こえる。
私は押入れで布団にくるまり、本を読んでいた。押入れには、ふだん使われる事の無い客用布団が、うずたかく積まれ、その間に入り込むと僅かな隙間さえ無く、布団が覆いかぶさってくる。季節は夏で、私は汗ばんでいた。長く放置された布団に特有の温い湿り気を感じながら、気怠く目を閉じる。そうすると、自分の境界がどこまでかが、ひどく曖昧になる。その感覚が私は好きだった。
祖父の家が、じゅうぶんに広かったにも関わらず、しばしば、私が暗く狭い押入れで過ごしたのは、それが理由だ。私は、兄のように、眩しい日差しの中で蜻蛉を追いかけるような子供ではなかった。
「若い頃は景気が良くて贅沢してたみたいだけど、年取ってからは家賃も払えなくなって、妹夫婦の家に居候してたのよ。そう、南谷の小間物屋さん。でも、そっちの子供だって大きくなってくるわけだし、そうなるとやっぱり、部屋が欲しい、おばさんが邪魔だって、なってくるじゃない。居心地は良くないわよね。それで、ある時、起きてこないから見に行ったら、鴨居に縄かけて首吊ってたって。洒落た人だったから、田舎で妹夫婦に小遣い貰いながら細々と暮らしていくのが耐えられなかったのね」
叔母は、同じ部屋に私が居ると気付いていなかったのかもしれない。叔母の声は、押入れの中に居ても、よく聞こえた。押入れの中とはいえ、あんな話が聞こえる位置に自分の子供が居るのを、母は良しとしないだろうから、その時、母は、きっと居なかった。台所で皿を片付けていたのか、そもそも、あの席に母は来ていなかったのか……。
―まぁでも、好きに生きた結果だから、仕方ないわよね。
あらかじめ決めていたような、滑らかで淀みの無い口調で、そう言って、叔母は話を締めくくった。
親戚の何人かが、叔母の結論に同調して頷く。その内の一人は茂伯父さんで、母に言わせれば、若い頃に都会へ出ようとして引き止められ、親の薦める相手と結婚した人だ。
私は―さんを知らなかったし、叔母が語る―さんの話も全くの他人事だった。それなのに、この出来事をいまだに覚えているのだから、何かしら、当時の私の心に引っかかるものがあったのだろう。
後年、駅のホームや船上で、「今、飛び込んだら、どうなるのか」と考えた時、私の頭に思い浮かぶのは、いつも、この時の記憶だった。普通、どのくらいの死を大人になるまでに経験するのか、私は知らないので、多いとも少ないとも言えないが、今まで私の周りで死んだ人が他に居なかったわけではない。
小学生時代には、マラソン大会が、コース途中で人が死んでいたとかで急遽中止になった事がある。何でも、それも自殺だったらしい。後に聞いた話では、大阪から来た人がガソリンをかぶって火を点けたそうだ。
私は走るのが遅かったので、私が着いた頃には既に現場は立ち入り禁止になっていて、先に着いた子供達が寄り固まって泣いていた。クラスで一番足が速かったNさんは、もろに死体を見てしまったらしい。ぐったりとした様子で蹲り、先生に背中をさすられていた。
別に慰める言葉も思い浮かばないので、黙って立っていたら、風向きが変わったのか、立ち入り禁止の方角から臭いが漂ってきた。黒焦げになるまで焼いた肉のような、食欲はそそられないけれど「肉が焼けている」と明らかに分かる臭いだった。鼻をおさえた覚えがあるので、良い匂いでなかったのは確実だ。しかし、それは焼けているのが人だと知っていたからかもしれないし、あるいは肉ではない部分が焼ける臭いだったのかもしれない。
もっと近しいところでは、―さんより遥かに近しい関係である祖父母の死すら経験してきたのに、見知らぬ―さんが、死という一点で、こんなにも深く私と結びついているのが不思議だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み