さめない夢とさめた珈琲
文字数 2,573文字
忘れられない苦味があった。
飲み干せずいつまでも口の中に残っている苦味だった。
「就職?」
「あぁ、就職」
「誰が?」
「オレ」
昭和レトロと言えば聞こえがいい、ただ年配のマスターが老後の楽しみにやっている古臭いだけの喫茶店。そこがオレとオレの正面に座る杉田の始まりの場所だった。
「ちょっとまて、就職? 竹内が?」
困惑して頭を抱える杉田に、オレは黙ってうなずく。杉田はそれを見てあーだとかうーだとか唸ったあと急に静かになった。
無言で互いの正面に置かれたコーヒーカップを見つめる。
「ごめん」
先に口を開いたのは杉田だった。
「なんで、杉田が謝んの」
思わず呆れた声が出た。
「竹内の歌、俺が世界に広めるって言ったのに」
一瞬、泣いているのかと思った。それほどに杉田の声が震えていた。
オレはその言葉を聞いて、そんなことも言われたなと8年前の始まりの日を思い出していた。
オレ達の友情は音楽でできていた。なんて中学生の下手くそな詞のようだ。けれど、紛れもなくオレ達の友情は音楽から生まれた。
高校一年の4月。同じクラスで出席番号が前後、最初の接点はそれだけで、初日に挨拶したきり話すことはなかった。真面目で明るいクラスの人気者の杉田とひねくれた小心者のオレ、交わることはないと思っていた。それが変わったのが、9月の音楽の授業。合唱コンクールが近くパートごとに別れた練習をそれとなくこなしていたオレにパートリーダーをしていた杉田が話しかけてきた。
「竹内くんさ、音感めちゃくちゃいいね」
「音感?」
「そうそう、この曲難しいのに、最初の練習から一度も音を外さない」
「たまたまだろ?」
「たまたま音外すことはあってもたまたま音を外さないことはないよ。なんか音楽やってた?」
「いや、やってない」
「そうなの? じゃあ、もともと持ってるものなのかな」
「さぁ、オレにはわからないけど」
「そっか、じゃあよろしくね!」
そう言って杉田は練習に戻って行った。このときなぜ杉田がオレに話しかけてきたのかも、最後の言葉の意味もわからなかったが、その日のホームルーム、ソロパートを選ぶ話し合いでその意味はすぐにわかった。
「男子のソロパートに竹内くんを推薦します」
パートリーダーとして意見を求められた杉田はクラス全員の前でそうはっきりと答えたのだ。
やられた。よろしくってそういう意味か。
立候補者がいなかった男子ソロパート。膠着状態が続き、我慢比べの様相を呈していた教室に突如として投げ入れられたこの発言はオレ以外のクラスメイトにとって希望の光だ。クラスメイトの終わらせてくれという視線を一身に浴びたオレに首を横に振る勇気などなかった。
「ごめん」
帰り道、一言文句を言ってやろうと杉田をとっ捕まえたオレに杉田は思っていたよりあっさりと謝った。
「なんで、あんなことしたんだ」
出鼻をくじかれたオレは言うつもりだった文句も引っ込んで理由を聞いていた。杉田は少し悩んだあと顔を赤くして答えた。
「……竹内くんがクラスで一番いい歌声してるから」
「はぁ?」
「だから! 竹内くんの歌をソロで聴きたかったの! わるい!?」
杉田は耳まで赤くして叫んだあと走って行ってしまった。残されたオレもなんだか恥ずかしくなって、熱くなった顔を、課題曲の楽譜を確認するふりをして隠しながら帰った。
結果だけ言えば、オレのソロパートは評判が良かった。クラスメイトにも教師にも、他クラス他学年にも。すれ違えば声をかけられた。
調子に乗るなと自制する自分と、浮かれる自分とでどうにもおかしなテンションになっているときに、ギターバッグを背負い五線譜の入ったファイルを持った杉田にまた声をかけられたのだ。
連れてこられた喫茶店で、コーヒーを初めてブラックで飲んだのだ。
杉田がブラックで、なんて言うから、つい見栄を張ってオレもと言ってしまった。運ばれてきたコーヒーの黒さに少し驚いたが、すぐに口をつける杉田にならってオレも一口飲んだ。
苦くて、少し酸味があって、どこか甘い。
朝ごはんがパンのときに時々牛乳に溶かすインスタントコーヒーで飲むカフェオレしか知らないオレには未知の味だった。
「思ってたより、おいしいでしょ?」
いたずらが成功したかのように笑う杉田は教室で見る顔とはまったく違って見えた。
「あぁ、そうだな」
そしてコーヒーを飲み終わったころには、オレは杉田と一緒に音楽をやることになっていた。
なにが決め手になったのかは覚えていない。
ただ、コーヒーの味と竹内くんの歌を世界に届ける曲を作るというビックマウスに笑ったことは覚えている。
8年、長いようで短い期間、必死で音楽をしていた。
杉田は小さい頃から音楽と共に生きていて、オレに、音楽と生きていく術を教えてくれた。
楽譜の読み方、書き方。録音の方法。音楽の楽しみ方。
見様見真似でがむしゃらで不格好で、苦しくて悔しくて、楽しかった。
それも、今日で思い出になる。
「勝手に決めてごめんな」
杉田の顔はうつむいていて見えない。
「杉田、オレに夢をくれてありがとう」
杉田がはっとしたように顔を上げた。泣きそうだ。
「竹内、俺はまだ、諦めない」
あぁ、これだ、この意志の強い目だ。これがオレにはないものだ。
「オレがいなくても杉田なら一人で夢を叶えられる。なぁ杉田、オレに夢の続き、みせてくれ」
少し冷めてしまったコーヒーを一口。苦味だけが口の中に広がっていく。
「……わかった、引き止めない。今までありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
コーヒーを飲み終わる前に、オレ達の音楽は終わった。
それから1年。就職し、新しい生活にも慣れてきた。部屋にはもう、楽器も楽譜もない。
『本日のゲストはシンガーソングライターの杉田ミツルさんです!』
休憩に入った職場の近くの古臭い喫茶店のテレビから覚えのある名前が聞こえ、思わず視線を上げる。
情報番組のアーティストを紹介するコーナー、アナウンサーとタレントに挟まれて杉田がギターを持って立っていた。
「ほらな、オレがいなくても、大丈夫だったろ」
つぶやいてコーヒーを一口。
苦くて、少し酸味があって、やっぱり苦い。
あの甘さとはもう出会えないのかもしれないな。
「一人で飲むコーヒーは、思ったより苦いよ」
テレビの向こうで、杉田が笑っている。
飲み干せずいつまでも口の中に残っている苦味だった。
「就職?」
「あぁ、就職」
「誰が?」
「オレ」
昭和レトロと言えば聞こえがいい、ただ年配のマスターが老後の楽しみにやっている古臭いだけの喫茶店。そこがオレとオレの正面に座る杉田の始まりの場所だった。
「ちょっとまて、就職? 竹内が?」
困惑して頭を抱える杉田に、オレは黙ってうなずく。杉田はそれを見てあーだとかうーだとか唸ったあと急に静かになった。
無言で互いの正面に置かれたコーヒーカップを見つめる。
「ごめん」
先に口を開いたのは杉田だった。
「なんで、杉田が謝んの」
思わず呆れた声が出た。
「竹内の歌、俺が世界に広めるって言ったのに」
一瞬、泣いているのかと思った。それほどに杉田の声が震えていた。
オレはその言葉を聞いて、そんなことも言われたなと8年前の始まりの日を思い出していた。
オレ達の友情は音楽でできていた。なんて中学生の下手くそな詞のようだ。けれど、紛れもなくオレ達の友情は音楽から生まれた。
高校一年の4月。同じクラスで出席番号が前後、最初の接点はそれだけで、初日に挨拶したきり話すことはなかった。真面目で明るいクラスの人気者の杉田とひねくれた小心者のオレ、交わることはないと思っていた。それが変わったのが、9月の音楽の授業。合唱コンクールが近くパートごとに別れた練習をそれとなくこなしていたオレにパートリーダーをしていた杉田が話しかけてきた。
「竹内くんさ、音感めちゃくちゃいいね」
「音感?」
「そうそう、この曲難しいのに、最初の練習から一度も音を外さない」
「たまたまだろ?」
「たまたま音外すことはあってもたまたま音を外さないことはないよ。なんか音楽やってた?」
「いや、やってない」
「そうなの? じゃあ、もともと持ってるものなのかな」
「さぁ、オレにはわからないけど」
「そっか、じゃあよろしくね!」
そう言って杉田は練習に戻って行った。このときなぜ杉田がオレに話しかけてきたのかも、最後の言葉の意味もわからなかったが、その日のホームルーム、ソロパートを選ぶ話し合いでその意味はすぐにわかった。
「男子のソロパートに竹内くんを推薦します」
パートリーダーとして意見を求められた杉田はクラス全員の前でそうはっきりと答えたのだ。
やられた。よろしくってそういう意味か。
立候補者がいなかった男子ソロパート。膠着状態が続き、我慢比べの様相を呈していた教室に突如として投げ入れられたこの発言はオレ以外のクラスメイトにとって希望の光だ。クラスメイトの終わらせてくれという視線を一身に浴びたオレに首を横に振る勇気などなかった。
「ごめん」
帰り道、一言文句を言ってやろうと杉田をとっ捕まえたオレに杉田は思っていたよりあっさりと謝った。
「なんで、あんなことしたんだ」
出鼻をくじかれたオレは言うつもりだった文句も引っ込んで理由を聞いていた。杉田は少し悩んだあと顔を赤くして答えた。
「……竹内くんがクラスで一番いい歌声してるから」
「はぁ?」
「だから! 竹内くんの歌をソロで聴きたかったの! わるい!?」
杉田は耳まで赤くして叫んだあと走って行ってしまった。残されたオレもなんだか恥ずかしくなって、熱くなった顔を、課題曲の楽譜を確認するふりをして隠しながら帰った。
結果だけ言えば、オレのソロパートは評判が良かった。クラスメイトにも教師にも、他クラス他学年にも。すれ違えば声をかけられた。
調子に乗るなと自制する自分と、浮かれる自分とでどうにもおかしなテンションになっているときに、ギターバッグを背負い五線譜の入ったファイルを持った杉田にまた声をかけられたのだ。
連れてこられた喫茶店で、コーヒーを初めてブラックで飲んだのだ。
杉田がブラックで、なんて言うから、つい見栄を張ってオレもと言ってしまった。運ばれてきたコーヒーの黒さに少し驚いたが、すぐに口をつける杉田にならってオレも一口飲んだ。
苦くて、少し酸味があって、どこか甘い。
朝ごはんがパンのときに時々牛乳に溶かすインスタントコーヒーで飲むカフェオレしか知らないオレには未知の味だった。
「思ってたより、おいしいでしょ?」
いたずらが成功したかのように笑う杉田は教室で見る顔とはまったく違って見えた。
「あぁ、そうだな」
そしてコーヒーを飲み終わったころには、オレは杉田と一緒に音楽をやることになっていた。
なにが決め手になったのかは覚えていない。
ただ、コーヒーの味と竹内くんの歌を世界に届ける曲を作るというビックマウスに笑ったことは覚えている。
8年、長いようで短い期間、必死で音楽をしていた。
杉田は小さい頃から音楽と共に生きていて、オレに、音楽と生きていく術を教えてくれた。
楽譜の読み方、書き方。録音の方法。音楽の楽しみ方。
見様見真似でがむしゃらで不格好で、苦しくて悔しくて、楽しかった。
それも、今日で思い出になる。
「勝手に決めてごめんな」
杉田の顔はうつむいていて見えない。
「杉田、オレに夢をくれてありがとう」
杉田がはっとしたように顔を上げた。泣きそうだ。
「竹内、俺はまだ、諦めない」
あぁ、これだ、この意志の強い目だ。これがオレにはないものだ。
「オレがいなくても杉田なら一人で夢を叶えられる。なぁ杉田、オレに夢の続き、みせてくれ」
少し冷めてしまったコーヒーを一口。苦味だけが口の中に広がっていく。
「……わかった、引き止めない。今までありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
コーヒーを飲み終わる前に、オレ達の音楽は終わった。
それから1年。就職し、新しい生活にも慣れてきた。部屋にはもう、楽器も楽譜もない。
『本日のゲストはシンガーソングライターの杉田ミツルさんです!』
休憩に入った職場の近くの古臭い喫茶店のテレビから覚えのある名前が聞こえ、思わず視線を上げる。
情報番組のアーティストを紹介するコーナー、アナウンサーとタレントに挟まれて杉田がギターを持って立っていた。
「ほらな、オレがいなくても、大丈夫だったろ」
つぶやいてコーヒーを一口。
苦くて、少し酸味があって、やっぱり苦い。
あの甘さとはもう出会えないのかもしれないな。
「一人で飲むコーヒーは、思ったより苦いよ」
テレビの向こうで、杉田が笑っている。